神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

真壁城跡

2024-06-01 23:33:38 | 史跡・文化財
真壁城跡(まかべじょうあと)。
場所:茨城県桜川市真壁町古城377(「桜川市立真壁体育館」の住所)。茨城県道41号線(つくば益子線)「古城」交差点から北へ約120m、右側(東側)に「真壁体育館」駐車場への入口がある。「真壁体育館」のある場所が「真壁城」本丸跡とされる。
「真壁城跡」は、平安時代末から戦国時代にかけて常陸国真壁郡周辺を支配した真壁氏の居城(中世城館)跡とされる。常陸平氏の惣領家・多気氏の祖とされる多気直幹の四男・長幹が承安2年(1172年)に真壁郡の郡司となり、真壁氏を名乗った。長幹が源頼朝に臣従して御家人となった後、南北朝時代には、真壁氏は最初に南朝方、後に北朝方について、室町幕府の御家人(京都扶持衆)となったが、応永30年(1423年)、大掾氏の一族である小栗氏の反乱に加担したとして「真壁城」は落城、第11代城主・秀幹は戦死した。永享8年(1436年)、庶子家出身の朝幹が所領を回復し、家督を承継した(第13代)。戦国時代には佐竹氏の家臣となっていたため、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国秋田に移封となると、これに第19代・房幹らが随行し、「真壁城」は空城となった。その後、浅野氏が城主となったが、真壁を領有したまま「笠間城」(現・茨城県笠間市)に移ったため、「真壁城」は廃城になったとされる(なお、笠間藩の陣屋は旧・真壁町市街地にあった。)。
昭和56年以降の発掘調査の結果、「真壁城跡」は15世紀中頃(室町時代後半)に方形の館が築かれ、その後の改変を経て、現在の遺構は16世紀後半(戦国時代~安土桃山時代)頃のものとされている。土塁や堀跡などが良好に残っていることから、昭和9年に茨城県指定史跡、平成6年に国指定史跡となった。
さて、伝承によれば、「真壁城」は、真壁長幹が真壁郡司になったとき、「真壁郡家(郡衙)」の場所に築城したのが最初、といわれている。ただし、「真壁城跡」の発掘調査では、15世紀前葉以前の遺構は出土していない。一方で、少なくとも奈良時代~平安時代初期の白壁郡(延暦4年(785年)に真壁郡に改称)の郡家は現・桜川市真壁町下谷貝の「下谷貝長者池遺跡(谷貝廃寺跡)」(前項)付近にあったという説が有力である。そうすると、「真壁郡家」は「真壁城跡」付近に移転したのか(もちろん、最初から「真壁城跡」付近にあったとする説もある。)、移転したとするなら、いつ移転したのか、なぜ移転したのか、という問題も出てくるが、そのあたりの解明は今のところ難しそうである。


桜川市観光協会のHPから(国史跡 真壁城跡)


写真1:「国指定史跡 真壁城跡」石碑。本丸跡とされる「真壁体育館」の駐車場にある。


写真2:「真壁城跡」説明版。この奥が二の丸方面。さらに奥には中城、外曲輪などがあったとされる。お城好き(マニア)なら、いろいろ蘊蓄があるのだろうが、このブログではスルー(申し訳ない。)。


写真3:「真壁体育館」と駐車場


写真4:「子育稲荷神社」鳥居。境内は、本丸跡の北側、本丸搦手虎口に当たる。


写真5:同上、社殿。「真壁城」廃城の後の創建という。


写真6:「史蹟 真壁城址」石碑。昭和10年建立。「子育稲荷神社」社殿の近くにある。
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下谷貝長者池遺跡

2024-05-25 23:32:38 | 史跡・文化財
下谷貝長者池遺跡(しもやがいちょうじゃいけいせき)。通称:谷貝廃寺跡。
場所:茨城県桜川市真壁町下谷貝2434。茨城県道7号線(石岡筑西線)と同148号線(奥山田岩瀬線)の「細芝」交差点から7号線を東へ約550mで左折(北へ)すると、「長者池」に突き当たるので左折して(右折でも同じ。)、「長者池揚水機場」の北側に回り込む。狭い道路を北へ約110m進んで丁字路の突き当りになるが、未舗装の道が北に続いており、その先の左側一帯と思われる。駐車場なし。
旧・真壁町内において古代瓦の散布がみられる場所として、「谷貝廃寺跡」、「源法寺廃寺跡」、「山尾権現山廃寺跡」などがある。このうち、「山尾権現山廃寺跡」は、真壁町山尾の「権現山」(標高396m)の中腹にあって、金堂・塔跡の基壇や礎石なども発見されており、古代(平安時代)の山岳寺院跡であることがほぼ確実とされる。一方、「谷貝廃寺跡」と「源法寺廃寺跡」は平地にあって、いずれかが古代の「白壁(真壁)郡家」に付属する郡寺であるとみられている。「常陸国風土記」(奈良時代初期)には白壁郡に関する記述が失われているが、新治郡の条に「南に白壁郡がある」(現代語訳)とあり、「和名類聚抄」(平安時代中期)の郡名に「真壁」、読みが「万加倍(まかべ)」とある。白壁郡から真壁郡への変更は、「続日本紀」の延暦4年(785年)の記事によれば、第49代・光仁天皇の諱・白壁王に遠慮して変更したものとされる。白壁郡の建郡時期は不明だが、7世紀後半頃に新治郡から独立したものとみられている(以下、「真壁郡」で統一して記述する。)。真壁郡の郡家の場所は未確定だが、「谷貝廃寺跡」を郡寺とみて、その付近に郡家もあっただろうと考えられている(そのために、「谷貝廃寺跡」のみではなく、より広く「下谷貝長者池遺跡」という呼称が使われるようになったようだ。)。「谷貝廃寺跡」で採取された瓦には、新治郡の郡寺とされる「新治廃寺跡」(2018年8月11日記事)の瓦と同笵(同じ型で製作)や同文のものがあり、あるいは「新治廃寺跡」と同じ製瓦所から供給されたものかもしれないという。真壁郡が新治郡から分離・独立したとされることから、新治郡の強い影響下にあり(郡司が同族?)、新治郡家と新治(廃)寺の関係に倣って真壁郡でも郡家・郡寺が建てられたと考えるのが自然だろう。また、「谷貝廃寺跡」の東に「小栗道」という中世街道(いわゆる鎌倉街道)が現・筑西市小栗から南(やや南東)に向かって走っており、これが古代の「伝路」(郡家の間を結ぶ古代官道)だったとみられている。因みに、その「伝路」は桜川の渡河地点付近で二手に分かれ、①南東に進む道は、現・石岡市小幡へ出て、そこから東に進めば「常陸国府」(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)・「茨城郡家」(「外城遺跡」(2023年12月2日記事))に至る、②南に進む道は、筑波山の南麓の「筑波郡家」(「平沢官衙遺跡」(2020年12月12日記事))、更に南に進めば「河内郡家」(「金田官衙遺跡」(2021年4月17日記事))に至る、というものだったと考えられる。そして、「谷貝廃寺跡」付近は、「駅伝長者」という長者の屋敷跡であったとの伝承がある。長者屋敷は広さ1万数千坪といい、「長者池」は屋敷の池だったので、その名があるという。また、かつては、松林の中に深さ6尺(約1.8m)くらいある長い堀跡が残っていたとされる。時期不明だが、長者は足利時代頃の人で、名は谷貝入道範助であったとも伝えられている(仲田安夫編著「真壁町の昔ばなし」ほかによる。)。ちょっと時代が下るので、この長者が古代の郡司や駅長の後裔かどうかはわからないが、他の郡家・駅家の推定地で長者伝説が多いのも確かである。
一方、「谷貝廃寺跡」から南に約2km(直線距離)のところにある「源法寺廃寺跡」を「真壁郡家跡」とする説もある。こちらは、桜川の右岸(北岸)、台地の端に位置しているところから、古代の税の中心である米の集散を行うのに桜川の水運を利用したとすれば、川岸に官衙施設(特に正倉など)を設置するのが便利であるとする。そして、「源法寺廃寺跡」と称しているが、古代瓦の採取が比較的少ないことから、廃寺跡ではなく、官衙跡ではないか、というものである。なお、こちらも「小栗道」が東側に通っている。因みに、「源法寺廃寺跡」で採取された古代瓦には、「谷貝廃寺跡」と同笵のものもある。ただし、それは、蓮華文が複弁から単弁になるなど簡略化されていて、同じ8世紀頃のものではあるが、「谷貝廃寺跡」より後のもので、あるいは真壁郡内で製作された瓦かもしれないとされている。このことをどう解釈するか難しいところで、いずれにせよ、発掘調査等を行ってみないことには結論が出せない、ということのようである。


写真1:「長者池」。奥の赤い建物が「長者池揚水機場」。平成4年度から利用開始となり、農業用水のほか、防火用水としても使われているとのこと。
写真

写真2:「下谷貝長者池遺跡(谷貝廃寺跡)」。範囲がよくわからないが、この未舗装道路の左側(西側)の奥の一帯と思われる。なお、右側(東側)は低くなっていて、堀跡? 又は池の一部だったような感じである。


写真3:現状、畑の土塁や石積みもあるが、これは最近のものだろう。


写真4:同上


写真5:「源法寺廃寺跡」(場所:桜川市真壁町源法寺1016。茨城県道131号線(下妻真壁線)「塙世」交差点から南西へ約1.7km。「筑波滝の山共同墓地」という墓地があるが、その北東辺り。ただし、その墓地からは道はなく、手前の自動車整備工場の向かい側から入る道がある。)。今も石造物(石仏、石塔など)があり、そこが中心のようである。なお、奥に筑波山が見える。


写真6:同上、現在ある小さな墓地。石仏など。


写真7:同上、無縫塔(卵塔)など。


写真8:同上、ある資料によれば、廃寺の礎石らしきものがあるとのことだが、これがそうだろうか?
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(伝)平国香の墓(茨城県筑西市)

2024-03-30 23:33:37 | 史跡・文化財
(伝)平国香の墓(でん たいらのくにかのはか)。
場所:茨城県筑西市東石田1048(「石田山 長光寺」の住所)付近。茨城県道45号線(つくば真岡線)と同132号線(赤浜上大島線)の「東石田」交差点から東へ約230m。駐車場あり。「鹿島神社」(住所:筑西市東石田919)は「長光寺」の西側の道路を北へ約600m、右折して(東へ)約150m。駐車場あり。「(伝)平国香の墓」は、「長光寺」境内入口から東へ約230m(押ボタン式信号機の先)の交差点を右折(南東へ)、約260mで突き当り、①左折して(東ヘ)約100m(畑の中)、②右折して(西へ)約50m(民家の庭の奥)。どちらも、私有地内なので注意。また、道路が狭くなるので、「長光寺」から徒歩を推奨。
平国香は、平姓を賜与されて臣籍降下した父・平高望(高望王)に従って昌泰元年(898年)に坂東に下り、常陸国筑波山西麓の真壁郡石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とした。常陸大掾職(常陸国の国司の第三等官)にあった源護の娘を娶り、常陸大掾の地位を受け継いだ。承平5年(935年)、甥の平将門と戦って亡くなるが、子の貞盛が藤原秀郷とともに将門を討ちとって坂東平氏の勢力を拡大したことから、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の祖ともされる人物である。国香の最期の状況は「将門記」に書かれているが、これは軍記物語であり、史実かどうかは不明。また、その書きぶりからしてもはっきりしないところが多いが、要約すれば、源護の子である扶・隆・繁の兄弟が将門を待ち伏せして攻撃した「野本合戦」で、将門が扶らを撃退し、その勢いに乗じて国香の居館である「石田館」をも襲撃して、このとき国香は敗れて自殺したか、「石田館」に火をかけられて焼死したらしい。
ということで、現・筑西市東石田に曹洞宗「石田山 長光寺」があって、その境内が「石田館」跡との伝承があり、筑西市教育委員会による説明板も建てられている。ただし、遺構等はなく、「石田館」跡は、「長光寺」から北に約400m(直線距離)離れた「鹿島神社」付近とする説も有力。また、国香の墓とされる塚や石塔などが「長光寺」の南側に数ヵ所ある。ただし、こちらは、出土品などからすると、古墳時代の古墳跡のようである。


写真1:「長光寺」境内入口、寺号標。右側に平国香に関する説明板がある。


写真2:同上、山門と本堂(本尊:釈迦牟尼仏)。山門を入ったところに桜(ソメイヨシノ)の古木がある。


写真3:「鹿島神社」参道入口。左側の道路は下り坂になっていて、ここが台地の突端に当たることがわかる。


写真4:同上、鳥居と拝殿。


写真5:同上、本殿。社伝によれば、慶長16年(1611年)、常陸小太郎の長男・殿塚右京喜氏が創建。祭神:武甕槌命。


写真6:「鹿島神社」の東側(台地下)の道路から見た「筑波山」


写真7:「(伝)平国香の墓」①説明版。石塔は、この先。奥には「筑波山」が見える。


写真8:同上、木の根元に小さな石塔がある。


写真9:同上


写真10:「(伝)平国香の墓」②説明版。こちらは完全に民家敷地の奥に入っていくので、遠慮した。
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十三塚北面薬師跡(山寺跡)

2024-02-10 23:36:45 | 史跡・文化財
十三塚北面薬師跡(山寺跡)(じゅうさんづかほくめんやくしあと(やまでらあと))。
場所:茨城県石岡市小幡字十三塚。茨城県道42号線(笠間つくば線)と同150号線(月岡真壁線)の「小幡」交差点(コンビニエンスストア「セイコーマート「八郷小幡店」がある。)から、県道42号線を西へ約2.5km、「筑波霊園」の大きな看板の出ているところで右折、約400mのところが入口(カーヴミラーのあるところ。「筑波霊園」の東北端)で、西に少し上る。なお、県道からの入るところではやや広めの道路だが、途中で未舗装になり、北面薬師跡の入口からはかなり荒れているので、自動車は、手前の旧墓地分譲事務所(廃屋)前の広いところか、もっと手前の舗装道路端に駐車して行くのが安全と思われる。
寺伝によれば、延暦元年(782年)、法相宗の僧・徳一が「筑波山寺」(後の「筑波山 中禅寺」、現・「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事))を創建したとき、その守護として筑波山の周囲4ヵ所に薬師如来を配置した(「筑波四面薬師」)が、その1つ「北面薬師 十三塚山寺」として建立されたという。ただし、「八郷町史」(2005年)では、実際には、明徳元年(1390年)に慶珍僧都が開山したのが始まりのようであるとしている。小幡は、常陸府中(現・石岡市府中など市街地)方面から筑波山への参詣のための東側参道沿いで、古くから宿場町として栄えた(県道42号線を更に西へ進むと「風返峠」に至る。)ため、「十三塚山寺」も隆盛したが、その後衰えた。明治42年には、明治40年の石岡市街地の大火で焼失した「常陸国分寺」の本堂(薬師堂)として移築され(「常陸国分寺」(2018年1月20日記事の写真5)、本尊の薬師如来像は小幡宿の「薬王院」に移された。その後も、露座の石造不動尊像への参拝者があったが、現在ではすっかり寂れ、僅かな石仏・石碑等が残るのみとなっている。
なお、地名(小字)の「十三塚」であるが、全国各地にあり、十三仏に準えて、塚に経文などを納めて供養したものとされ、村境や峠道に多いといわれている。当地では、戦国時代末期、北条氏方の小田城主・小田氏治(天庵)と佐竹氏方の片野城主・太田資正(三楽斎道誉)が戦った時の死者を当時の地頭・小幡道三が葬ったところで、多くの小さな五輪塔が建てられていたという。ただし、当地には、いわゆる「12匹の猫と大鼠の伝説」もあって、こちらのほうが有名らしい。その伝説とは、「1人の僧が筑波山を下りてきた。日暮れて、近くに寺はないかと村人に尋ねたところ、近くに無住の寺があるが、泊まれるようなところではない。何か怪しいものが棲みついていて、泊って帰ってきた者はいない、と止められた。僧は、そのような場所こそ、修行する者に相応しいと言って、その寺に行った。さて、寝ようとしたときに1匹の猫がやってきて、この寺には大きな化け鼠が棲んでいて、それが人を喰ってしまう。猫のプライドにかけて退治したいが、1匹では無理なので、あと11匹の猫を連れてきてもらえれば、大鼠と戦うことができる、と話した。そこで、僧が里に下りて11匹の大きな猫を連れてきて、読経すると、猫たちは寺の奥の方に入っていった。夜中になると、寺の中でドタバタと大きな音がしたが、やがて静かになった。朝になって見に行くと、11匹の猫と巨大な金毛の鼠が死んでいた。僧と村人たちは、12匹の猫と大鼠の塚を築いて供養した。これが十三塚の由来である。」(適宜要約)というものである。類話も各地にあるようだが、当地では、戦国時代の領主・小田氏(源頼朝の重臣・八田知家を祖とする名門)と佐竹氏方の諸将との戦いを暗示したものとする説もある。その場合、小田氏を大鼠=悪役とする扱いだが、僧や村人からすれば、どちらも共倒れになる末路を示唆したものという、穿った見方もできるようだ。

筑波四面薬師 薬王院(つくばしめんやくし やくおういん)。通称:小幡薬王院。
場所:茨城県石岡市小幡849。「小幡」交差点から西へ約900m、重複している県道42号線と同150号線が分岐する直ぐ手前(東側)のところに参道入口がある。駐車場有り。
寺伝では応永9年(1402年)、宥衡により開山。慶長年間(1596~1615年)、宥鑑の代に再興されたが、文化12年(1815年)に火災により焼失、明治2年再建。真言宗豊山派「筑波山 薬王院 光明寺」と称したが、現在は宗派に属さない単立寺院となっている。本尊:薬師如来。


写真1:「十三塚北面薬師跡」。地に落ち、薄れかけた説明板には「筑波北面薬師堂聖址」とある。


写真2:同上、池跡?


写真3:同上、石仏等。


写真4:同上、石造不動尊像。


写真5:「筑波四面薬師 薬王院 参道口」石柱


写真6:「薬王院」本堂
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藤原藤房卿遺跡(茨城県土浦市)

2023-12-23 23:31:50 | 史跡・文化財
藤原藤房卿遺跡(ふじわらふじふさきょういせき)。別名:藤原藤房髪塔塚(ふじわらふじふさはつとうづか)。
場所:茨城県土浦市藤沢1797。国道125号線と茨城県道201号線(藤沢荒川沖線)の交差点(通称「藤沢十字路」)から、県道を南へ約450m進んで分岐を右へ(東へ)、更に約100m進んだところ(「防火水そう」の赤い標識がある。)で右折(北へ)。ただし、ここからは狭い道路になり、目的地には駐車場がないので、右折せずに少し先へ進むと、「つくば霞ヶ浦りんりんロード 藤沢休憩所」(旧・「筑波鉄道 藤沢駅」)の駐車場がある。前記の台地上への入口から約160m進んで、突き当りを左折(南西へ)、約60m。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ。藤原は本姓)は、第96代・後醍醐天皇の側近の公卿(正二位・中納言)で、元弘元年(1331年)に天皇の鎌倉幕府打倒の計画(「元弘の乱」)に従ったが、露見して捕らえられた。翌年には常陸国に配流となり、現・茨城県つくば市の小田城主・小田高知(後に治久に改名)に預けられて支城・藤沢城に籠居した。なお、小田高知(治久)は鎌倉幕府側だったが、藤房に感化されてか、後に上洛して後醍醐天皇の南朝方につくことになる。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅ぶと、藤房は京都に戻って復官し、恩賞方の頭人などを務めた。しかし、軍記物語「太平記」などによれば、恩賞の不公平等などに不満を抱き「建武の新政」を批判、建武元年(1334年)に出家してしまい、その後の消息が全く不明となった(出家の理由については、「太平記」の記事と事実が異なることが多々あって、実際は不詳。)。そのため、臨済宗大本山「妙心寺」(「正法山 妙心禅寺」、現・京都市右京区)2世・授翁宗弼と同一人物とする説や、全国各地を行脚した、あるいは中国(元)に行った、という説もあり、そのため、藤房の墓というものが各地にあるという。そのような伝説がある人物なのだが、当地の「藤原藤房卿遺跡」は、藤房が当地に流されたとき、剃髪した髪の毛を約10m四方の塚に埋めたとされるもので、墓ではない。昭和14年に茨城県の史跡に指定されている。
因みに、「藤沢城」は比高約20mの台地上となる元・土浦市藤沢全域を域内とする中世城郭とされるが、城跡らしいものはあまり残っていないようだ。上記の通り、小田氏は南朝方についたため、北朝方の佐竹氏に攻撃されて敗れ、第15代・小田氏治(号・天庵)のときに大名としては滅亡し(氏治自身は徳川家康の次男・結城秀康の客分となり、慶長6年(1601年)に死去した。)、「藤沢城」も廃城となったという。


茨城県教育委員会のHPから(藤原藤房卿遺跡)


写真1:「藤原藤房卿遺跡」入口


写真2:塚の前に3基の石碑。中央は「万里小路藤原藤房公遺蹟」。なお、写真には写っていないが、同じ敷地内に巨大な忠魂碑もある。


写真3:向かって右の石碑は、三島毅撰文の「万里小路藤房公遺迹碑」。三島毅は、大審院判事、東京帝大教授等を務め、現・二松学舎大学を創設するなどした人物。当地とは、新治裁判所長として現・土浦市に赴任していた縁があるとのこと。


写真4:向かって左の石碑(詳細不明)


写真5:塚上の小さな石祠
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