神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

外城遺跡(茨城県石岡市)

2023-12-02 23:35:57 | 史跡・文化財
外城遺跡(とじょういせき)。茨城郡衙推定地。
場所:茨城県石岡市貝地1-11外。国道6号線(千代田石岡バイパス)と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から国道を南西に約60mで左折(南東へ)、道なりに約550m(途中、約200mのところの分岐は右、その先、約40mの分岐は左へ進む。)。「札掛稲荷神社」の鎮座地が「外城遺蹟」の北東端に当たる。駐車場なし。
石岡市には中世城館跡として「府中城跡」と「石岡城跡」の2つがあるが、「府中」というのはかつて国府があった場所を指すので、「府中城」は全国各地にある。そこで、石岡市の「府中城」を「常陸府中城」とか「石岡府中城」とか称するが、中には「石岡城」としている資料もあって紛らわしい。一般には、「府中城跡」は古代常陸国の国庁(国衙)があった場所に、「石岡城跡」は同じく常陸国茨城郡の郡家(郡衙)のあった場所に、中世、(常陸)大掾氏が城館を築いた遺跡と考えられている(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)参照。なお、「府中城」の方は江戸時代、常陸府中藩の陣屋となった。)。大掾氏は常陸平氏の嫡流であり、平国香(平将門の叔父)を祖とするが、本来の惣領家であった多気氏は建久4年(1193年)に多気義幹が八田知家の中傷によって失脚し、同族の馬場資幹が惣領家を継いで大掾氏を名乗った。更に、源頼朝(鎌倉幕府)から建保2年(1214年)に常陸国府・常陸府中の地頭に任ぜられ、常陸国衙機構を掌握した。最初、資幹が建保2年に「石岡城」を築いて居館としたが、貞和2年・正平元年(1346年)、「石岡城」第8代城主・大掾詮国によって「府中城」が築かれて、そちらが大掾氏の居館となったが、「石岡城」も出城(外城)として存続した(このため、当地の地名(字名)を「外城」という。)。天正18年(1590年)、「府中城」が佐竹義宣によって攻略され、城主・大掾清幹は自刃し、「石岡城」も廃城となったとされる。
さて、「外城遺跡」は中世城館「石岡城跡」というのは確定しているが、伝承では、元は古代の茨城郡家(郡衙)と最初の常陸国庁(国衙)が置かれた場所といわれている。「茨城廃寺跡」(2018年2月3日記事)は茨城郡家付属の古代寺院跡とされ、「外城遺跡」はその南西約300mのところにあること、奈良・平安時代の土器や瓦片が採取されることから、茨城郡家(郡衙)跡であることはほぼ間違いないとみられているが、本格的な発掘調査等はなされていないため、まだ確定できてはいないようである。因みに、「常陸国風土記」茨城郡の条の、郡家の南西に信筑川(現・恋瀬川)が流れており、東10里(=約5.3km)のところに桑原の丘(現・茨城県小美玉市上玉里、「大宮神社」付近。「玉井」(2019年2月2日記事)参照)がある、という内容の記述に概ね合致している。

札掛稲荷神社(ふだかけいなりじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市貝地1-2-64(行き方は上記の通り)。
現在は1つの神社として登録されているが、本来は「札掛神社」と「岡田稲荷神社」である。社伝によれば、「札掛神社」は、常陸大掾・平詮幹(詮国)が「外城」に守護神として鹿島大神の分霊を祀り、家臣の札掛民部介氏俊に命じて奉務させたという。現在の祭神は武甕槌命と札掛民部介氏俊。また、「岡田稲荷神社」は、当地はかつて常陸大掾・平国香の居館跡だったが、近世には寂れて、昼夜、不思議なことが起きて村人に恐れられていた。天保6年(1835年)、岡田彦兵衛の霊夢に「汝の祖先に祀られた館宮稲荷大明神である。天正の変で大掾氏が滅び、汝の祖先も討死にした。再興する者もなく、太平の世を待っていたが、今その時となった。汝の居宅の子(ね。北)の方向に五丈八尺余(=約18m)の大木があり、それが神木で、そこが社地である。速やかに祀れば、汝の家を守り、諸人をも救う。」とのお告げがあった。他にも同様の夢を見た者が多く、早速社殿を建立したところ、噂を聞いた人々の参拝が増え、社頭が賑わったという。現在の祭神は宇賀御魂命。なお、天明4年(1784年)には札掛明神に廻り(幹回り?)3丈(=約9m)という大椎(シイ)があったが、明治4年の「石岡誌」によれば、弘化年中(1844~1848年)に枯死し、文久年中(1861~1864年)に腐朽してしまったという。また、茄子(ナス)を献じて祈願すると成就するといわれるが、これは、大掾浄幹(清幹)の奥方・茄子依御前が深く当神社を崇敬したことによるという。


写真1:「札掛稲荷神社」境内入口の鳥居。説明板は「石岡城(外城)跡」についてのもの。


写真2:同上、鳥居の右側に土塁と堀が残っている。


写真3:同上、土塁上にある「札掛神社岡田稲荷神社」石碑


写真4:同上、境内


写真5:「岡田稲荷神社」社殿


写真6:奥に「札掛神社」社殿。この背後がさらに一段高くなっている。元は城館の櫓台だったともいわれているが、北東端なので鬼門除けに当初から守護神として神社が祀られた可能性も高い。なお、敵方の佐竹氏は常陸国久慈郡佐竹郷(現・常陸太田市)が本拠地だったから、北東側を防御する実際的な意味もあったかもしれない。


写真7:「札掛神社」社殿前から南西を見る。「外城遺跡」は南西側が主要部である(「古館(ふんだて)」などの地名がある。)とされるが、今は畑などがあるだけ。
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常陸大掾氏墓所

2023-11-18 23:34:01 | 史跡・文化財
常陸大掾氏墓所 (ひたちだいじょうしぼしょ)。
場所:茨城県石岡市国府5-9-3(「平福寺」の住所)。「富田北向観音堂」(前項)の東側約20mのところに「平福寺」参道入口がある。入口がやや狭いが、境内に駐車スペースあり。
曹洞宗「春林山 平福寺」の境内に「常陸大掾氏墓所」がある。伝承によれば、平安時代中期、桓武天皇の曾孫である平国香が坂東に下向して常陸国に土着、常陸国の大掾となり、菩提寺として天台宗「興国山 平福寺」を開基した。寺号は、平氏の繁栄(福)を祈念して名付けたものという。因みに、国司の官職は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の4つあり、掾は第3等官に当たる。常陸国の国級が「大国」であったため、掾に大掾と小掾があり、また、親王任国として国守に親王が補任されるが、赴任はしなかったので、大掾は実質的には国司のナンバー2となる。そして、国香の子・貞盛が平将門の乱を鎮圧した功績により、その子孫が常陸大掾職を継承、在庁官人を掌握して「大掾氏」と称するまでになったとされる。さて、「平福寺」内の「常陸大掾氏墓所」というのは、高さ1.62mという大きな五輪塔を中央にして、その周囲に14基の五輪塔が並んでいるもので、一説に中央の五輪塔が平国香の墓(あるいは供養塔)であるという。ただし、平国香流の常陸平氏の惣領が代々、大掾職を承継して常陸国府の在庁官人を支配してきたというのは史実に反するようで、どうやら、鎌倉時代初期に常陸平氏の庶流である馬場資幹が源頼朝から祖先に因んだ常陸大掾の地位を与えられてから、世襲としての「大掾氏」が成立したらしい。なお、「平福寺」が天台宗から曹洞宗に改宗した経緯は不明とされているが、大掾氏が天台宗を信仰していたのに対し、大掾氏を滅ぼした佐竹氏が曹洞宗を信仰していたらしいので、それに起因したもの思われる(佐竹氏は「関ヶ原の戦い」の後に出羽国秋田(現・秋田県)に転封となるが、寛正3年(1462年)に常陸国久慈郡太田村(現・茨城県常陸太田市)に創建された佐竹氏菩提寺の曹洞宗「萬固山 天徳寺」も現・秋田県秋田市に移転している。)。こうしたことなどから、「常陸大掾氏墓所」の石塔は、(馬場)大掾氏第9代・詮国(貞和2年・正平元年(1346年)に「府中城」を築いたとされる人物)以降のものとみられているようである。


写真1:「平福寺」本堂。本尊:如意輪観世音菩薩。


写真2:同上、本堂の向かい側にある「常陸大掾氏碑」(高さ3.2m・幅1.8m)


写真3:同上、本堂の南側にある「常陸大掾氏墓所」


写真4:同上


写真5:同上。中央の最も大きな五輪塔が「平国香の墓」とされるもの。


写真6:同上、境内には「景清の墓」という五輪塔もある。歌舞伎などで有名な悪七兵衛・平景清(藤原景清)は現・石岡市の生まれという伝承があるという。
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常井の井戸(茨城県茨城町)

2023-09-30 23:33:32 | 史跡・文化財
常井の井戸(とこいのいど)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町常井489(「常井薬師堂」の住所)付近。茨城県道40号線(内原塩崎線)と同52号線(玉里水戸線)の「高田十字路」から、県道40号線を南東へ約190m進んで右折(南西~南へ)、約1.3km先の六差路を右折(西へ)、約100m。「常井薬師堂」の道路を隔てた向かい側。「常井薬師堂」に駐車スペースあり。六差路からの道路は狭いので要注意。
「常井の井戸」は、民話では、八幡太郎こと源義家が東征の際に、当地で食事を取ろうとして掘った井戸であるとされる。すぐ傍にある「常井薬師堂」は、天台宗「常井山 宝性院」(廃寺。元は現・茨城町小鶴の「龍谿山 西楽院 如意輪寺」末という。)の薬師堂で、毎月21日の縁日(「薬師講」)に唱えられる「常井山薬師和讃」では、義家が掘った井戸の伝承と薬師如来の御利益を讃える内容となっている。「常井の井戸」は、現在ではコンクリート製の四角い枠の井戸になっているが、地元の方々により今もきれいな水が維持されているとのこと。伝説では、この井戸で目を洗うと眼病が治り、お礼に魚を放つ。すると、魚の片目が白くなるが、それは魚が眼病を引き受けたからだという。因みに、義家には、各地に超人的な伝説があり、中には弓の矢で岩を突いて、そこから清水を湧き出させたというものもあるようだが(福島県本宮市にある「岩井の清水」の伝説)、当地ではそういう話は伝わっていないようだ。
ところで、古代東海道は常陸国府(現・石岡市、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)参照)を終点としたが、そこから奥羽国に向かう連絡路としての古代官道があった。「常陸国府」の次の駅家は「安侯」駅(現・茨城県笠間市安居が比定地、「東平遺跡」(2020年7月4日記事))で、その先は「河内」駅(現・茨城県水戸市渡里町が比定地、「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事参照))になる。「安侯」駅と「河内」駅の間は、古代官道に特徴的な直線道路の痕跡がはっきりしないようで、具体的なルートは不明だが、単純に直線で結ぶと「常井」の西側を通ることになる(国道6号線よりは、常磐自動車道のルートに近い。)。義家の軍勢が当地を通ったかどうかは不明だが、興味を惹かれる伝承ではある。


写真1:「鹿島神社」鳥居(場所:茨城町常井615。六差路の北、約100m)。鳥居前に「常井公民館」もあり、この辺りが「常井」集落の中心部と思われる。


写真2:同上、拝殿。社伝によれば、長寛元年(1163年)の創建で、旧・村社。祭神・武甕槌命。


写真3:「常井薬師堂」。創建は永禄3年(1560年)という。


写真4:「常井の井戸」。「常井」という地名も、この井戸に由来するものと思われる。


写真5:同上。手水舎の柱に説明板があり、「常井山薬師和讃」全文も記されている。


写真6:同上。かなり大きな井戸だが、今も澄んだ水が豊富に湛えられている。
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小幡北山埴輪製作遺跡

2023-09-23 23:33:46 | 史跡・文化財
小幡北山埴輪製作遺跡(おばたきたやまはにわせいさくいせき)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町小幡2735外。国道6号線「小幡」交差点から北東へ約1km。駐車場、トイレ有り。国道の交通量が多く、駐車場への出入りに注意。
「小幡北山埴輪製作遺跡」は、これまでに発見された中では我が国最大の古墳時代の埴輪製作遺跡で、6世紀中頃~7世紀前半頃の遺跡とみられている。涸沼川の右岸(南岸)、標高22.5~27mの台地上にあり、涸沼川の支流が開析した浸蝕谷の最奥部に位置して、東西に分岐した幅5~10メートルの小支谷沿いに展開している。古くから俗に「カベット山」(壁土山)と称され、良質の粘土のとれる場所として知られていたが、昭和28年、入植者の開墾作業中に人物埴輪、円筒埴輪、馬の埴輪などが多量に出土し、埴輪製作遺跡として知られるようになった。しかし、その後は本格的な調査が行われないまま耕作地化が進んでいたが、昭和62年、西側支谷から埴輪製作の窯跡が発見され、遺跡が予想以上に広範囲に及ぶことが明らかになった。このため、急遽同年から翌年にかけて3次にわたる調査が実施され、埴輪窯59基、工房跡8棟、粘土採掘坑2ヵ所などが発見された。また、円筒埴輪、朝顔形埴輪、武人などの人物埴輪、土師器の坏、高坏、鉢、甕なども出土した。窯跡は、幅の狭い谷に向かった傾斜地を利用して造られ、2~7m間隔で整然と並んでいた。また、竪穴式住居跡らしい遺構も発見されたが、竈などが設置されておらず、工房跡だったと推定されている。当遺跡で製作された埴輪は、周辺の古墳のほか、約15kmも離れた霞ヶ浦北岸の大型古墳にも供給されていたことが判明しているという。平成4年、国史跡に指定され、現在は「小幡北山埴輪公園」として整備されている。


文化遺産オンラインのHPから


写真1:「小幡北山埴輪製作遺跡」入口。国指定史跡の標柱がある。


写真2:入口から入って直ぐの「復元前方後円墳」。埴輪の並べ方などの参考のため造られたとのこと。


写真3:少し下っていったところにある「粘土採掘坑」跡


写真4:「復元はにわ窯」


写真5:「埴輪窯跡」。植栽でうまく窯跡を表現している。
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小松館跡(茨城県小美玉市)

2023-07-08 23:33:11 | 史跡・文化財
小松館跡(こまつやかたあと)。
場所:茨城県小美玉市上玉里903-6外。茨城県道144号線(紅葉石岡線)「玉里郵便局前」から南西へ約650mで左折(南東へ)、約450m(「正一位稲荷大明神」付近)。駐車場なし。因みに、更に南西へ進んだ突き当りに「民家園(茨城県指定有形文化財 旧小松家住宅)」と「権現山古墳」(2019年1月26日記事)がある。
「小松館跡」は中世城館跡とされ、「いばらきデジタルまっぷ」でみると、県道から南側のかなり広い範囲にわたっているが、現在、遺構らしいものは特に見当たらない。一方、「玉里村史」によれば、平重盛(平清盛の嫡男。治承3年(1179年)、清盛より先に死去)が仮住居としたところ、あるいはその後裔が住んだところという伝説があるとしている。即ち、文治元年(1185年)平家滅亡の折、重盛の遺臣・筑後守平貞能は、僧形に身を変えて重盛の遺骨を持って東国に下った。諸所を廻った後、常陸国行方郡若海に落ち着き、遺骨とともに重盛愛用の笛と刀を葬り、小堂を建てた。重盛の後裔を探しだして、小松の末を立てることができた。後世、その子孫は、南北朝時代に常陸平氏の嫡流・大掾高幹に仕えたが、天正18~19年(1590~1591年)に大掾氏一族が滅亡した後、当地に移り住んだ。これが小松氏である。また、重盛所縁の薬師如来像(像高一寸八分=5.5cm)が祀られていたが、薬師堂は「松山バス停」付近に移転した。「小松館跡」からは、十八弁菊花紋の土器片が出土したという。
さて、重盛は京都の六波羅小松第に居を構えたことから、「小松殿」、「小松内府(内大臣)」などと通称された。重盛の遺骨が常陸国で埋葬されたという伝承があるが(「白雲山 普明院 小松寺」(2019年5月25日記事)及び前項参照)、流石に重盛本人、あるいはその後裔の仮寓説は伝説に過ぎないと思われる。
蛇足:平家の家紋としては、揚羽蝶紋が有名。これは、桓武平氏の祖・平国香の嫡男・平貞盛が平将門の反乱(「天慶の乱」)の鎮圧に功績があったとして、朝廷から蝶の文様がある鎧を賜ったことから、これを図案化して平家の家紋にしたという伝承がある。特に、平清盛が好んで使ったということで広まったといわれているが(因みに、清盛は貞盛の6代後になる。)、実際どうだったかは不明。また、現在の天皇及び皇室の紋章は十六葉表菊紋で、鎌倉時代の第82代・後鳥羽天皇(在位:1183年~1198年)が菊紋を好んだことから天皇家の紋章として定着したとされる。しかし、江戸時代には徳川幕府により葵紋の使用が厳しく制限された一方、菊紋を含めその他の紋の使用は自由だったので、必ずしも菊紋が皇族と関係があるとは限らないらしい。


写真1:「小松館跡」


写真2:中心部と思われる「正一位小松稲荷大明神」入口


写真3:同上、社号標。裏面を見ると、昭和60年に建てられたものらしい。


写真4:同上、社殿(覆い屋)


写真5:同上、本殿


写真6:同上、境内。五輪塔の一部だろうか。


写真7:薬師堂(場所:茨城県小美玉市上玉里885-1(「部室松山集会所」の住所)。茨城県道144号線(紅葉石岡線)「玉里郵便局前」から南西へ約500m。駐車場なし)
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