神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

三島神社(茨城県古河市)

2024-09-14 23:36:42 | 神社
三島神社(みしまじんじゃ)。
場所:茨城県古河市水海188。国道354号線「水海」交差点から西へ約400m、ガソリンスタンド「山中商店 水海SS」の角を左折(南へ)、道なりに南西へ約400m。駐車スペースあり。
創建については不明だが、伝承(民話)によれば、次の通り。丘の林の中に一際高いイチョウの大木があった。ある日、そのイチョウの頂上に竹の魚籠が引っ掛かっていたので、村人が集まって大騒ぎとなった。見ると、魚籠の中のものがキラキラ光っている。若者が木に登って下ろしてみると、中に3本の筋がある黒石が入っていて、その筋が3人の人物のようにも見えた。村人らは不思議に思い、社を建てて魚籠ごと黒石を御神体として祀ることにした。これが当神社の由来であるという。明治8年に焼失して廃寺となったが、当神社の西側に別当寺院「満蔵院」があり、その第6世・義空によって享保20年(1735年)に書かれた当神社の由緒書には、古老の言い伝えとして同様の内容が記され、「我は三島の神なり、伊豆の海・空を飛び来たった」との神託があったとしている。また、室町時代の京都「聖護院」門跡であった准后道興の紀行文「廻国雑記」に、上記「満蔵院」に逗留したとして、「下総国こほりの山といへる所に伊豆の三嶋を勧請し奉りて大社ましましけり、・・・」という記述がある。「こほりの山」というのは当地の地名で、今も「凍ノ山」という小字がある。そして、現在の当神社の祭神は大山祇命で、伊豆国一宮「三嶋大社」(現・静岡県三島市、2011年11月4日記事)と同じである(ただし、現在の「三嶋大社」では事代主命と同座に祀り、あわせて「三嶋大明神」と称している。)。
さて、現在の当神社の周囲を見渡すと想像がつかないが、「廻国雑記」の成立した文明19年(1487年)に当神社は既に存在し、しかも京都の神社を見慣れた道興が「大社」と称するほどの威容があったということになる。当神社は、水海の中で「町水海」と称される地区の鎮守(明治4年、村社)で、かつては西側に「日下沼(釈迦沼)」という大きな沼に面していた。そして、中世には、水海は日下沼や利根川の水運の基地(津、港)のようになっていたようである。祭神の大山祇命は、その神名、あるいは娘神の木花之佐久夜毘売が富士山の祭神であることなどから、当然、山の神ではあるのだが、同じく大山祇命を祀る伊予国一宮「大山祇神社」(現・愛媛県今治市)が大三島という瀬戸内海の島にあり、「三嶋大社」は伊豆諸島造島の神ともされるように、海の神でもある。また、別名・和多志大神ともいって、渡船場にも多く祀られているという。よって、少なくとも中世には、港湾関係の富裕な人々によって祀られていた可能性が高い。
そして、上記の地名「凍ノ山」であるが、これが本来は「郡」、つまり、まだ所在地が確定されていない古代の下総国「猿島郡家」の所在地に比定する説がある。この説に対しては、現・古河市域は旧・下総国葛飾郡に属したのではないか、という反対説がある(なお、「葛飾郡家」は「下総国府」(2013年1月12日記事)と同じ現・千葉県市川市にあったとするのが通説。)。ただ、当地は利根川・江戸川に近く、その流路等とも絡み、古代の国境がどうなっていたかは難しい問題である。仮に当地が猿島郡に属したとするならば、当神社を含めた、もう少し広い範囲で「猿島郡家」跡の比定地として想定することも十分あり得ると思われ、それが中世における当地の繁栄につながるのかもしれない。


写真1:「三島神社」境内入口、社号標


写真2:鳥居。額は「正一位三嶋大明神」


写真3:社殿前


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:「社殿再建記念之碑」


写真7:境内社「朝日の宮」(「八幡神社」、「天満宮」、「稲荷神社」の合祀)


写真8:境内社「夕日の宮」(「浅間神社」、「水神宮」、「大神宮」、「住吉神社」の合祀)
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諏訪神社(茨城県結城市上山川)

2024-08-24 23:32:08 | 神社
諏訪神社(すわじんじゃ)。通称:結城諏訪神社、上山川諏訪神社。
場所:茨城県結城市上山川161。茨城県道23号線(結城坂東線)と同54号線(明野間々田線)の「芝崎」交差点から南に約400m。駐車場あり。ただし、こちらは社殿の裏側に当たり、西向きの社殿の前に約250mの真っすぐな参道があって、入口に朱塗りの両部鳥居がある。
社伝によれば、天慶3年(940年)、「平将門の乱」に対して、俵藤太こと藤原秀郷に将門討伐の宣旨が下り、秀郷が信濃国一宮「諏訪大社」(現・長野県茅野市ほか)から諏訪大明神の神霊を勧請して、現在の境内地で必勝祈願を行ったのを創建とする。将門に勝利した秀郷は下総国と下野国の守護に任じられたことから、諏訪大明神の御神徳に感謝し、社殿を建築して、神事に使った鏑矢を御神体として奉納した。それ以来、源頼朝に従い奥州合戦に参戦した当地の領主(結城郡地頭)の結城氏初代当主・結城朝光が戦勝祈願して勝利を収めるなど、万事必勝の神として多くの武将の信仰が篤かったという。江戸時代には、慶安2年(1649年)に社領五石を認められた。明治6年、村社に列格。現在の祭神は、建御名方命・事代主命・八坂刀女命。
なお、社殿の前にある「勝負岩」は、将門の軍勢の矢から秀郷を守ったといわれ、岩に触るとパワーを授かり、願いが叶うとされている。また、毎月4月3日の神武祭に行われる「太々神楽(だいだいかぐら)」は五穀豊穣、氏子・崇敬者の安寧を祈願するもので、茨城県指定文化財となっている。「太々神楽」自体は茨城県西部・南部の他の神社等でも行われているが、当神社においては、神楽師が半世襲的な伝承形態で、伝承者全員が舞を踊り、笛・太鼓を一通り演奏することができる免許皆伝となった者で構成されており、結城市内の他の神社にも出張して演じることに特徴があるという。


結城諏訪神社のHP

結城市のHPから(上山川諏訪神社太々神楽)


写真1:「諏訪神社」鳥居(社殿正面)


写真2:拝殿。社殿が西向きなのは、本社である信濃国一宮「諏訪大社」の方角を向いているためという。


写真3:本殿。室町時代に再建、元文2年(1737年)改修とされ、結城市指定文化財。


写真4:本殿横の鳥居。ちょっと変な場所にあるが、社殿の背後に県道が通り、専らそちらから参拝者が来るためだろう。


写真5:神事殿(神楽舞台)


写真6:由緒碑


写真7:境内社「天満社」。他にも、石祠の境内社がいくつかある。


写真8:「勝負岩」
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内外大神宮

2024-07-27 23:33:32 | 神社
内外大神宮(ないげだいじんぐう)。通称:お神明さま(おしめさま)。
場所:茨城県筑西市小栗1。茨城県道45号線(つくば真岡線)と同216号線(岩瀬二宮線)の「旭町」交差点から、45号線を北へ約1.4km進み、交差点を左折(西~南西へ。ゴルフ場「スプリングフィルズ ゴルフクラブ」へ入る道路の反対側)して約400m、「内外大神宮本殿 御遷殿→」という案内板のある丁字路を右折(北西へ)、約240mで「宮本公民館」、その駐車スペースの北東側が境内入口。
社伝等によれば、第26代継体天皇(在位:507?~531?年)の頃、伊勢神領として当地を選定し、創建された。大同元年(806年)に社殿造営したという。当地の「伊勢神宮」(現・三重県伊勢市)の荘園である「小栗御厨(伊勢御厨小栗保)」は旧・協和町全域を含む現・筑西市東部の地域で、寛治・康和年間(1087~1104年)頃に常陸国新治郡から分立して独自の行政単位として成立し、保延2年(1136年)に改めて「伊勢神宮」内宮に寄進され、保元年間(1156~1159年)には国益(課税)免除・国司不入権を認める奉免宣旨を受けたとされるので、当神社も実際には平安時代末期に御厨の守護神として勧請されたものとみられる。そして、当地の現地開発領主として私領化を進めたのが小栗氏で、常陸大掾・平重幹の子の重家が小栗氏の祖である。小栗氏は地方武士団として成長し、鎌倉幕府成立後、重家の孫・重成が当地の地頭職となり、その子孫が世襲した。「吾妻鏡」によれば、治承4年(1180年)、源頼朝が佐竹氏追討の帰路、小栗御厨内の小栗重成の「八田館」(現・筑西市八田?)に立ち寄ったという。しかし、小栗氏は康正元年(1455年)、鎌倉公方・足利成氏に攻撃されて没落した。「小栗御厨」も室町時代初期の動乱の中で御厨(伊勢神領)としての機能を失っていったが、当神社は長く「小栗御厨」59ヵ村の総鎮守として人々の崇敬を集めていた。元々は現在の拝殿が位置する一段低い場所にあったが、応永年間(1394~1427年)に兵火にかかり焼失、御遷殿が天正2年(1574年)に、本殿が延宝7年(1679年)に再建され、宝暦3年(1753年)に現在地に移された。本殿は、神明造本殿を2棟を並立させる社殿形式として我が国で現存する最古のものであり、御遷殿も室町時代の様式を伝えるものとして重要であることから、いずれも国指定重要文化財となっている。内宮の主祭神は天照大神で、相殿に天手力男神・万幡豊秋津姫命を祀り、外宮の主祭神は豊受大神で、相殿に天津彦彦火瓊瓊杵尊・天児屋根命・天太玉命を祀る。
因みに、説教節・浄瑠璃・歌舞伎などで有名な「小栗判官と照手姫」の物語(長くなるので、あらすじは省略。)は、小栗城主・小栗満重と助重父子がモデルとされる。ただし、物語は小栗城落城後のことになるので、当地が舞台ではない。小栗城址は当神社の北西側の丘の上にあり、当神社の境内入口の左手奥から上って行ける。


筑西市のHPから(内外大神宮 内宮本殿 外宮本殿 御遷殿)

同上(小栗判官伝説)


写真1:「内外大神宮」境内入口


写真2:社号標


写真3:鳥居


写真4;拝殿


写真5:本殿。向かって右側が内宮で、石段を上ると、御門がある。


写真6:同上、手前が内宮、奥が外宮。


写真7:同上、向かって左側が外宮で、石段を上って、御門。


写真8:同上、手前が外宮、奥が内宮。外宮の方が内宮よりやや小さめに造られている。


写真9:本殿の背後には石祠がずらり。


写真10:御遷殿(覆屋)


写真11:同上。本殿建替等のときに祭神を一時遷すための仮宮。「遷宮(うつしのみや)」ともいう。


写真12:神楽殿。毎年4月と10月の例大祭に奉納される「小栗内外大神宮太々神楽」は、寛延4年(1751年)に山城国愛宕郡「三嶋宮」の神主から当時の当神社神主・ 小栗山城守平宣政に伝授されたものという。茨城県指定無形文化財。
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犬田神社(茨城県桜川市)

2024-06-29 23:33:55 | 神社
犬田神社(いぬたじんじゃ)。
場所:茨城県桜川市犬田696。国道50号線「鍬田」交差点から茨城県道41号線(つくば益子線)を南東へ約1.2kmで左折(北東~北へ)、約160m(北関東自動車道の高架下を通ったら直ぐに左折して、再び高架下を潜ることになる。)。駐車場なし。
社伝によれば、日本武尊が東征の折、経津主神・武甕槌神・気吹戸主神の3柱を祀ったのが創祀で、「香取神社」と称していた。第14代・仲哀天皇の后・神功皇后が三韓征討のときに祈願し、大勝を報賽して神田の寄進があった。承平年間(931~938年)、平将門にこの神田を没収された。寛治4年(1090年)、源義家が奥州征伐に向かう途中で当神社に参拝したとき、御神木を眺めて「幾世をか 経りし欅の 三の椏(また)に みつの湛(たたえ)の 久しかるべし」と詠んだといわれている。なお、この御神木の欅(ケヤキ)は樹齢約1200年といわれていたが、平成8年に枯れてしまい、根元から2mを保存することになった。明治中期の記録によれば、樹高約30m、中途から三枝になって洞があり、そこに水を湛えて「御手洗」と称していた。旱(ひでり)のとき、この水を汲みだして祈ると必ず雨が降るということで、村人から崇敬されたという。天文12年(1543年)、水戸城主・佐竹義照が社殿修営。寛永3年(1626年)、笠間城主・浅野長重が社殿を造営した(平成4年改築)。明治6年、村社に列格。同年に村内の「八幡神社」(文正元年(1466年)創建、祭神:誉田別尊)を合祀して「犬田神社」に改称した。現在の祭神は、経津主命、武甕槌命、息吹戸主命、誉田別尊。
ところで、永保3年(1083年)に源義家が陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して始まったのが「後三年の役(後三年合戦)」といわれる。この戦いは、朝廷からは私戦とみなされ、 寛治元年(1087年)には義家方が勝利したにもかかわらず、恩賞はなく、義家が陸奥守を解任される結果となっている。上記の義家の逸話は、少し時代がずれていることになるが、理由は何だろうか。因みに、当神社の南側に、その名も「犬田神社前遺跡」という遺跡があり、北関東自動車道建設に伴う発掘調査が平成14~15年に行われた。その結果、縄文時代中期、古墳時代中・後期、奈良・平安時代の住居跡や中世・近世にかけての堀・溝跡や墓壙跡などの複合遺跡であることが確認された。つまり、縄文時代の昔から集落があったということで、中世には豪族の館もあったらしい。出土物では、中世の鍍金された銅製観世音菩薩像 (高さ約10cm)などがあり、当時の信仰の一端も窺われる。源義家ではないにしても、古代末期~中世くらいの豪族・武将の信仰の場であったかもしれない。


茨城教育財団 発掘情報いばらきのHPから(犬田神社前遺跡)


写真1:「犬田神社」参道


写真2:鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:境内の石祠


写真6:社殿背後のケヤキ大木の切り株


写真7:同上、説明版がある。


写真8:同上
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五所駒瀧神社

2024-06-08 23:34:33 | 神社
五所駒瀧神社(ごしょこまがたきじんじゃ)。
場所:茨城県桜川市真壁町山尾499。茨城県道7号線(石岡筑西線)と同41号線(つくば益子線)の「真壁消防署前」交差点から7号線を東に850mで「五社駒瀧神社入口」の案内柱がある。ただし、こちらは裏参道で、入口が狭くて急坂を下りるので、少し怖い。表参道へは、道順が分かりにくいが、「真壁消防署前」交差点から41号線を南に約130mで左折(東へ)、約270mで右折(南へ)、約110mで左折(東へ)、約450mで一の鳥居前に着く。駐車場有り。
社伝等によれば、長和3年(1014年)、「真壁富士権現山」(標高396m)の山中に一条の滝があり、村人らが五穀豊穣を願って滝の近くに祠を立てたのが創祀という。 この滝には馬がたびたび現れたことから「駒ヶ滝」、この祠も「駒瀧明神」と呼ばれるようになった。承安2年(1172年)、初代真壁城主・真壁長幹の一族・桜井太郎良幹が常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神・武甕槌大神の分霊を勧請し、真壁城の辰巳の方位(南東)に当たる現在地に社殿を造営、以後、真壁氏の氏神として崇敬されるようになった。江戸時代には、幕府より社領5石を受け、笠間藩主の祈願所として春と秋2度の祭儀を執行したという。明治6年、村内の「天満神社」、「飯綱神社」、「富士神社」、「日吉神社」の4社を合祀し、「五所駒瀧神社」と改称した。現在の祭神は武甕槌大神、大山咋神、猿田彦神、木花開耶姫神、菅原道真公。
なお、国選択無形民俗文化財に指定された「五所駒瀧神社の祭事」、通称「真壁祇園祭」は、真壁町内への神輿渡御、山車巡行などが行われる。厄除けの行事だが、京都「八坂神社」の祇園祭とはルーツの違う祭礼で、独自の伝統を有しているという。また、「かったて祭」という祭礼もある。これは、多くの氏子らが灯した松明を持って神社の背後にある「権現山(真壁富士)」の山頂まで登り、山の神様(「真壁富士権現」)に神火を奉納するというもの。平安時代、平将門が近くの湯袋峠の合戦で勝利したことから始められたとの伝承がある。「かったて」という名も、「合戦に勝った」ということに因むともされている。
蛇足:当神社の創建について、次のような伝説がある。常陸平氏の嫡宗家で常陸大掾、多気城主・多気(大掾)致幹の奥方が、ある夜の夢に老翁と老媼が現れ、「我々は筑波、加波といい、祖父母に当たる。」と告げられ、懐妊の示唆を受けた。その後、めでたく男児が生まれて長寿丸と名付けられ、祝宴が続いたが、七夜目に突然、長寿丸の姿が見えなくなった。家臣一同大騒ぎとなり、八方を探したが見つからなかった。その後、真壁の東の山中に、金襴の衣に包まれた幼児がいるとの噂が立った。魔性の者ではあるまいかと、樵(きこり)たちも近づけないでいたが、多気家の家臣たちが見に行くと、正しく長寿丸で、2頭の鹿が守っていた。近くに仮屋を建て、長寿丸に産湯を使わせた。これが湯袋山(峠)の名の由来である。また、近くに二丈(約6m)もの大きな滝があり、「馬来、馬来」という音がした。まもなく2頭の馬が現れ、仮屋の前に跪いた。このことを聞いた致幹が滝のほとりに宮社を建立し、「駒下瀧の明神」と称した。2頭の馬は朝廷に献上され、その由来を聞いた帝は長寿丸に、筑波山と加波山の間にある真壁郡を領地として賜った。この長寿丸というのが、初代・真壁城主の真壁長幹である。なお、以来、真壁城では鹿の肉を食べないという(言うまでもないが、鹿は「鹿島神宮」の祭神・武甕槌大神の神使である。)。この伝説は、江戸時代の元禄12年(1699年)、真壁充幹(真壁氏第22代当主、佐竹家家臣)によって書き残された「当家万覚書」による(ただし、桜井崇・鈴木常光著「真壁町の祇園祭」の孫引きで、かなり省略した。)。なお、史実では、真壁長幹は多気致幹の子・直幹の四男に当たる。因みに、直幹の妻は房総平氏の千葉介常胤の娘といわれ、長子・義幹が多気氏を継ぎ、他の3子は分家として下妻氏、東條氏、真壁氏となったとされる。


茨城県神社庁のHPから(五所駒瀧神社)

桜川市観光協会のHPから(五所駒瀧神社)

同(かったて祭)


写真1:「五所駒瀧神社」一の鳥居、社号標「祈願所 五所神社」


写真2:「駒啼石」。平たい石の左上のところに丸く浅い窪みがある。これが馬の踏みつけた跡だという。


写真3:二の鳥居


写真4:三の鳥居


写真5:狛犬。とても良い表情。


写真6:社殿


写真7:北側参道にある「景勝地 五所駒瀧神社」石碑


写真8:北側参道の鳥居。傍に川が流れている。
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