神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

高照山 養願院 東耀寺

2023-11-04 23:31:17 | 寺院
高照山 養願院 東耀寺(こうしょうざん ようがんいん とうようじ)。
場所:茨城県石岡市若宮1-1-13。国道355号線と茨城県道277号線(石岡停車場線)の「国府三丁目」交差点から国道を南に約50mで右折(西へ)、通称「土橋通り」を約290mで右折(北へ)、約90m。駐車場有り。
寺伝によれば、養老5年(721年)、第40代・天武天皇の第6皇子・舎人親王が常陸国巡回の折、霞ヶ浦を船で渡るうち阿弥陀如来像が流れ着いたので、拾い上げて当寺院を建立したのが創建という。一説によれば、大宝年間(701~703年)頃に弓削道鏡が伽藍を建立したともいうが、道鏡は文武天皇4年(700年)頃の生まれとされているので、時代が合わない。また、伝承によれば、「筑波山寺(筑波山 中禅寺)」(「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事参照))を開いた奈良時代の法相宗の僧・徳一(749?~824年)が創建したともいう。当初は法相宗で、天元3年(980年)頃は「広大寺」と称して常陸総社掛を勤め、「常陸国総社宮」(「總社神社」2018年1月13日記事)の臨時祭を行ったという。その後、真言宗「真観山 正上院 広大寺」として「五智山 光明院 南圓寺」(現・茨城県かすみがうら市加茂)の末寺になっていたが、本寺の「南圓寺」との間で争論が生じ、寛永17年(1640年)に天台宗に改めて「東叡山 寛永寺」(現・東京都台東区)の直末寺となり、現在の寺号に改称した(争論の内容は不明だが、「南圓寺」は応永元年(1394年)の開山で、当寺院より遅れるが、領主・小田氏の庇護を受けて「常陸真言宗四大寺」の1つとして栄えた。戦国時代を経て小田氏が没落したこともあり、江戸時代に入ると、本末関係に不満が生じたのかもしれない。)。寛文3年(1663年)、火災により焼失。また、明治38年にも火災に遭い、大正初年に再建した。現在は天台宗の寺院で、 昭和53年に別格本山に昇格。本尊は阿弥陀如来。
なお、元禄年間(1688~1704年)頃、時の藩主の命により「常陸国総社宮」境内にあった神宮寺が富田町地内に移された際、一種の神仏分離が行われ、神社内の釈迦如来像などの仏像と社僧は当寺院へ、観音像は神宮寺(現・「富田北向観音堂」(次項予定))に移されたという(当寺院には元々、「府中六観音」の1つといわれた千手観音像があったためらしい。)。


写真1:「東耀寺」山門と寺号標


写真2:入ると、正面に「天台宗別格本山」寺格石柱と「閻魔堂」(堂本尊:閻魔大王)


写真3:左手に曲がっていくと、本堂(東向き)
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法叡山 高岳院 圓福寺

2023-09-16 23:32:56 | 寺院
法叡山 高岳院 圓福寺(ほうえいさん こうがくいん えんぷくじ)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町鳥羽田656。茨城県道181号線(宮ケ崎小幡線)「鳥羽田」交差点から東に約750mで左折(北東へ)、約450m。駐車場なし(境内まで自動車で入れる。)。ゴルフ場「オールドオーチャードゴルフクラブ」の南側。
寺伝によれば、弘仁3年(812年)、円仁(慈覚大師、第3代天台座主)が奥州教化の帰路、阿弥陀仏の出現を見て開山したという。円仁は下野国(現・栃木県)生まれとされ、関東~東北地方には円仁を開山とする寺院が多いが、実際には事実ではないことが多いといわれる。当寺院の場合も、弘仁3年といえば、円仁はまだ「比叡山 延暦寺」で修行中のはずで、まだ得度もしていない(得度は弘仁6年とされる。)頃なので、ちょっと早すぎるのではないだろうか。当寺院の道路を隔てた西側に「鹿島神社」があるが、その由来碑によれば、室町時代の永享7年(1435年)に鳥羽田地頭・鳥羽田大隅守が当寺院を建立し、その寺内に常陸国一宮「鹿島神宮」の分霊を勧請した。そして、元禄12年(1699年)、水戸藩の命により当寺院と分離され、現在地に遷座したとしている。また、「鹿島神社」の北西側に伸びる台地に中世城郭の「鳥羽田城」があり(「鳥羽田(とりはた)」は、地元では「とっぱた」と称するといい、これは突端という意味だろう。)、俵藤太こと藤原秀郷の子孫である那珂氏一族の江戸氏の家臣・鳥羽田氏の居城だったとされるが、ゴルフ場の造成等で城郭の名残りは殆どなくなっているようである。
さて、円仁の開山云々は別として、十分に古い歴史を有し、相応に有力な寺院だったと思われる。現在は天台宗に属し、本尊は鎌倉時代の徳治2年(1307年)銘の造立銘札がある木造阿弥陀如来三尊像(茨城県指定有形文化財)である。他にも、室町時代作とされる絹本着色阿弥陀如来像(茨城県指定有形文化財)、平安時代末~鎌倉時代初期の木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財。元は「水戸東照宮」別当の「大照院」の本尊で、明治初期に移されたものという。)も所蔵している。また、伝承では、当地が、浄瑠璃や歌舞伎で有名な小栗判官と照手姫の終焉の地とされ、その木像が安置された「小栗堂」もある。小栗判官は創作上の人物だが、そのモデルとなったのは常陸国小栗御厨(現・筑西市小栗)の小栗城主・小栗助重とされている。「小栗堂」は当寺院本堂の西側にあり、室町時代頃とみられる助重と照手姫の等身大の木製坐像が安置されているが、元々は単に比丘(僧)・比丘尼(尼僧)像で、助重と照手姫に仮託されたもののようである。これらの像は、かつて鳥羽田の「竜含寺」(廃寺)にあったが、「竜含寺」には檀家がなく、傷んだ坐像の修理の費用も工面できなかったため、江戸に運んで浄財を募って修理し、後に当寺院に移されたという。


茨城町商工会のHPから(天台宗 圓福寺)

茨城町観光協会のHPから(木造阿弥陀如来三尊像)


写真1:「圓福寺」寺号標(「天台宗法叡山高岳院圓福寺」)と参道石段。本堂正面(南側)だが、こちら側からは入りにくく、西側の舗装路から入るのが普通。


写真2:山門


写真3:本堂


写真4:収蔵庫(木造阿弥陀如来坐像と絹本着色阿弥陀如来像が安置されている。)。


写真5:鐘楼


写真6:旧本堂


写真7:小栗堂


写真8:「鹿島神社」(場所:茨城県東茨城郡茨城町鳥羽田663)鳥居と社号標。元は「八幡神社」だったともいう。


写真9:同上、拝殿


写真10:同上、本殿(覆屋)
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光明山 無碍光院 無量壽寺

2023-08-19 23:33:44 | 寺院
光明山 無碍光院 無量壽寺(こうみょうさん むげこういん むりょうじゅじ)。
茨城県鉾田市に、山号・院号・寺号が全く同じ寺院が2つあって紛らわしい。そこで、鉾田市鳥栖にある寺院を「鳥栖無量壽寺」、同市富田にある寺院を「富田無量壽寺」と通称している。
「鳥栖無量壽寺」の場所:茨城県鉾田市鳥栖1013。茨城県道18号線(茨城鹿島線)(旧道)の「下富田」交差点から県道を南東~南に約2km。駐車場有り。
「富田無量壽寺」の場所:茨城県鉾田市下富田542。茨城県道18号線(茨城鹿島線)(旧道)の「下富田」交差点から県道を西へ約750m。駐車場有り。
それぞれの寺院で寺伝に若干の相違があるが、まとめて書けば、概ね次の通り。大同元年(806年)、平城天皇の勅願により三論宗の寺院として開基。元久元年(1204年)に頓阿という僧が住持となって禅宗に改められ、観世音菩薩を本尊として「無量寺」と称していた。ところが、その後、当地の領主(地頭)・村田刑部少輔平高時の妻が19才で他界して当寺院に葬られたが、我が子愛おしさのために幽霊となって毎夜現れるようになり、寺僧も逃げ去り、廃寺のようになってしまった。困った村人たちは、親鸞聖人が「鹿島神宮」へ参詣するため近辺を通ることを知って、幽霊を鎮めてもらうよう願った。親鸞は小石に浄土三部経の2万6千6百余の文字を一石一字書写し(一字一石経)、塚(墓)に埋めた。その夜、村人たちの夢にその女人(幽霊)が現れ、極楽往生できたと言って西へ飛び去ったという(所謂「幽霊済度」)。親鸞は承久3年(1221年)から3年間滞在し、自ら阿弥陀如来(無量寿仏)の像を刻んで本尊とし、この本尊に因んで寺号を「無量壽寺」と改めた。当地での布教の後、当寺院は弟子の順信房信海に託された。順信房は常陸国一宮「鹿島神宮」の大中臣宮司家系の出身の僧侶で、「鳥栖無量壽寺」伝では宮司の片岡尾張守藤原信親とするが、「富田鳥栖無量壽寺」伝ではその一子・信弘とする。また、「富田鳥栖無量壽寺」の前身は、巴川畔の「塔の峰(塔山)」という場所にあった親鸞の草庵だったとするのが違いである。いずれにせよ、順心坊は親鸞の二十四輩第三(24人の直弟子のうち第3番)とされ、「鹿島門徒」と呼ばれる当地を中心とした布教のリーダーとなったという。現在、「鳥栖無量壽寺」は浄土真宗本願寺派に属し、本尊は阿弥陀如来。「富田無量壽寺」は真宗大谷派に属し、本尊は阿弥陀如来。
蛇足:「富田無量壽寺」伝によれば、親鸞が現・笠間市稲田に在住していた頃、説法を受ける人々の中に熱心に聞き入る白髪の老人がいた。その老人が弟子入りを願い出たため、「釈信海」という法名を授けた。後日、この老人が鹿島明神の化身であったという話が広まり、これを耳にした宮司・片岡信親が社殿の戸帳を開いてみると、そこに「信海」という法名が書かれていたという。これに感じ入った信親が子息の信弘を親鸞に弟子入りさせたという。つまり、信海というのは、仏教(浄土真宗)に帰依した鹿島明神の法名ということになっている。


写真1:「無量寿寺(鳥栖)」境内入口。門に「親鸞聖人旧跡 無量寿寺」とある。また、「茨城百景 無量寿寺」の石碑も建てられている。


写真2:同上、山門


写真3:同上、鐘楼


参考画像:同上、(焼失前の)本堂。宝永3年(1706年)頃に再建されたもので、茨城県指定文化財(建造物)だったが、2021年1月に火災に遭い焼失。


写真4:同上、親鸞聖人像


写真5:同上、菩提樹(ボダイジュ)。幹囲約2.25m・樹高約8m・根回り約6.6m、樹齢約600年とされる(ただし、主幹は既に枯死している。)。親鸞聖人お手植えとされ、伝承では、親鸞聖人が撒いた念珠から育ったものという。茨城県指定文化財(天然記念物)。


写真6:同上、斑入り銀杏(イチョウ)。葉に白い斑(ふ)が入ったイチョウは珍しいらしい(葉が無いときの写真で申し訳ありません。)。鉾田市指定文化財(天然記念物)。


写真7:同上、焼け榧(カヤ)。親鸞聖人が焼いた榧の実を播いたのが育ったもので、半分黒く焦げたような実を付けることから「焼け榧」と呼ばれている。これも鉾田市指定文化財(天然記念物)。


写真8:「無量寿寺(下富田)」境内入口。寺号標は「親鸞聖人旧跡地 二十四輩第三番 富田 無量壽寺」。


写真9:同上、極楽之要門


写真10:同上、親鸞聖人像


写真11:同上、本堂
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雷電山 慈心院 萬福寺

2023-07-01 23:33:15 | 寺院
雷電山 慈心院 萬福寺(らいでんさん じしんいん まんぷくじ)。
場所:茨城県行方市羽生745。「羽生郵便局」前から国道355号線を北西へ約170mで右折(北へ)、道なりに約140m進んで右折(北東へ)、約95mで境内入口前。駐車場は、右手の狭い道路を約170m進んで左に入ったところにある(それぞれの曲がり角に案内看板あり。)。
寺伝によれば、寿永2年(1183年)、源平合戦に敗れた平家一族は「都落ち」して九州に向かったが、このとき平重盛(平清盛の嫡男)は既に亡くなっており、その遺臣・平貞能は重盛の遺骨を奉じて東国に逃れた。常陸国の「白雲山」(現・茨城県城里町の「白雲山 小松寺」(2019年5月25日記事))に遺骨を葬った後、更に追手を逃れて常陸平氏である常陸大掾氏の一族、行方次郎(平忠幹)の庇護をうけた。現・行方市若海に草庵を結び、重盛の祈願仏であったという阿弥陀如来立像を安置し、主君・重盛と没落した平家一門の冥福を祈って生涯を終えた。これが当寺院の前身とされる。南北朝時代には、相模国から芹沢氏(常陸大掾氏の嫡流)が移り住み、現・行方市芹沢~若海周辺を治めていたが、寛正5年(1464年)、芹沢城主・芹沢俊幹が忠伝和尚を招き、実母である貞覚尼(慈心院殿)の菩提を弔うとともに、重盛を弔ってきた草庵を芹沢に移して「慈心院 萬福寺」としたのを当寺院の開基とする。江戸時代になると、水戸藩第2代藩主・徳川光圀の寺社改革により、元禄10年(1697年)に現在地に移転させられたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。


「天台宗 雷電山慈心院 萬福寺」のHP


写真1:「萬福寺」境内入口


写真2:仁王門。天正6年(1578年)に「逢善寺」(現・茨城県稲敷市。2022年5月28日記事)の仁王門として建立されたもので、当寺院の住職が元「逢善寺」の留守住職をしていた縁故から譲り受け、霞ヶ浦を船で運んで享保9年(1724年)に移築したものという。室町時代末期の貴重な遺構として茨城県指定有形文化財となっている。


写真3:金剛力士像(吽形)。享保8年(1723年)銘がある。行方市指定有形文化財(阿形・吽形とも)。


写真4:石段


写真5:阿弥陀堂。石段を上って直ぐの正面にある。貞享4年(1687年)建立。こちらに本尊である、平重盛の祈願仏であったという阿弥陀如来立像と観世音菩薩・勢至菩薩の両脇侍立像が安置されている。阿弥陀如来立像は高さ約96cmで、所謂「歯吹きの阿弥陀」(わずかに開口して歯が見える形。口から光を放って十方を照らすという。)で、全国的にも珍しいもの。なお、製作年代は室町時代中期頃とされる。阿弥陀堂、阿弥陀如来立像・両脇侍像とも、茨城県指定有形文化財。


写真6:本堂。阿弥陀堂の直ぐ後ろにある。こちらにも鎌倉時代後期頃の木像阿弥陀如来立像(行方市指定有形文化財)が安置されている。
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笠掛山 神宮寺 宝幢院

2023-04-15 23:31:44 | 寺院
笠掛山 神宮寺 宝幢院(かさかけさん じんぐうじ ほうどういん)。
場所:茨城県行方市玉造乙69。「玉造郵便局」前から茨城県道116号線(鹿田玉造線)を北に約550m(途中、「鹿島鉄道玉造町駅跡」に突き当たるので、東にクランクあり。)の丁字路を右折、その先、二岐に分かれるが、左が当寺院正面(約170m)、右が当寺院の東側に行く道路で、駐車場は右側を進む(約250m)。
寺伝によれば、天台宗開祖・最澄(伝教大師)の高弟・最仙上人が延暦24年(805年)に開創したという。現・行方市玉造乙の「大宮神社」(2023年2月18日記事)の別当寺として、元はその傍(神社境内の忠魂碑付近という。)にあって「神宮寺」と称していたが、その後荒廃した。観応2年(1351年)、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」西塔地区の「宝幢院」の僧・東範和尚が当地に来住した際に再興して、東国布教活動の一つとした。以来、当寺院は「宝幢院」と称するようになった。中世には、地理的な条件から、常陸大掾氏の庶流・玉造氏の強い影響を受けるようになり、永享3年(1431年)には第13代玉造城主・玉造憲幹が梵鐘を鋳造寄進した(行方市教育委員会による現地説明板による。ただし、憲幹は1566年没とされるので、時代が合わない。)。また、本尊の十一面観世音菩薩像は、永正5年(1508年)、玉造氏の家臣を檀那として奉納されたものとされる。江戸時代に入り、寛永3年(1626年)の石高は35石8合で、末寺2ヵ寺・門徒13ヵ寺があった。しかし、寛永12年(1635年)焼失~寛文9年(1669年)再建、天和元年(1681年)焼失~貞享元年(1684年)再建、弘化元年(1844年)焼失~万延元年(1860年)再建と、度々火災に遭う。このうち、寛文9年の再建は、水戸藩第2代藩主・徳川光圀によるものとされ、理由は不明だが、光圀は江戸幕府第3代征夷大将軍・徳川家光の忠臣・梶定良の葬儀を当寺院で行うなど、当寺院を重んじたことが窺われる。なお、当寺院の銅鐘は、寛永12年の火災により、筋割れが入り鳴らなくなってしまったが、延宝8年(1680年)に江戸・神田の鋳物師・小沼播磨守藤原正永により鋳直され、再び鳴るようになった。幕末の水戸藩による大砲鋳造のための供出や太平洋戦争時の金属回収の際も、由緒ある名鐘として残された(昭和35年、茨城県指定文化財に指定。)。
蛇足:「比叡山 延暦寺」西塔地区に約14.5mの相輪橖(そうりんとう。「橖」は「塔」と同じ。)があるが、元は同地の「宝幢院」の付属施設だった。「幢」には塔の意味があり、比叡山「宝幢院」は、最澄が経典を納めるために計画されたが、最澄の存命中には完成せず、弟子の恵亮により嘉祥年間(848~851年)に惟仁親王(第56代清和天皇)の御願寺として建立されたという。比叡山「宝幢院」は鎌倉時代~南北朝時代に廃絶して現存しないが、相輪橖は残っている(現在のものは明治29年の再建、昭和45年解体修理。)。現・行方市西蓮寺の「尸羅度山 曼殊院 西蓮寺」(2023年2月4日記事)にも「相輪橖」があり、上記のような事情を踏まえると、常陸国における天台宗の教線拡大において「西蓮寺」や当寺院に対する本山の期待が高かったことが窺われる。


写真1:「宝幢院」境内入口。寺号標、山門(仁王門)。山門は明和4年(1767年)再建。


写真2:石の仁王像(阿形)。安永5年(1776年)安置。山門が再建された後も、再び焼失を恐れて仁王像はなかなか作られなかったが、石像ならば燃えることはないとして、石の仁王像が作られたという。


写真3:鐘楼


写真4:銅鐘。竜頭までの高さ140cm、径77cm。


写真5:本堂
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