神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

寳篋山 実相院 大上寺

2024-10-19 23:32:33 | 寺院
寳篋山 実相院 大上寺(ほうきょうさん じっそういん だいじょうじ)。通称:五霞観音。
場所:茨城県猿島郡五霞町元栗橋1125。茨城県道268号線(西関宿栗橋線)の「五霞町役場」北西の交差点(角にコンビニ「ファミリーマート五霞新幸谷店」がある。)から南西へ(案内標識の「元栗橋」方面)、道なりに約1.1kmで参道入口。参道を北西へ約70m進むと境内入口、その右手へ進むと駐車場あり。
社伝によれば、神亀3年(727年)、行基菩薩が当地に等身大の千手観世音像を祀る小庵を結んだのに始まるという。元は法相宗であったが、安永3年(1774年)に真言宗に改宗。明治2年に観音堂が焼失し、明治11年、現・茨城県古河市の「長谷寺」(「明観山 観音院 長谷寺」、通称:長谷観音。明治初年に廃寺になっていた。)から観音堂を移築した。明治22年、五霞村で初の村長・助役・村会議員の選挙は当寺院で行われた。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は千手観世音菩薩。葛飾板東観音観音霊場の第1番札所(発願寺)で、御利益は安産育児。
流石に行基は当地には来ていないだろうし、開基伝承から近世までの資料がないのが残念だが、当寺院は現・五霞町では最も古く、檀家も多いとされている。五霞町は四方を全て川に囲まれた地形にあって、長く水害に悩まされてきたことから、民衆の救済事業として各種の土木工事を行ったとされる行基の名が開基として挙げられたのかもしれない。また、中世、「鎌倉幕府」(現・神奈川県鎌倉市)と関東各地を結ぶ「鎌倉街道」という道路網があった。このうち、「下野国府」(現・栃木県栃木市)を通って、「白河関」(現・福島県白河市)に向かう「中道(なかつみち)」という主要道路の支線が当寺院付近を通っていた。この道路は、現・埼玉県幸手市から権現堂川(旧・渡良瀬川)を渡って現・五霞町に入り、当寺院の背後(西側~北西側)を通って、五霞町小手指~現・古河市前林(近世の利根川東遷以前には陸続きだった。)を北上したとされていて、「鎌倉街道」の中でも古くから存在したものらしい。つまり、当寺院の創建が、鎌倉時代前期、あるいは平安時代に遡る可能性もあるということのようである。


写真1:「実相院」参道入口、寺号標(「真言宗 実相院」)


写真2:境内入口


写真3:本堂(観音堂、大悲閣)


写真4:同上、屋根


写真5:鐘楼堂(「龍華の鐘楼」)
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前林山 東光寺

2024-09-28 23:34:37 | 寺院
前林山 東光寺(まえばやしさん とうこうじ)。
場所:茨城県古河市前林1765。茨城県道56号線(つくば古河線)「上砂井」交差点から南東へ約850m、「前林」交差点を右折(南へ)、約350m進んで(案内板がある。)右折(北西へ)、狭い道路を約100mで参道前、駐車場あり。
寺伝によれば、第61代・朱雀天皇の連枝・伝真院二品親王により承平元年(931年)に開基された。当初の本尊は不動明王であったという。「平将門の乱」の兵火に遭い、堂宇が焼失。天承元年(1131年)に再興されたが、原野のままのようで、「原の坊」と呼ばれた。その後、中世での状況は不明となるが、江戸時代には、真言宗の教法道場として有力寺院となっており、慶安元年(1648年)には徳川幕府第3代将軍・徳川家光から朱印地10石を許され、最盛時には末寺30ヵ寺を数えた。寛保3年(1743年)に焼失、宝暦5年(1755年)に堂宇を再建し、供養塔(宝篋印塔)を建立した。現在は、真言宗豊山派に属し、本尊は胎蔵界大日如来。本堂のほか観音堂があり、堂本尊の千手観世音菩薩は、正徳4年(1714年)に開創された「葛飾坂東観音霊場」第8番札所となっている。また、境内に「東光寺の椎」というスダジイの巨木がある。樹高約15m・周囲約6mで、天承元年に堂宇が再興された際に植樹されたと伝えられていることから、推定樹齢約1000年とされる。
因みに、「前林」という地名(大字)は「ウマヤ林」が転訛したもので、古代官道の「駅家(うまや)」があったのではないかという説もある。これは、東側に隣接する現・古河市水海に「猿島郡家」があったとする説にも関連している(前々項「三島神社」(2024年9月14日記事)及び前項「水海城跡」(2024年9月21日記事)参照。)。また、中世には、現・古河市市街地に向かう「鎌倉街道」が前林を通っており、当寺院はその「鎌倉街道」に面していたとされている。
蛇足:当寺院の中世の状況は不明だが、一説に、現・神奈川県横浜市の真言律宗別格本山「金沢山 称名寺」の末寺として前林に「戒光寺」があり、当寺院がその後身ではないか、とするものがある。この説の真偽を判断する材料に乏しいが、「そうわの寺院Ⅰ」(総和町教育委員会・社会教育課編集)によれば、「東光寺」という寺号は薬師如来を本尊とする寺院に多く(薬師如来が「東方瑠璃光浄土」の教主とされることに因む。)、当寺院は元々民間の薬師如来信仰による仏堂だったのが、真言僧の流入によって寺院に発展したものとみており、所在地などからして「戒光寺」とは別だろうとしている。


古河市のHPから(東光寺の椎)


写真1:「東光寺」寺号標


写真2:山門


写真3:入るとすぐに「東光寺の椎」(古河市指定文化財(天然記念物))


写真4:同上。見えているのは、大きくコンクリート?で固められた幹


写真5:東側に回り込むと、生きている幹が見える。大手術の後、無事に枝葉を伸ばしているようである。


写真6:同上


写真7:鐘楼と宝篋印塔


写真8:本堂


写真9:観音堂


写真10:大師堂
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寶林山 地蔵院 円満寺

2024-08-31 23:35:22 | 寺院
寶林山 地蔵院 円満寺(ほうりんさん じぞういん えんまんじ)。
場所:茨城県古河市小堤1405。国道125号線「小堤」交差点から東に約150m。駐車場あり。
寺伝によれば、大同4年(809年)、弘法大師(空海)が陸奥国「湯殿山」(現・山形市鶴岡市。「湯殿山神社本宮」(2016年4月6日記事))への参詣の帰りに当地に滞在し、「寺家山」(現在地から南に約300mのところ)に一宇を建立したことが始まりという。寺宝の金銅三鈷杵・五鈷鈴(密教の法具、茨城県指定文化財)は、その際に弘法大師が納めたものとされる。弘法大師自身が当地に来たというのは伝説に過ぎないだろうが、この金銅三鈷杵・五鈷鈴は中国・唐(618~907年)からの渡来物と考えられており、また、これを模して造られたとみられる平安時代作とされる金銅独鈷杵・五鈷杵もあって、創建当時のものであれば、平安時代末期に現・古河市周辺を支配した下河辺氏の関与があった可能性がある。一方、当寺院の創建の地は中世城館「小堤城」の内堀と中堀の間に当たり、元は城内にあった城主の持仏堂であったものが、後に城域全体を寺院の境内とするようになったのかもしれないという。小堤城主については、室町時代、古河公方の家臣・諏訪三河守頼方であるとの伝承がある。その後、江戸時代に堂宇は数度に亘って焼失したが、天保11年(1840年)、行盛法印によって再建された。⼤正15年に本堂の⼤規模な改修、昭和52年に現在の観⾳堂建⽴、同53年に鐘楼堂が再建されたという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵菩薩。また、正徳4年(1714年)に開創された葛飾坂東観音霊場の第33番札所となっている(観音堂本尊は十一面観世音菩薩)。観世音菩薩は33の姿に変身して衆生を救うとされるので、本来、観音霊場の札所は33ヵ所とされることが多く、本来は当寺院が結願の寺だった(現在は番外を含め41ヵ寺が参加。)。このためか、12年に一度(午年)に行われる観音御開帳の運営事務局も当寺院に置かれているという。


真言宗豊山派 円満寺のHP


写真1:「円満寺」入口、寺号標


写真2:寶聖大観音菩薩像(手前)、聖観音菩薩像(奥)


写真3:山門、鐘楼、イチョウ


写真4:山門


写真5:山門裏のイチョウ。太さからすれば、古木というほどではないと思われるが、乳垂根が多く、長く伸びている。


写真6:本堂


写真7:観音堂
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慈眼山 福蔵院 光福寺

2024-08-17 23:33:25 | 寺院
慈眼山 福蔵院 光福寺(じげんさんふくぞういんこうふくじ)。通称:梶内観音。
場所:茨城県筑西市梶内761。茨城県道54号線(明野間々田線)と同357号線(谷和原筑西線)の「黒子」交差点から357号線を南に約1.4km。駐車場有り。
寺伝によれば、貞観元年(859年)、第3代天台座主・慈覚大師により創建された。正徳元年(1711年)、定観法印が阿弥陀堂を建立して再興。元は「赤城山 光福寺」と称していたが、明治初年に「慈眼山 福蔵院 光福寺」と改称した。現在は天台宗寺院で、本尊は行基作という十一面観世音菩薩立像(像高15.15cm)。安産・子育てに御利益ありとして参詣者が多い。また、当寺院の御朱印は住職のユニークな絵入りで人気があるとのこと。なお、南北朝時代、南朝方の関城主・関宗祐の四男・梶四郎祐郷は梶内に出城を作り(現「赤城神社」付近)、当寺院の観音菩薩を熱心に信仰したという(関城は、落城前の興国4年(1343年)まで北畠親房が留まり、歴史書「神皇正統記」を完成させたことでも有名。なお、関城の落城により、関宗祐・祐郷父子は戦死した。)。


写真1:「福蔵院」境内入口。寺号標。


写真2:本堂前


写真3:本堂


写真4:巨大な石碑。本堂裏に御影石による石窟が造られ、石造の観音像が祀られているとのこと(拝観有料)。


写真5:石仏


写真6:「赤城神社」鳥居(場所:筑西市梶内136。「福蔵院」の北西約250m(直線距離)。駐車スペース有り。)。


写真7:同上、社殿。祭神:盤筒男命。由緒不明。明治6年村社。
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施無畏山 延命院 觀音寺

2024-08-03 23:36:24 | 寺院
施無畏山 延命院 觀音寺(せむいさん えんめいいん かんのんじ)。通称:中館観音寺。
場所:茨城県筑西市中舘522-1。国道50号線(下館バイパス)「中館」交差点から北へ約600m、「八幡神社」の裏(北側)の道路に右折(東へ)、約200mで境内入口前となるが、自動車は「八幡神社」裏(「天台宗 法華三昧之道場 觀音寺」の寺号標?がある。)のスペースか、境内入口前の切通しを通り過ぎて五行川(勤行川)を渡った先の「勤行緑地」駐車場を利用。
寺伝等によれば、第31代・用明天皇の時代(585~587年)、中国(梁)から渡来した法輪独守居士が当地に観音菩薩像を安置したのを創建とする(法輪独守居士は「雨引山 楽法寺」(2018年11月17日記事)も創建している。)。当時、当地では疫病が流行っていたが、法輪独守居士が祈願したところ、中舘台地崖下より清らかな水が湧き出し、この水を飲んだ人々は忽ち疫病が治ったという。大化2年(646年)にも、時の左大臣・阿部倉梯の姫の熱病を平癒した霊験があり、孝徳天皇から「延命」という称を賜ったと伝えられる。文治5年(1189年)、中村(藤原)常陸介朝宗が源頼朝麾下の武将として「奥州合戦」に4人の息子と共に前衛として出陣する際、当寺院に戦勝を祈願した。「奥州合戦」での戦功により陸奥国伊達郡(現・福島県伊達市ほか)を所領として与えられ、以降、伊達氏を名乗った。その後、伊達郡は次男・宗村が相続したので、朝宗又は宗村が奥州伊達氏の始祖とされる。江戸時代になっても、当地領主に加え、仙台藩主の帰依が篤く、仙台藩第4代藩主・伊達綱村から飛び地の龍ヶ崎領(常陸国河内郡龍ヶ崎村、現・茨城県龍ケ崎市)から50石を永代寄進されたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。この阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作で、筑西市指定文化財。また、観音堂本尊の観音菩薩は、カヤ材の寄木造の立像で高さ約102cm、鎌倉時代の作とされ、大正11年に国宝指定、昭和25年に国指定重要文化財となっている。秘仏だが、年1回御開帳がある。延命観世音菩薩と称し、六臂あるのが特徴。
なお、当地には中世城館「伊佐城」があったとされ、茨城県指定史跡となっている。当寺院本堂付近が二の丸跡といわれ、「伊佐城址」石碑が建てられている。築城時期・築城者は不明だが、上記の中村常陸介朝宗が築城したとの説があり、当地(常陸国伊佐郡)は朝宗の長男・伊佐為宗が相続したので、その一族が居城としたのかもしれない。伝説では、天慶3年(940年)、下野押領使・藤原秀郷(通称:俵藤太)が平将門追討の際に「上館(元館)」・「中館」・「下館」の3館を築いたとされ、「中館」を伊佐氏が改修したものともいわれる。「伊佐城」は、南北朝時代、南朝方について戦ったが、北朝方の高師冬に攻められて興国4年(1343年)に落城し、以後廃城となったという。


天台宗 施無畏山延命院 觀音寺のHP


写真1:「茨城百景 中館観音と下館近郊」石碑


写真2:「國宝中舘觀世音」石碑。観音堂本尊の観音像がいわゆる旧国宝であったことを示すもの。境内に入るため石橋(「延命橋」という名がついている。)を渡る。この下は切通しで、かつて当地が中世城館であったときの堀跡といわれている。


写真3:「觀音寺」観音堂.。江戸時代中期頃の建築で、筑西市指定文化財。


写真4:同上、彫刻が素晴らしい。


写真5:「伊達行朝公供養塔」(覆屋)。中に石塔がある。伊達氏第7代・伊達行朝の供養塔という。筑西市指定文化財。


写真6:「延命水」。台地下、五行川畔に下りたところにある。木の根元から今も清水が湧いているが、水量は多くはなく、残念ながら飲用には適さないようである。


写真7:大門(山門)。「下館城」大手門の移築との伝承がある。


写真8:「下館藩主石川総管公墓所」。第9代下館藩主(最後の藩主で、初代下館藩知事。子爵)・石川総管の墓所。筑西市指定文化財。


写真9:本堂


写真10:同上


写真11:本堂横にある「伊佐城址」石碑。
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