神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鞍掛石(茨城県那珂市)

2019-08-10 23:12:56 | 名石・奇岩・怪岩
鞍掛石(くらかけいし)。
場所:茨城県那珂市門部。茨城県道62号線(常陸那珂港山方線)と同104号線(那珂瓜連線)の交差点から、県道104号線を西へ約1kmのところで左側道に入り、道なりに西へ約400m。側道に入ったところと、所在地への入口のところに「鞍掛石」の案内看板がある。駐車場なし。
茨城県中央部から北部にかけて、八幡太郎・源義家にまつわる伝説が多く残されている。義家の弟である新羅三郎・義光の孫、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現:茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧佐竹村)に住み、地名に因んで「佐竹」氏を名乗ったとされており、源義家は佐竹氏にとって英雄的な祖先ということになる。
「鞍掛石」は、源義家が奥州征伐に向かう途中、鞍を馬から外して石に掛けて休憩したところ、後日その石が鞍に似てしまったというもの。確かに鞍の形にそっくりだが、もちろん、石の形が変わったというのは伝説に過ぎないだろう。それが、玉垣に囲まれ、鳥居・石碑も建てられるなど、今に至るまで神聖なものとして守られていることに重みを感じる。
因みに、「鞍掛石」のある場所は台地の端で、台地上には「小屋場館」という中世の城郭跡があり、当地付近は源義家が奥州征伐のための兵馬を飼育していた場所という伝承もあるらしい。中世には、山や丘の上に領主の館があり、その山の根(麓)に配下の集落が生まれ、そこから「根小屋」(「根古屋」)という地名が関東を中心に各地に今も残っている。そして、当地には次のような伝承もあるという。即ち、当地に源頼家の館があったが、粗末なものであった。そのため、義家に遠慮して、当地の農家の屋根には瓦を葺かない(「屋根を瓦葺にした家は滅びる」)し、また檜(ヒノキ)造りにはしない(「ヒノキは火柱が立つ」)というもの。もちろん、今ではそのようなことはないようだが、源義家にまつわる「長者伝説」(長者が過大な歓待をしたことで、滅ぼされるという伝説。「台渡里官衙遺跡群」2019年3月16日記事参照)を考えると、おとなしくしていて滅ぼされずに済んだという逆の話かもしれない。


那珂市観光協会のHPから(史跡・天然記念物)


写真1:「鞍掛石」前の鳥居


写真2:「源義家公遺跡 鞍掛石之碑」


写真3:石祠


写真4:「鞍掛石」
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大黒石

2018-09-22 23:04:05 | 名石・奇岩・怪岩
大黒石(だいこくせき)。
場所:茨城県笠間市笠間。「笠間城跡」の「千人溜駐車場」入口の手前(北西)約200m(「笠間城跡」については、前項「佐志能神社」2018年9月15日記事参照)。駐車場なし。
笠間市街地から「笠間城跡」に向かって坂道を上っていくと、道路脇に巨大な石が現れて、びっくりする。この石が「大黒石」と呼ばれるもので、次のような伝説がある。「佐志能神社」(前項)で書いたように、「笠間城」があった「佐白山」には元々「正福寺」という寺院があり、百余の僧坊があった。この「正福寺」と七会村(現・茨城県城里町)の「徳蔵寺」との間で宗門争いが生じ、ある時、「徳蔵寺」の僧兵たちが大挙して押し寄せ「正福寺」を攻撃した。不意打ちにあった「正福寺」側が山頂近くに追い詰められたとき、山頂にあった巨石が突然動き出し、「徳蔵寺」の僧兵たちを追い散らした。これによって「正福寺」は何とか難を逃れることができた。元々、巨石は2つ並んでいて、1つが「大黒天」の姿、もう1つが「大黒天」が担ぐ袋に似ていた。転がり落ちたのは「袋」に似た石の方で、「大黒天」に似た石の方は、いつの間にか消えてしまったという。ところで、「大黒天」は本来、インドの神で破壊神である「シヴァ」の化身「マハーカーラ」。「マハー」が「大きい」、「カーラ」が「暗黒」を意味し、仏教に守護神として取り入れられると「大黒天」になった。「マハー」は「宇宙」、「カーラ」は「時間」や「生死」を表すともいわれ、「死神」・「地獄の神」のような存在だった。それが日本に伝わると、「大国主命」と習合し(同一視させたのは弘法大師(空海)だという説もあるが、根拠は無いようだ。)、福神となった。背負っている袋には宝物が入っていると考えられたらしい。「大黒天」が福神になったのは平安時代末期から中世と思われるので、仮に上記のような出来事が本当にあったとしても、これが「大黒石」と呼ばれるのは後世のことではなかっただろうか。
さて、「佐白山」は、ネットでみると心霊スポットとして有名らしい(怖いので、深く立ち入らない。)。しかし、この「大黒石」は「大黒天」に所縁があるということで、幸運をもたらすものとしての伝承もある。「大黒石」に小さな窪みがあって、これを「へそ」というが、これに3回続けて小石を投げ入れることができれば(ただし、その際に、既に入っている石を落とすと無効)、幸運が訪れるという。


笠間市のHPから(大黒石のいわれ)

佐白山 正福寺のHP


写真1:「大黒石」。幅約5m、高さ約3m。


写真2:山側(写真1の裏側)に窪み(「へそ」)がある。


写真3:「笠間城跡」大手門跡の前の駐車場(「千人溜り」)の向かい側にある「笠間百坊旧跡」石碑


写真4:写真3の石碑の後ろの小道を上ったところ。石塔や卒塔婆がある。
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だいだら坊の背負い石

2018-09-08 23:18:58 | 名石・奇岩・怪岩
だいだら坊の背負い石(だいだらぼうのせおいいし)。
場所:茨城県桜川市平沢。「大神台遺跡」(前項)から道なりに北へ、約1km。「平沢高峯展望台」に行く途中。入口に案内板あり。駐車場なし。
関東地方には「ダイダラボウ」という巨人の伝説が多い(「大串貝塚」2018年7月14日記事参照)。特に、茨城県では「筑波山」と関連付けられた伝説があり、例えば「ダイダラボウが筑波山に縄を掛けて持ち上げたところ、縄が切れて落っこちた。そのとき、山が2つに割れたので、筑波山は男体山と女体山の2峰になった」とか。
「だいだら坊の背負い石」も、そうした伝説の1つで、石造の現地説明板によれば「だいだら坊が背負ってきた巨石の縄がここで切れ、足で蹴って動かそうとしたが動かないので、そのまま置いて立ち去った。巨石には、そのときの縄目と蹴った時にできた足跡が今でも風化せずにくっきりと確認できる」ということである。よく見ると確かに、縄目のような線(浮き彫りだが)と足跡のような窪みがある。説明板では「大神台遺跡」付近に住んでいた人々も、この巨石に神が宿るものとして畏敬の念をもっていだろうとしている。この巨石がいつ頃から知られていたかはわからないが、整備されたのは最近(説明板は平成21年銘)のようで、今もこうした事物が大事にされていることに感銘した。


写真1:「だいだら坊 背負い石」入口


写真2:飛び石と門柱がある。


写真3:「だいだら坊の背負い石」。よく見ると、斜めに線が走っている。


写真4:反対側に回ってみると、こちらにも線がある。石造の説明板も。


写真5:だいだら坊の足跡?


写真6:石祠


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清浄石(茨城県ひたちなか市)

2018-06-09 23:57:49 | 名石・奇岩・怪岩
清浄石(しょうじょういし)。
場所:茨城県ひたちなか市平磯町三ッ塚地先海岸。茨城県道6号線(水戸那珂湊線)で「磯崎港」付近から南に約2km。駐車スペースあり。
ひたちなか市の平磯町~磯崎町の海岸は、東へ30~40度傾斜した岩礁が連続しており、これらは「那珂層群」と総称される中生代白亜紀の地層とされている。この地層の岩石は砂岩や泥岩などからなり、泥岩は砂岩よりも波の侵食によって削られやすいため、泥岩の部分が砂岩の部分よりも凹み、鋸歯状になっている。アンモナイト、ウニ、サメ等の化石が発見され、特にアンモナイトは本来の平巻きではなく、「異常巻き」と呼ばれる縦型のものの群棲地として知られる。「異常巻き」アンモナイトは、アンモナイトが絶滅する直前の時期に多発したといわれており、この地層が約7,500万年前という中生代白亜紀に属することを明らかにしたということらしい。なお、翼竜の肩甲骨の化石も発見され、「ヒタチナカリュウ」と命名されたという。
さて、海上に露出している岩石のうち、とりわけ奇妙な形をした岩がある。二間余り(約3.6m)の方形の岩だが、上部平面の中央に円座の様な突起がある。これを、「箱磯」(箱型の岩のため)、「阿字石」(五輪塔の一番下の方形の石(「地」を表し、梵字の種字は「ア」という)に似ているため)、「護摩壇石」(方形の上に円の形が「護摩壇」に似ているため)などと様々に呼ばれていた。「阿字ヶ浦」という地名も、この石に因むという。古くから神聖なものとみられていたようで、付近の神仏、例えば、「酒列磯前神社」(2018年5月26日記事)、「村松大神宮」(茨城県東海村)、「村松虚空蔵堂」(同前)などの神仏は、この磯に影向したともいわれている。なお、「清浄石」というのは、「阿字石」・「護摩壇石」という仏教色が強い名を嫌った常陸水戸藩第2代藩主・徳川義公(徳川光圀)が命名したとのこと。


茨城県教育委員会のHPから(平磯白亜紀層)


写真1:「清浄石 徳川義公命名」石碑


写真2:傾いた地層が海に伸びている。


参考画像:上の写真の先端にある「清浄石」(ネット上の画像をお借りしました。)
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秋田市の石敢當

2017-04-01 23:25:30 | 名石・奇岩・怪岩
石敢當(いしがんどう、せっかんとう)。
場所:秋田県秋田市南通みその町ほか。JR「秋田」駅の南西、旭川と太平川に囲まれた、所謂「築山」地区を中心に多数。
「石敢當」は、表札のような石材(石碑のように大きなものもある。)に「石敢當」と刻したものを路傍に設置したもので、「敢當石」あるいは「散當石」と刻されたものもある。沖縄県に行くと、そこら中に見られるものだが、元々は中国発祥の民間信仰に基づくものらしいので、沖縄県・鹿児島県に多いのはわかるが、次いで多いのが秋田県なのだという。それも、秋田市の南通及び楢山を中心にした地区に集中している。幕末から明治初期にかけて建てられたものが多く、大正期の調査で47基、最近でも30基はあるだろうとされている。
「石敢當」は、読み下せば「石、敢えて當(当)たる」となることから、この石に当たると魔物の身体が砕けるという民間信仰から来たものという説が有力のようだが、人名という説もあって、由来の詳細は不明。「石敢當」が設置されているのは大体、丁字路の突き当りで、これは、魔物(沖縄では「マジムン」)は直線的にしか進めないと信じられているため、魔物がぶつかるところに置かれることになったもののようだ。
では、何故、秋田市内に多いのか。どうやら、江戸時代末期、藩校の教授として招かれた儒学者の中に「石敢當」に詳しい人物がいて、久保田(秋田)藩の武家の子弟に伝えられ、幕末の不安な時代に建立ブームが起きたのではないか、と考えられているようだ。特に、所謂「築山」地区は「内町(うちまち)」、即ち武士が多く居住する町で、侵入してきた敵を惑わせるため町内に丁字路やクランクが多く作られていたことも要因の1つらしい。家の建て替えや道路整備などで古い「石敢當」は減りつつあるようだが、比較的最近に作られたと思われるものも見かけるので、秋田の1つの文化として残してほしいとも思う。


写真1:「石敢當」。これは、秋田市内で最も大きいとみられるもの(場所:秋田市南通みその町)。


写真2:同上。オベリスクのような形で、撮影時には道路上にあったが、その後、後ろの住宅の敷地内に移されたようだ(場所:秋田市南通築地)。


写真3:同上、ただし、「敢當石」となっている。壁面に埋め込まれたもので、丁字路の突き当りにある(場所:秋田市楢山本町)。


写真4:同上。「石」の字が少し変わっている(場所:秋田市楢山本町)。


写真5:同上。これも「敢當石」。クランク状の道路際にある(場所:秋田市楢山登町)。


写真6:同上。3分の1くらい土に埋まってしまっている(場所:秋田市千秋明徳町)。


写真7:同上。これは「散當石」。「総社神社」の近くにある(2015年9月26日記事参照。写真は再掲)(場所:秋田市川尻みよし町)。
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