神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

関戸の宝塔

2024-09-07 23:32:13 | 史跡・文化財
関戸の宝塔(せきどのほうとう)。
場所:茨城県古河市関戸906(コミュニティセンター「関戸田園都市センター」内)。茨城県道190号線(境間々田線)「関戸」交差点から南に約100m。駐車場あり。ただし、扉が閉鎖されていることが多いようなので、注意。
「関戸の宝塔」は、総高201cmの石塔で、現・栃木県宇都宮市大谷産出の凝灰岩(いわゆる大谷石)製。基礎部分は後補とみられるが、円柱形の塔身、笠、相輪からなり、大ぶりな笠部は本瓦葺風で、笠裏には軒や垂木も彫り出し、木造建築を模したような写実的な造作となっていて、下面には瓔珞や風鐸を付けたとみられる小孔が彫られている。円柱状の塔身上部の四面には宝珠型光背と蓮座を伴う金剛界四方仏(阿弥陀如来・薬師如来・金剛界大日如来・釈迦如来)の種子(梵字)を刻み、その間に更に小さく4つの種子(弥勒菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・観音菩薩)が彫られている。塔身の金剛界大日如来(バン)種子の下に「敬白」より始まる7行の銘文が刻まれているが、風化が激しく判読はかなり困難であるものの、「父母成仏」を願って造立された供養塔であるとみられている。「大願主」(造立者)の名は全く読み取れず、年号は□安4年と、一部判別し難い状態となっている。この年号については、従来、鎌倉時代の「弘安4年」(1281年)とされてきたが、□の文字は人偏らしく、平安時代末期の「仁安4年」(1169年)と考えられるようになった。なお、従来「宝塔」と称されるが、形態からすれば「笠塔婆」で、12世紀代には各地で石製や木製の笠塔婆が造立されているが、「関戸の宝塔」はそれらの初現期の重要資料とされ、古河市指定文化財となっている(旧・総和町の指定文化財第1号)。この塔の造立年代が平安時代末期にまで遡り、また、精巧な造りなどからすると、京都文化の影響が考えられ、造立者が当地の有力者であれば、当時の領主・下河辺氏の一族だったのではないか、と推定されている。下河辺氏は、俵藤太こと藤原秀郷の子孫といわれ、平安時代末期、太田行義が八条院(暲子内親王、第74代・鳥羽天皇の皇女)領の荘園・下総国下河辺荘の荘官として下河辺荘司と称し、下河辺氏を名乗った。行義は源頼政の郎等として活動し、以仁王の挙兵(治承4年(1180年))のとき、行義が敗死した頼政の首を本領である現・古河市に持ち帰り、「頼政神社」を創建したという伝説がある(「頼政神社」(2022年1月8日記事))。そして、この行義の兄が小山氏の祖・小山正光で、「下野国府」官僚組織の実質的なトップである下野大掾職を務め、官道交通路を管轄する御厩別当職も兼ねていたというところから、大谷石の石材採取や運搬には小山氏の協力が不可欠だっただろうと考えられている。


写真1:向かって右から、旧「金剛寺 不動堂」、「関戸の宝塔」覆屋、石仏等


写真2:旧「金剛寺 不動堂」。元は、天台宗「金剛寺」という寺院があったが、廃寺となり、堂宇としては不動明王を祀る「不動堂」のみが残っている。


写真3:「関戸の宝塔」保護のため設けられた覆屋と説明板


写真4:「関戸の宝塔」


写真5:同上。五輪塔の一部と思われる石造物も置かれている。


写真6:石仏等


写真7:近くにある浄土宗「関宝山 阿弥陀寺 千手堂」(通称:関戸観音)。堂本尊は千手観世音菩薩で、葛飾坂東観音霊場第29番札所(場所:茨城県古河市関戸1229、「関戸」交差点の北、約50m)。現在は観音堂のみとなっている。
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等覚院供養塔(伝 藤原高房供養塔)

2024-08-10 23:32:34 | 史跡・文化財
等覚院供養塔(とうがくいんくようとう)。伝 藤原高房供養塔(でん ふじわらのたかふさくようとう)。
場所:茨城県筑西市泉356。国道294号線(常総バイパス)「中館西」交差点から北へ約1kmで左折(西へ)、約1.3km進んで「←泉」という案内板がでているところで左折(南へ)(この先、道路が狭いので注意。)、約350mで突き当りを左折(東へ)、道なりに約180m進むと「等覚院(廃寺)」境内。駐車スペースあり。
伝承によれば、延喜元年(901年)、左大臣・藤原時平の讒言により、右大臣・菅原道真が九州「大宰府」の大宰権帥に左遷されたとき、中納言・藤原高房も常陸国伊佐荘に流された。高房は延長2年(924年)に当地で亡くなり、法名を東岳院殿秋山道融大居士として葬られた。また、高房の子孫である平安時代後期~鎌倉時代初期の御家人で伊達氏宗家の初代当主・伊達朝宗が、主君・源頼朝の法名を清国院殿前柳営譲与崇和大居士として、その供養塔を高房のものと並べて建てたという。「東岳院」はその後、天台宗「弥勒山 等覚院」と称し、「施無畏山 延命院 観音寺」(前項)の末寺であったという。現在も大型の五輪塔(石塔)2基のほか、小型の塔や五輪塔の一部などが10数基残っていて、最も大きな塔(高房の供養塔とされるもの)が鎌倉時代末期頃に造られたと推定されている。
ただし、史実(「日本文徳天皇実録」など)によれば、藤原高房は、藤原北家魚名流の貴族で、天長4年(827年)に従五位下・美濃介に任じられて現地に下向、善政を行って評判が高く、その後も備後守・肥後守・越前守を歴任したが、最終的な官位は正五位下に留まり(三位以上が「公卿」で、五位は下~中級クラス)、仁寿2年(852年)に背中の悪性腫瘍により58歳で亡くなったとされる。よって、上記伝承とは時代も異なり、常陸国に流されたということもない。では、何故ここに高房の供養塔とされるものがあるのか、というと、供養塔の前に建てられた「伊達氏供養塔」石碑に関係があるらしい。戦国大名・伊達政宗で有名な奥州伊達氏は、平安時代末頃から当地(常陸国伊佐郡)の領主であった伊佐氏から起こっている。そして、伊佐氏は、天永2年(1111年)、藤原北家山蔭流の藤原定任の長男・実宗が常陸介に任じられて常陸国伊佐郡に居住し、伊佐氏を称したことに始まるとされる。その山蔭の父が高房であるので、伊達氏の祖先というのは誤りではない。ただ、何故、高房なのか、という疑問はある(因みに、山蔭は仁和2年(886年)に従三位・中納言に任じられている。)。また、高房や頼朝の供養塔でないとすると、誰の供養塔なのか。五輪塔としても中々の優品とみられるし、周囲の五輪塔の数などからみても、あるいは伊佐氏一族の供養塔群かもしれない。
蛇足:茨城県や千葉県に「高房神社」という名の神社がいくつかある。これらの祭神は殆ど武甕槌神(常陸国一宮「鹿島神宮」祭神)か建葉槌神(同二宮「靜神社」祭神)で、これは「鹿島神宮」の摂社「高房社」に関連するもののようである。一方、現・栃木県日光市湯西川に鎮座する「高房神社」は祭神を高房大明神とするが、古くは藤原高房霊としていた。下野国(現・栃木県)は、平将門を討った功績により下野守などに任じられた藤原秀郷(俵藤太)以来、藤原氏の勢力が強く、その先祖で評判の高い高房を祀ったといわれている。ただし、最近では、湯西川温泉を「平家落人の里」として宣伝しているためか、高房というのは、平重盛の六男・忠房の子、あるいは落ちのびた家臣団の長の平高房であり、温泉を発見したことなどもあって、死後に神として祀られたという話になっている。


写真1:「等覚院(跡)」境内入口


写真2:同上、入口正面奥にある「伝 藤原高房供養塔」


写真3:同上、玉垣の前に「伊達氏供養塔」石碑が建てられている。昭和9年に伊達氏の遠孫という人物が建てたものらしい。


写真4:同上、向かって右が藤原高房、左が源頼朝の供養塔とされているようである。


写真5:「等覚院(跡)」から北西約70m(直線距離)にある「泉古墳」(場所:筑西市泉326)。直接関係はないと思われるが、近いので、訪問した。方墳?、墳頂に「稲荷神社」がある。


写真6:同上、「稲荷神社」鳥居


写真7:同上、「稲荷神社」社殿
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真壁城跡

2024-06-01 23:33:38 | 史跡・文化財
真壁城跡(まかべじょうあと)。
場所:茨城県桜川市真壁町古城377(「桜川市立真壁体育館」の住所)。茨城県道41号線(つくば益子線)「古城」交差点から北へ約120m、右側(東側)に「真壁体育館」駐車場への入口がある。「真壁体育館」のある場所が「真壁城」本丸跡とされる。
「真壁城跡」は、平安時代末から戦国時代にかけて常陸国真壁郡周辺を支配した真壁氏の居城(中世城館)跡とされる。常陸平氏の惣領家・多気氏の祖とされる多気直幹の四男・長幹が承安2年(1172年)に真壁郡の郡司となり、真壁氏を名乗った。長幹が源頼朝に臣従して御家人となった後、南北朝時代には、真壁氏は最初に南朝方、後に北朝方について、室町幕府の御家人(京都扶持衆)となったが、応永30年(1423年)、大掾氏の一族である小栗氏の反乱に加担したとして「真壁城」は落城、第11代城主・秀幹は戦死した。永享8年(1436年)、庶子家出身の朝幹が所領を回復し、家督を承継した(第13代)。戦国時代には佐竹氏の家臣となっていたため、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国秋田に移封となると、これに第19代・房幹らが随行し、「真壁城」は空城となった。その後、浅野氏が城主となったが、真壁を領有したまま「笠間城」(現・茨城県笠間市)に移ったため、「真壁城」は廃城になったとされる(なお、笠間藩の陣屋は旧・真壁町市街地にあった。)。
昭和56年以降の発掘調査の結果、「真壁城跡」は15世紀中頃(室町時代後半)に方形の館が築かれ、その後の改変を経て、現在の遺構は16世紀後半(戦国時代~安土桃山時代)頃のものとされている。土塁や堀跡などが良好に残っていることから、昭和9年に茨城県指定史跡、平成6年に国指定史跡となった。
さて、伝承によれば、「真壁城」は、真壁長幹が真壁郡司になったとき、「真壁郡家(郡衙)」の場所に築城したのが最初、といわれている。ただし、「真壁城跡」の発掘調査では、15世紀前葉以前の遺構は出土していない。一方で、少なくとも奈良時代~平安時代初期の白壁郡(延暦4年(785年)に真壁郡に改称)の郡家は現・桜川市真壁町下谷貝の「下谷貝長者池遺跡(谷貝廃寺跡)」(前項)付近にあったという説が有力である。そうすると、「真壁郡家」は「真壁城跡」付近に移転したのか(もちろん、最初から「真壁城跡」付近にあったとする説もある。)、移転したとするなら、いつ移転したのか、なぜ移転したのか、という問題も出てくるが、そのあたりの解明は今のところ難しそうである。


桜川市観光協会のHPから(国史跡 真壁城跡)


写真1:「国指定史跡 真壁城跡」石碑。本丸跡とされる「真壁体育館」の駐車場にある。


写真2:「真壁城跡」説明版。この奥が二の丸方面。さらに奥には中城、外曲輪などがあったとされる。お城好き(マニア)なら、いろいろ蘊蓄があるのだろうが、このブログではスルー(申し訳ない。)。


写真3:「真壁体育館」と駐車場


写真4:「子育稲荷神社」鳥居。境内は、本丸跡の北側、本丸搦手虎口に当たる。


写真5:同上、社殿。「真壁城」廃城の後の創建という。


写真6:「史蹟 真壁城址」石碑。昭和10年建立。「子育稲荷神社」社殿の近くにある。
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下谷貝長者池遺跡

2024-05-25 23:32:38 | 史跡・文化財
下谷貝長者池遺跡(しもやがいちょうじゃいけいせき)。通称:谷貝廃寺跡。
場所:茨城県桜川市真壁町下谷貝2434。茨城県道7号線(石岡筑西線)と同148号線(奥山田岩瀬線)の「細芝」交差点から7号線を東へ約550mで左折(北へ)すると、「長者池」に突き当たるので左折して(右折でも同じ。)、「長者池揚水機場」の北側に回り込む。狭い道路を北へ約110m進んで丁字路の突き当りになるが、未舗装の道が北に続いており、その先の左側一帯と思われる。駐車場なし。
旧・真壁町内において古代瓦の散布がみられる場所として、「谷貝廃寺跡」、「源法寺廃寺跡」、「山尾権現山廃寺跡」などがある。このうち、「山尾権現山廃寺跡」は、真壁町山尾の「権現山」(標高396m)の中腹にあって、金堂・塔跡の基壇や礎石なども発見されており、古代(平安時代)の山岳寺院跡であることがほぼ確実とされる。一方、「谷貝廃寺跡」と「源法寺廃寺跡」は平地にあって、いずれかが古代の「白壁(真壁)郡家」に付属する郡寺であるとみられている。「常陸国風土記」(奈良時代初期)には白壁郡に関する記述が失われているが、新治郡の条に「南に白壁郡がある」(現代語訳)とあり、「和名類聚抄」(平安時代中期)の郡名に「真壁」、読みが「万加倍(まかべ)」とある。白壁郡から真壁郡への変更は、「続日本紀」の延暦4年(785年)の記事によれば、第49代・光仁天皇の諱・白壁王に遠慮して変更したものとされる。白壁郡の建郡時期は不明だが、7世紀後半頃に新治郡から独立したものとみられている(以下、「真壁郡」で統一して記述する。)。真壁郡の郡家の場所は未確定だが、「谷貝廃寺跡」を郡寺とみて、その付近に郡家もあっただろうと考えられている(そのために、「谷貝廃寺跡」のみではなく、より広く「下谷貝長者池遺跡」という呼称が使われるようになったようだ。)。「谷貝廃寺跡」で採取された瓦には、新治郡の郡寺とされる「新治廃寺跡」(2018年8月11日記事)の瓦と同笵(同じ型で製作)や同文のものがあり、あるいは「新治廃寺跡」と同じ製瓦所から供給されたものかもしれないという。真壁郡が新治郡から分離・独立したとされることから、新治郡の強い影響下にあり(郡司が同族?)、新治郡家と新治(廃)寺の関係に倣って真壁郡でも郡家・郡寺が建てられたと考えるのが自然だろう。また、「谷貝廃寺跡」の東に「小栗道」という中世街道(いわゆる鎌倉街道)が現・筑西市小栗から南(やや南東)に向かって走っており、これが古代の「伝路」(郡家の間を結ぶ古代官道)だったとみられている。因みに、その「伝路」は桜川の渡河地点付近で二手に分かれ、①南東に進む道は、現・石岡市小幡へ出て、そこから東に進めば「常陸国府」(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)・「茨城郡家」(「外城遺跡」(2023年12月2日記事))に至る、②南に進む道は、筑波山の南麓の「筑波郡家」(「平沢官衙遺跡」(2020年12月12日記事))、更に南に進めば「河内郡家」(「金田官衙遺跡」(2021年4月17日記事))に至る、というものだったと考えられる。そして、「谷貝廃寺跡」付近は、「駅伝長者」という長者の屋敷跡であったとの伝承がある。長者屋敷は広さ1万数千坪といい、「長者池」は屋敷の池だったので、その名があるという。また、かつては、松林の中に深さ6尺(約1.8m)くらいある長い堀跡が残っていたとされる。時期不明だが、長者は足利時代頃の人で、名は谷貝入道範助であったとも伝えられている(仲田安夫編著「真壁町の昔ばなし」ほかによる。)。ちょっと時代が下るので、この長者が古代の郡司や駅長の後裔かどうかはわからないが、他の郡家・駅家の推定地で長者伝説が多いのも確かである。
一方、「谷貝廃寺跡」から南に約2km(直線距離)のところにある「源法寺廃寺跡」を「真壁郡家跡」とする説もある。こちらは、桜川の右岸(北岸)、台地の端に位置しているところから、古代の税の中心である米の集散を行うのに桜川の水運を利用したとすれば、川岸に官衙施設(特に正倉など)を設置するのが便利であるとする。そして、「源法寺廃寺跡」と称しているが、古代瓦の採取が比較的少ないことから、廃寺跡ではなく、官衙跡ではないか、というものである。なお、こちらも「小栗道」が東側に通っている。因みに、「源法寺廃寺跡」で採取された古代瓦には、「谷貝廃寺跡」と同笵のものもある。ただし、それは、蓮華文が複弁から単弁になるなど簡略化されていて、同じ8世紀頃のものではあるが、「谷貝廃寺跡」より後のもので、あるいは真壁郡内で製作された瓦かもしれないとされている。このことをどう解釈するか難しいところで、いずれにせよ、発掘調査等を行ってみないことには結論が出せない、ということのようである。


写真1:「長者池」。奥の赤い建物が「長者池揚水機場」。平成4年度から利用開始となり、農業用水のほか、防火用水としても使われているとのこと。
写真

写真2:「下谷貝長者池遺跡(谷貝廃寺跡)」。範囲がよくわからないが、この未舗装道路の左側(西側)の奥の一帯と思われる。なお、右側(東側)は低くなっていて、堀跡? 又は池の一部だったような感じである。


写真3:現状、畑の土塁や石積みもあるが、これは最近のものだろう。


写真4:同上


写真5:「源法寺廃寺跡」(場所:桜川市真壁町源法寺1016。茨城県道131号線(下妻真壁線)「塙世」交差点から南西へ約1.7km。「筑波滝の山共同墓地」という墓地があるが、その北東辺り。ただし、その墓地からは道はなく、手前の自動車整備工場の向かい側から入る道がある。)。今も石造物(石仏、石塔など)があり、そこが中心のようである。なお、奥に筑波山が見える。


写真6:同上、現在ある小さな墓地。石仏など。


写真7:同上、無縫塔(卵塔)など。


写真8:同上、ある資料によれば、廃寺の礎石らしきものがあるとのことだが、これがそうだろうか?
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(伝)平国香の墓(茨城県筑西市)

2024-03-30 23:33:37 | 史跡・文化財
(伝)平国香の墓(でん たいらのくにかのはか)。
場所:茨城県筑西市東石田1048(「石田山 長光寺」の住所)付近。茨城県道45号線(つくば真岡線)と同132号線(赤浜上大島線)の「東石田」交差点から東へ約230m。駐車場あり。「鹿島神社」(住所:筑西市東石田919)は「長光寺」の西側の道路を北へ約600m、右折して(東へ)約150m。駐車場あり。「(伝)平国香の墓」は、「長光寺」境内入口から東へ約230m(押ボタン式信号機の先)の交差点を右折(南東へ)、約260mで突き当り、①左折して(東ヘ)約100m(畑の中)、②右折して(西へ)約50m(民家の庭の奥)。どちらも、私有地内なので注意。また、道路が狭くなるので、「長光寺」から徒歩を推奨。
平国香は、平姓を賜与されて臣籍降下した父・平高望(高望王)に従って昌泰元年(898年)に坂東に下り、常陸国筑波山西麓の真壁郡石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とした。常陸大掾職(常陸国の国司の第三等官)にあった源護の娘を娶り、常陸大掾の地位を受け継いだ。承平5年(935年)、甥の平将門と戦って亡くなるが、子の貞盛が藤原秀郷とともに将門を討ちとって坂東平氏の勢力を拡大したことから、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の祖ともされる人物である。国香の最期の状況は「将門記」に書かれているが、これは軍記物語であり、史実かどうかは不明。また、その書きぶりからしてもはっきりしないところが多いが、要約すれば、源護の子である扶・隆・繁の兄弟が将門を待ち伏せして攻撃した「野本合戦」で、将門が扶らを撃退し、その勢いに乗じて国香の居館である「石田館」をも襲撃して、このとき国香は敗れて自殺したか、「石田館」に火をかけられて焼死したらしい。
ということで、現・筑西市東石田に曹洞宗「石田山 長光寺」があって、その境内が「石田館」跡との伝承があり、筑西市教育委員会による説明板も建てられている。ただし、遺構等はなく、「石田館」跡は、「長光寺」から北に約400m(直線距離)離れた「鹿島神社」付近とする説も有力。また、国香の墓とされる塚や石塔などが「長光寺」の南側に数ヵ所ある。ただし、こちらは、出土品などからすると、古墳時代の古墳跡のようである。


写真1:「長光寺」境内入口、寺号標。右側に平国香に関する説明板がある。


写真2:同上、山門と本堂(本尊:釈迦牟尼仏)。山門を入ったところに桜(ソメイヨシノ)の古木がある。


写真3:「鹿島神社」参道入口。左側の道路は下り坂になっていて、ここが台地の突端に当たることがわかる。


写真4:同上、鳥居と拝殿。


写真5:同上、本殿。社伝によれば、慶長16年(1611年)、常陸小太郎の長男・殿塚右京喜氏が創建。祭神:武甕槌命。


写真6:「鹿島神社」の東側(台地下)の道路から見た「筑波山」


写真7:「(伝)平国香の墓」①説明版。石塔は、この先。奥には「筑波山」が見える。


写真8:同上、木の根元に小さな石塔がある。


写真9:同上


写真10:「(伝)平国香の墓」②説明版。こちらは完全に民家敷地の奥に入っていくので、遠慮した。
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