神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

慈眼山 福蔵院 光福寺

2024-08-17 23:33:25 | 寺院
慈眼山 福蔵院 光福寺(じげんさんふくぞういんこうふくじ)。通称:梶内観音。
場所:茨城県筑西市梶内761。茨城県道54号線(明野間々田線)と同357号線(谷和原筑西線)の「黒子」交差点から357号線を南に約1.4km。駐車場有り。
寺伝によれば、貞観元年(859年)、第3代天台座主・慈覚大師により創建された。正徳元年(1711年)、定観法印が阿弥陀堂を建立して再興。元は「赤城山 光福寺」と称していたが、明治初年に「慈眼山 福蔵院 光福寺」と改称した。現在は天台宗寺院で、本尊は行基作という十一面観世音菩薩立像(像高15.15cm)。安産・子育てに御利益ありとして参詣者が多い。また、当寺院の御朱印は住職のユニークな絵入りで人気があるとのこと。なお、南北朝時代、南朝方の関城主・関宗祐の四男・梶四郎祐郷は梶内に出城を作り(現「赤城神社」付近)、当寺院の観音菩薩を熱心に信仰したという(関城は、落城前の興国4年(1343年)まで北畠親房が留まり、歴史書「神皇正統記」を完成させたことでも有名。なお、関城の落城により、関宗祐・祐郷父子は戦死した。)。


写真1:「福蔵院」境内入口。寺号標。


写真2:本堂前


写真3:本堂


写真4:巨大な石碑。本堂裏に御影石による石窟が造られ、石造の観音像が祀られているとのこと(拝観有料)。


写真5:石仏


写真6:「赤城神社」鳥居(場所:筑西市梶内136。「福蔵院」の北西約250m(直線距離)。駐車スペース有り。)。


写真7:同上、社殿。祭神:盤筒男命。由緒不明。明治6年村社。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

施無畏山 延命院 觀音寺

2024-08-03 23:36:24 | 寺院
施無畏山 延命院 觀音寺(せむいさん えんめいいん かんのんじ)。通称:中館観音寺。
場所:茨城県筑西市中舘522-1。国道50号線(下館バイパス)「中館」交差点から北へ約600m、「八幡神社」の裏(北側)の道路に右折(東へ)、約200mで境内入口前となるが、自動車は「八幡神社」裏(「天台宗 法華三昧之道場 觀音寺」の寺号標?がある。)のスペースか、境内入口前の切通しを通り過ぎて五行川(勤行川)を渡った先の「勤行緑地」駐車場を利用。
寺伝等によれば、第31代・用明天皇の時代(585~587年)、中国(梁)から渡来した法輪独守居士が当地に観音菩薩像を安置したのを創建とする(法輪独守居士は「雨引山 楽法寺」(2018年11月17日記事)も創建している。)。当時、当地では疫病が流行っていたが、法輪独守居士が祈願したところ、中舘台地崖下より清らかな水が湧き出し、この水を飲んだ人々は忽ち疫病が治ったという。大化2年(646年)にも、時の左大臣・阿部倉梯の姫の熱病を平癒した霊験があり、孝徳天皇から「延命」という称を賜ったと伝えられる。文治5年(1189年)、中村(藤原)常陸介朝宗が源頼朝麾下の武将として「奥州合戦」に4人の息子と共に前衛として出陣する際、当寺院に戦勝を祈願した。「奥州合戦」での戦功により陸奥国伊達郡(現・福島県伊達市ほか)を所領として与えられ、以降、伊達氏を名乗った。その後、伊達郡は次男・宗村が相続したので、朝宗又は宗村が奥州伊達氏の始祖とされる。江戸時代になっても、当地領主に加え、仙台藩主の帰依が篤く、仙台藩第4代藩主・伊達綱村から飛び地の龍ヶ崎領(常陸国河内郡龍ヶ崎村、現・茨城県龍ケ崎市)から50石を永代寄進されたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。この阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作で、筑西市指定文化財。また、観音堂本尊の観音菩薩は、カヤ材の寄木造の立像で高さ約102cm、鎌倉時代の作とされ、大正11年に国宝指定、昭和25年に国指定重要文化財となっている。秘仏だが、年1回御開帳がある。延命観世音菩薩と称し、六臂あるのが特徴。
なお、当地には中世城館「伊佐城」があったとされ、茨城県指定史跡となっている。当寺院本堂付近が二の丸跡といわれ、「伊佐城址」石碑が建てられている。築城時期・築城者は不明だが、上記の中村常陸介朝宗が築城したとの説があり、当地(常陸国伊佐郡)は朝宗の長男・伊佐為宗が相続したので、その一族が居城としたのかもしれない。伝説では、天慶3年(940年)、下野押領使・藤原秀郷(通称:俵藤太)が平将門追討の際に「上館(元館)」・「中館」・「下館」の3館を築いたとされ、「中館」を伊佐氏が改修したものともいわれる。「伊佐城」は、南北朝時代、南朝方について戦ったが、北朝方の高師冬に攻められて興国4年(1343年)に落城し、以後廃城となったという。


天台宗 施無畏山延命院 觀音寺のHP


写真1:「茨城百景 中館観音と下館近郊」石碑


写真2:「國宝中舘觀世音」石碑。観音堂本尊の観音像がいわゆる旧国宝であったことを示すもの。境内に入るため石橋(「延命橋」という名がついている。)を渡る。この下は切通しで、かつて当地が中世城館であったときの堀跡といわれている。


写真3:「觀音寺」観音堂.。江戸時代中期頃の建築で、筑西市指定文化財。


写真4:同上、彫刻が素晴らしい。


写真5:「伊達行朝公供養塔」(覆屋)。中に石塔がある。伊達氏第7代・伊達行朝の供養塔という。筑西市指定文化財。


写真6:「延命水」。台地下、五行川畔に下りたところにある。木の根元から今も清水が湧いているが、水量は多くはなく、残念ながら飲用には適さないようである。


写真7:大門(山門)。「下館城」大手門の移築との伝承がある。


写真8:「下館藩主石川総管公墓所」。第9代下館藩主(最後の藩主で、初代下館藩知事。子爵)・石川総管の墓所。筑西市指定文化財。


写真9:本堂


写真10:同上


写真11:本堂横にある「伊佐城址」石碑。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋嶠山 地蔵院 妙法寺

2024-07-20 23:32:16 | 寺院
秋嶠山 地蔵院 妙法寺(しゅうきょうざん じぞういん みょうほうじ)。
場所:茨城県桜川市本郷13。茨城県道・栃木県道45号線(つくば真岡線)と同216号線(岩瀬二宮線)の「旭町」交差点から北へ約210mで右折(東へ)、通称「小栗街道」を約2.8km進んで「下泉集会所」のところ(「妙法寺→」の案内標識がある。)を右折(南へ)、約400m進んだ交差点の右(西)側が境内入口。駐車場あり。
寺伝によれば、延暦年間(782~806年)、下野国「小野寺山 大慈寺」(現・栃木県栃木市)の広智国講師が、常陸国坂戸庄上野原地に草堂を建て、「晶屋精舎(あきやしょうじゃ)」と称したのが始まり。 仁寿年間(851~854年)に円仁(慈覚大師。第3代天台座主)が諸堂を建立し、自作の地蔵菩薩を安置して、「阿炬那摩山 顕法憧園(あきやまさん けんほうどうえん)」と改称した。 よって、草創を広智国講師とし、開基を慈覚大師とする。延喜年間(901~922年)には亭珍阿闍梨が中興し、「阿幾那摩山 十輪院 妙法寺」と改称した。「平将門の乱」(天慶2年(939年))の折、兵火により諸堂は灰燼に帰した。しかし、このとき、本尊の地蔵菩薩は沼のほとりに逃れて、無事だった。以来、水縁地蔵尊、後に水引地蔵尊と呼ばれるようになった。寛治年間(1087~1094年)、板戸判官・藤原範明が奥州討伐を祈願し、その宿願が叶ったとして、報謝のために堂塔を再建。塔頭10ヵ坊・末寺10ヵ寺を有し、現在の「秋嶠山 地蔵院 妙法寺」に改称した。応仁年間(1467~1469年)、火災により焼失、元亀年間(1570~1573年)、現在地に移転した。現在は天台宗の寺院で、本尊は水引地蔵菩薩。なお、ほかにも多くの仏像があり、木造の阿弥陀如来坐像・伝観音菩薩立像・伝虚空蔵菩薩立像などは平安時代の9~10世紀頃の作とされ、茨城県指定文化財。関東百八地蔵尊霊場第61番札所・茨城百八地蔵尊霊場第34番札所、北関東三十六不動尊霊場第33番札所(通称:金色不動尊)となっている。
また、本堂に瞬義上人の即身仏が安置されている(即身仏の本堂安置は、関東で唯一という。)。瞬義上人は鎌倉「宝戒寺」住職だったが、69歳のとき、弟子が住職をしていた当寺院に隠居し、貞享3年(1686年)、78歳のとき、衆生済度のため入定した。遺体は7日間の法要の後、石造阿弥陀仏の胎内に納めた(当寺院の辺りは湿地帯で、土に埋めると腐敗してしまうと考えられたためという。)。安永2年(1773年)、住職の夢枕に立った上人が「再びこの世に出て衆生を救済しよう」と告げたため、石仏を開けて、即身仏となった上人を取り出したという(拝観は要予約)。
なお、当寺院の元の所在地は現在地より南方約750mの地点で、そこには「上野原廃寺跡」という遺跡があり、9世紀頃の瓦が出土している。そこから南西約800mのところに「新治廃寺跡」(2018年8月11日記事)があるが、この寺院は「新治郡家」(「新治郡衙跡」(2018年8月4日記事)の付属寺院(いわゆる「郡寺」)だったとみられている。「新治廃寺」は、弘仁8年(817年)に「新治郡家」が火災で焼失した(「日本後記」記事)ときに、類焼して廃絶したとされているところから、当寺院に9~10世紀にかけての諸像が伝わっているということは、あるいは、当寺院が「新治廃寺」の機能を継承したのではないかとも考えられている。


茨城県教育委員会のHPから(木造 阿弥陀如来坐像及菩薩立像(伝観音菩薩)・天部立像(伝虚空蔵菩薩)、木造 四天王立像 7躯)


写真1:「妙法寺」山門。桜川市指定文化財。


写真2:山門前にある巨木の切り株


写真3:不動明王の眷属である三十六童子のうち、普香王童子の像。その背後に見えるのは「妙法稲荷神社」の鳥居


写真4:「瞬義上人入定の石佛」。鐘楼門の前にある。蓮華座のところから上下に分かれ、刳りぬかれた石仏の中に、入定した瞬義上人が入れられていたという。思ったよりかなり小さい。


写真5:鐘楼門


写真6:本堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衍応山 勝道院 仏生寺

2024-07-13 23:33:29 | 寺院
衍応山 勝道院 仏生寺(えんおうざん しょうどういん ぶっしょうじ)。
場所:栃木県真岡市南高岡259。茨城県道41号線(つくば益子線)から栃木県道・茨城県道119号線に入り、約2.9km(「仏生寺のけやき→」という案内板がある。)で左折(南西へ)、約190mで突き当り、左折(南東へ)、約400mで参道入口。参道周辺が「仏生寺公園」となっており、入口付近に駐車場がある。
寺伝等によれば、日光開山で知られる勝道上人は、天平7年(735年)に当地で生まれた。父は下野国府(現・栃木県栃木市)の国司の次官に当たる下野介・若田高藤、母は地元豪族・吉田主典の娘・明寿で、幼名を藤糸丸といった。神童の誉れ高く、幼時より仏道を信じ、長じて「下野薬師寺」の如意僧都に師事して天平宝字6年(762年)に出家し、勝道と号した。日光開山を志し、延暦元年(782年)、三度目にしてようやく「男体山」の登頂に成功した。その登山口付近に、「二荒山神社」の神宮寺として「補陀洛山 中禅寺」(現・「日光二荒山神社中宮祠」)を開いた。その後、当地に戻り、当寺院を開山したという。現在は、真言宗豊山派の寺院で、本尊は薬師如来。
なお、「仏生寺」境内全体が「日光開山勝道上人誕生地」として栃木県指定史跡となっている。本尊の木像薬師如来坐像(秘仏)は勝道上人の作と伝わるが、藤原時代(平安時代中・後期)初め頃のものと推定されており、勝道上人の時代よりは少し下るものの、栃木県内でも最古クラスとされる。ほかに、鎌倉時代頃のものとみられる金剛勢至菩薩立像や十二神将像(12体揃っているのは貴重)もあり、いずれも栃木県指定文化財。本堂(薬師堂)は江戸時代中期の寛保2年(1742年)再建とされ、真岡市指定有形文化財。山門両脇のケヤキの大木は栃木県指定天然記念物と、文化財が多い。


栃木県総合教育センターのHPから(仏生寺 木造薬師如来坐像)

同(仏生寺 木造十二神将立像)


写真1:「仏生寺」参道入口。石柱には「史蹟 佛生寺 日光開山 勝道上人誕生地」とある。ここから境内まで南西へ約230mのまっすぐな参道で、春には枝垂桜の名所となっている。


写真2:山門と2本のケヤキの大木。2本とも樹高30m、目通り幹周は、向かって右が5.6m、左が5.0m。勝道上人手植えとの伝承があるが、樹齢はともに推定約700年とされる。


写真3:同行二人の歌碑。弘法大師信仰の1つ、「あなうれし 行くも帰るもとどまるも 我は大師と二人連れなり」という歌の石碑。


写真4:本堂(薬師堂)。


写真5:同上


写真6:境内の石仏など。


写真7:「仏生寺公園」駐車場から南に約200mの山裾にあるエドヒガン桜の大木。高さ約20m、目通り幹周約4m、推定樹齢約200年という。


写真8:写真7の桜の木から少し上ると、「勝道上人 産水の池」がある。水は涸れているが、傍らに「勝道上人霊」という石塔がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

施無畏山 寳樹院 小山寺

2024-07-06 23:32:57 | 寺院
施無畏山 寳樹院 小山寺(せむいさん ほうじゅいん おやまじ)。通称:富谷観音。
場所:茨城県桜川市富谷2186。茨城県道41号線(つくば益子線)「久原十字路」交差点から北西へ約90mで右折(北東へ)、林道久原富谷線を約2km。自動車は山門少し手前の駐車場に駐車(山門を通り過ぎると、奥の駐車場からは遠くなる。)し、そこから徒歩約80m。
寺伝によれば、天平7年(735年)、聖武天皇の勅願によって僧・行基が開創し、自作の鉈彫十一面観世音菩薩を本尊として安置し、寺号を「施無畏山 寳樹院 長福禅寺」と名付けた。本堂と三重塔を中心に三十六院など多くの堂宇が整備され、「富谷山」全体が聖地霊山とされたと伝えられる。また、慈覚大師(円仁、第3代天台座主)が東北遊化の際、大師自刻の不動明王と多聞天を脇侍として七堂伽藍が整えられたとされる。平安末期~鎌倉時代初期に当地の領主であった下野守・小山朝政が当寺院を篤く庇護し、「長福禅寺」から「小山寺」に改称した。その後も、各時代の領主から二十石の朱印地を安堵され、明治維新まで続いたという。天台宗の寺院として、江戸時代には「月山寺」(前々項)の末寺となったが、当寺院の方が歴史は古く、寺宝も多い。三重塔(国指定重要文化財)は室町時代の建立で、関東地方以北で同時代まで遡る仏塔は、他には現・栃木県益子町の真言宗「獨鈷山 西明寺(通称:益子観音)」の三重塔の2つだけとされる。本堂・仁王門・鐘楼は江戸時代の建立で、いずれも茨城県指定有形文化財。本尊の十一面観音菩薩坐像は行基作と伝えられる鉈彫像で、 像高200.5cm、アサダ材の一木造りで平安時代後期の作と推定されている。秘仏とされ、御開帳は62年に一度という。通称:富谷観音といい、開運・安産・子育てに御利益がある。また、不動明王像は平安時代後期の作、毘沙門天像は室町時代の作(伝・運慶作)と推定され、これら3体の仏像はいずれも茨城県指定有形文化財。因みに、昭和59年、現・山形県寒河江市の慈恩宗「瑞宝山 本山慈恩寺」(2016年4月2日記事)の大日如来坐像の体内から発見された経文の奥書に「常陸国笠間郡小山寺、大檀那長門守藤原朝臣時朝」と記されていたことで、当時の笠間城主・笠間時朝(1204~1265年)が当寺院に寄進した大日如来像が「慈恩寺」に移されたことが明らかになったという。


富谷観音 小山寺のHP

桜川市観光協会のHPから(施無畏山小山寺)


写真1:「小山寺」境内入口。こちらは西門に当たる。山門正面に本来の参道(急で長い石段)があるが、道幅が広い林道久原富谷線ができたので、こちらから入るのが一般的。拝観時間は午前9時~午後4時。


写真2:山門(仁王門)


写真3:金剛力士像(阿形)


写真4:本堂


写真5:同上


写真6:大黒堂


写真7:大杉と鐘楼。大杉は桜川市指定天然記念物(樹高25m、目通り幹囲5.2m)。


写真8:三重塔。室町時代中期の寛正6年(1465年)、下妻城主・多賀谷朝経が建立したもの。


写真9:同上


写真10:水神
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする