神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

箱石(茨城県常陸大宮市)

2020-06-13 23:30:51 | 名石・奇岩・怪岩
箱石(はこいし)。
場所:茨城県常陸大宮市山方。国道118号線「岩井橋」交差点から茨城県道29号線(常陸太田那須烏山線)を南西に約600m、「野球場、テニスコート」という案内板が出ているところを右折(北西へ)、約270mで「野球場入口」という案内板が出ているところの反対側の道路下、田圃の中。駐車場なし(道路を更に約300m進むと「山方運動公園」の駐車場がある。)。
「箱石」は、田圃の中にある一辺1.5m程の四角い巨石で、次のような民話がある。昔、この谷あいの上に「高館山城」という城があり、城主には美しい姫があった。しかし、この城が敵軍に攻められ、ついに落城となって、城主一族は城に火を放ち、みな自刃して果てるということになった。このとき、姫は母から譲られた蒔絵の針箱だけは永遠に残したいと思い、「石になれ」と叫んで崖下に投げた。その姫の願いが叶い、針箱は「箱石」に化したという。
現・常陸大宮市山方(旧・那珂郡山方町)は、平安時代後期から常陸国北部を支配した佐竹氏の勢力下にあった。佐竹氏第12代当主・義盛には男子がなかったため、関東管領・上杉憲定の次男、龍保丸が養子に入り、応永14年(1407年)、第13代当主・義人となった。翌年、その後見役として山方盛利(元は上杉氏の一族)が「山方館(山方城)」に入った。地元では「御城(みじょう)」といい、久慈川に突き出した丘の上にあった。本丸(本郭)のあった場所に現在、「御城展望台」という模擬天守がある(国道118号線「山方トンネル」が下を通っている。)。この「御城」の南側に城下町が形成されたのが、後の旧・山方町ということになる。永正年間(1504~1521年)頃、佐竹氏第15代当主・義治の第5子・政義が分家として東氏を名乗って山方に入ったため、主筋に遠慮した山方氏は「竜ヶ谷城」(「御城」から南に約1km)に移った。さて、民話の「高館山城」であるが、「御城」の範囲は相当広く、丘の西の奥に「詰の城」(最終拠点となる城)として、階段状に構築された8つの郭からなる「高館城」があったという(現・真言宗「密教山 宝蔵寺 密蔵院」の裏手)。実は、現在は同じ常陸大宮市だが、旧・那珂郡緒川村に「高館山」(標高229m)があり、その山上にも中世の城館跡である「高館城跡」があったということで、とても紛らわしいのだが、位置的には当然、旧・山方町の「高館城」の方である。民話では時期がはっきりしないのだが、佐竹義人の時代には、佐竹氏の庶家である山入氏が謀反を起こすなど、勢力基盤が非常に脆弱な頃だったと思われる。しかし、山方氏は盛利を初代として以後7代にわたって能登守を名乗り、佐竹氏に仕えたとされる。また、「御城」が攻撃を受けて落城したという史実はないらしいので、(いつ頃落ちてきたのかはわからないが)どうやら「箱石」の存在の方から物語ができたもののようである。


常陸大宮市のHPから(箱石)

「北緯36度付近の中世城郭」さんのHPから(山方城、高館城、竜ヶ谷城)


写真1:「箱石」。道路幡に説明板があり、その下の田圃の中に「箱石」がある。


写真2:近くに寄ると、四角い形がわかる。


写真3:同上


写真4:同上


写真5:「箱石」の東側は崖。ただし、岩壁が露出しているわけでもないので、「箱石」がどこから来たのか、確かに不思議。
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鏡岩(茨城県常陸大宮市)

2020-06-06 23:55:45 | 名石・奇岩・怪岩
鏡岩(かがみいわ)。別名:月鏡石。
場所:茨城県常陸大宮市照山1578。国道118号線「小貫入口」交差点から茨城県道165号線(山方常陸大宮線)を東に約1.6kmのところ(「奥久慈グリーンライン(照山線)」案内板が建てられている。)で左折(北~北東へ)して約1.1km進み、「鏡岩入口」案内板付近で左折(北西へ)、二岐では左へ進んで行き止まりに駐車場がある。二岐の右は地図で見ると「関喜一牧場」という牧場で、「鏡岩」へは、駐車場から牧場の縁を回り込むようにして未舗装の小道を進んだ先にある。
「鏡岩」・「鏡石」と呼ばれるものは、地殻変動により硬い岩が断層活動で磨かれたもので、光を反射するほど平滑な「鏡肌(スリッケンサイド)」と呼ばれる面を持つ岩を言う。このようなものは各地にあり、埼玉県神川町、岐阜県岐阜市、三重県亀山市、新潟県佐渡市などのものが有名で、国や県などの天然記念物に指定されていることも多い。特に、埼玉県神川町の「御嶽の鏡岩」は、武蔵国五宮(社伝では二宮)「金鑚神社」(式内社・名神大)から登ってゆく「御嶽山」の中腹にあって、神体山を祭祀対象として本殿を設けない「金鑚神社」にしてみれば、これも1つの信仰対象だったのだろう。
さて、常陸大宮市の「鏡岩」も石英斑岩の断層滑り面が露出しているもので、これが「常陸国風土記」久慈郡条の記事にある「石鏡」ではないかともいわれている。即ち、「久慈郡家の西北の方向6里に河内の里がある。(中略)・・・その東の山に石の鏡がある。昔、「魑魅」(すだま、おに?)が居たが、群れ集まってきて鏡をもてあそび、自分の姿が映るのを見ると、すぐに自然と居なくなってしまった。」(現代語訳)というもの。「久慈郡家」は現・常陸大宮市薬谷町・大里町付近にあったことがほぼ確実(「長者屋敷遺跡」2019年9月7日記事参照)で、「河内里」は現・常陸太田市(上・下)宮河内町が遺称地とされるので、郡家からの方向は西北だが、距離は合っていない(直線距離で約10kmあるのに対して、古代の6里は約3.2km)。また、「鏡岩」のある照山地区は、宮河内町からすると、西側になる。なので、「常陸風土記」の「石鏡」をこの「鏡岩」に比定するのには疑問もあるのだが、伝承によれば、当地は藤原(中臣)鎌足の所領で(藤原鎌足は現・茨城県鹿嶋市の生まれとする説がある。「鎌足神社」2017年11月18日記事参照。)、この石の小片は朝廷に献上された由緒あるものであるとして、公命がないと採取できないものであったという。また、江戸時代には、「西金砂神社」の祭礼に行く途中に、女性たちが姿を映して髪を梳かしたともいわれる。残念ながら、現在ではかなり風化してしまい、光沢は失われているが、茨城県指定天然記念物に指定されている。
因みに、「魑魅」は、今でも「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」という形で使うことがあるが、「魑魅」は山の妖怪、「魍魎」は川の妖怪とされる。下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事)の「蝄」の字は虫偏だが、「魍」と同様、水の精霊を示すものだろう。「常陸国風土記」の時代でも、こうした自然の精霊(あるいは妖怪)が身近であったことが窺われる。


茨城県教育委員会のHPから(鏡岩)


写真1:「鏡岩」への入口付近。看板があったので、その奥の藪の中か、と思ったのだが、写真右手の方に小道がある。


写真2:小道を進むと東屋があって、その下に「鏡岩」がある。


写真3:「鏡岩」


写真4:石祠?
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太刀割石

2020-04-04 23:38:31 | 名石・奇岩・怪岩
太刀割石(たちわりいし)。
場所:茨城県日立市十王町黒坂。行き方は前項参照。
「黒前神社」が鎮座する「竪破山」(たつわれさん)のハイキングコースを登ると、コース沿いに巨石が散在し、それぞれに名がつけられている。古くから神仏混淆の山岳信仰・修行の山だったようで、中でも圧巻なのは、「黒前神社」参道から外れて左の道を進んだところにある「太刀割石」である。縦直径7m×横直径6m×高さ2.5m、面の周り20mという黒雲母花崗岩の巨石で、まさに太刀で斬った片側が横倒しになったような形で、その断面も綺麗な平面となっている。伝説によれば、寛治元年(1087年)、奥州合戦のため遠征途上の八幡太郎こと源義家が「黒前山」に登り、「黒前神社」に戦勝祈願をした折、白雲に乗った神から宝剣を授けられる夢を見た。目覚めると一振りの太刀があり、その切れ味を試そうと、傍らの巨石を目掛けて振り下ろしたところ、巨石が真っ二つに割れたという。この神については、「黒前神社」の祭神である黒坂命、あるいは征夷大将軍・坂上田村麻呂とするものがあるが、いずれにせよ蝦夷征伐の功労者であり、源義家はこれを勝利の前触れであるとして喜び、勇躍して奥州に向かったという。「黒前神社」の縁起では、この割れた巨石の片側に「南無釈迦牟尼仏」、もう一方に「南無八幡大菩薩」という金文が現れたので、釈迦堂と八幡社を建立した、ということになっている(「釈迦堂」は「甲石」の前に今もあり、「八幡社」は現存しないが、「太刀割石」の前にあったらしい。)。もちろん、実際には太刀で斬れる訳がなく、植物の根が石の節理や割れ目に侵入して開口し、片方が倒れたものだとみられている(いつ割れたのかは不明。)。ただし、確かに不思議なものであることは間違いなく、水戸藩第2代藩主・徳川光圀もわざわざ見に来て、「最も奇なり」と驚き、「太刀割石」と名付けた(黒前山も「たちわり」が訛って「竪破山」になった)という。
なお、「竪破山」ハイキングコースでは、「太刀割石」のほか、「神楽石」、「甲石(堅破和光石)」、「舟石」、「胎内石」、「畳石(腰掛け畳石」)、「烏帽子石」と、「不動滝(奈々久良滝)」、「剣滝」、「龍馬滝」があり、これを「七奇石三瀑」と呼んでいる。


写真1:「不動岩」(横8m×縦3m×高さ1.5m)


写真2:「不動岩」上の不動明王石像。足元に樋を引いて、水が流れるような仕掛けがあったらしいが、訪問時には水はなかった。


写真3:「烏帽子石」(横7m×厚さ1.5m、上部斜面の縦3m)。源義家が被っていた烏帽子に似ているというもの。


写真4:「手形石」(横0.9m×縦1.4m×高さ1.5m)。細長く抉れたところがあり、源義家の手形であるという(いくら何でも手にしては大き過ぎ)。


写真5:「畳石」(横8m×厚さ2.5m)。畳を4段に積み重ねたように見え、ここに源義家が腰を下ろして休んだという。


写真6:「太刀割石」。以前には「磐座」として、石の周りに注連縄が張られていたという。


写真7:同上、後ろから見る。


写真8:「竪破山」山頂。展望台もある。


写真9:山頂から少し下がったところにある「胎内石」。黒坂命が蝦夷征伐の帰路、山麓で休んでいたところ、1人の童子が現れ、馬に乗せて山を駆け上り、この岩窟の中で休ませたという。
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小木津浜の岩地蔵

2020-02-15 23:13:36 | 名石・奇岩・怪岩
小木津浜の岩地蔵(おぎつはまのいわじぞう)。
場所:茨城県日立市小木津町。国道6号線(小木津バイパス)「小木津駅入口」交差点から東に(通称「ゆりの木通り」)約300mで、突き当り左折(北へ)、約550m進むと再び突き当り、右折(北東へ)、通称「(陸前)浜街道」(旧・国道6号線)を約350m進んで、東連津川に架かる「東連津橋」を越えたところ、直ぐ。「浜街道」が右(東)方向にカーヴするところの手前で、小さな墓地があるが、その西隣。駐車場なし。
「小木津浜の岩地蔵」は、東連津川の河口に近い凝灰岩の岩壁に彫られた磨崖仏で、元は12体の観世音菩薩像が彫られていたとされるものだが、現在は4体ほどが確認できるものの、かなり風化が進んでいて、表情や装束などがわからなくなっている。「岩地蔵」と呼ばれているが、これが「常陸国風土記」多珂郡条に記事がある「仏浜」の観音像ではないか、ともいわれている。それは、「国守が川原宿禰黒麿であった時に、大海(太平洋)の海辺の岩壁に観世音菩薩の像を彫って造った。(この像は)今も残っている。それで、(この海辺を)仏浜と名付けた。」(現代語訳)という記述であり、「度志観音」がその岩壁の観音像に比定されて茨城県指定史跡「佛ヶ浜」として指定されているが、現在では否定説が殆ど通説化していることは前項で書いた。
「度志観音」に代わって注目されたのが「小木津浜の岩地蔵」(史跡等として何の指定もなく、この名称も通称らしい。)である。ちょうど東連津川の河口にあって、すぐ目の前が太平洋という位置にあることから、「大海の辺」という記述に合致する。もし、この磨崖仏が「仏浜」の観音像であるとすると、彫られたのは第41代・持統天皇(在位:690~697年)の時代とされる。というのは、常陸国守の任命記事が文武朝(697~707年)以降に「続日本紀」などに現れてくるが、そこに川原宿禰黒麿の名はみえないので、任命されたのは文武朝以前となる。宿禰という姓(かばね)は天武天皇13年(684年)に定められ、この年に50氏に宿禰の姓が与えられたが、その中に川原氏は入っていない。よって、それ以後の685~696年の間に、川原宿禰黒麿は常陸国守に任命されたのだろうということになる(「新修日立市史」による。)(因みに、「国守」は、原文では「国宰(くにのみこともち)」で、国司の長官を指す。)。
ところで、現存する「常陸国風土記」の中で仏教に関する記事は、この「仏浜」だけであるとされる。では何故、「仏浜」に観音像が彫られたのか。それは、この場所の位置と時期に関連があるという。「常陸国風土記」の「仏浜」の記事の前のところに、「(第13代・成務天皇の時代に)建御狭日命(タケミサヒ)が多珂国造として派遣されたとき、久慈との境となっている助河(現・宮田川?)をもって「道前(みちのくち)」とし、陸奥国石城郡苦麻村(現・福島県双葉郡大熊村大字熊)をもって「道後(みちのしり)」としたという記述がある。そもそも、「常陸」というのは元は「常道」と書いて、その奥が「道奥、陸奥(みちのおく、みちのく)」と呼ばれた。そして、そこは蝦夷の領域と接して、特に7世紀後半頃には大和政権と激しい抗争が行われた地域の入口に当たる。そこで、「観音経」(妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五)に説かれた「戦争に行っても、観世音菩薩を念じれば、無事に帰ってくることができる。」という功徳を求め、観音像を彫ったのだろうとされている。


写真1:「小木津浜の岩地蔵」


写真2:同上、岩壁を刳りぬいたところに4体ほどの仏像らしきものがみえる。


写真3:下に「最上神社」という石祠があり、まだ新しい社号標が立てられているが、詳細不明。


写真4:東連津川の河口。左側は「(陸前)浜街道」。
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坐禅石(茨城県日立市)

2019-10-19 23:22:17 | 名石・奇岩・怪岩
坐禅石(ざぜんいし)。別名:南極寿星の座禅石、天狗の布団石。
場所:茨城県日立市宮田町。茨城県道36号線(日立山方線)「白銀町歩道橋」交差点から北西へ約2.9km。宮田川の中、山側にある。駐車場なし。
「坐禅石」は、5億年前にできた火成岩の一種・斑岩(ポーフィリー)の巨石。大きさは7.5m×6m×3m、重量約1千トンともいわれる。その名の由来は、次の通り。
文明2年(1470年)、武蔵国南足柄(現・神奈川県足柄市)の曹洞宗「大雄山 最乗寺」の南極寿星(なんきょくじゅしょう)禅師が常陸国に法流を広めようと「度志観音」(日立市田尻町)に参籠したとき、観音の霊夢があり、現れた白馬に乗ると当地に導かれた。現・JX金属日立精錬所の辺りに庵を結び、この巨石の上で座禅修行をした。禅師の徳風を慕った山尾城(現・日立市十王町友部)の城主・小野崎朝通が土地を寄進し、寺院を建立した。これが曹洞宗「天童山 大雄院」(現住所:日立市宮田町5-6-15)の創建であるという。
また、この巨石の上で天狗が寝ていたという伝説もあり、別名「天狗の布団石」ともいうとのこと。


曹洞宗天童山大雄院のHP


写真1:「坐禅石」


写真2:同上
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