穂積神社(ほづみじんじゃ)。通称:竜爪大権現(りゅうそうだいごんげん)。
場所:静岡市葵区平山1769。県道201号(平山草薙停車場線、通称「竜爪街道」)をひたすら北上し、「竜爪山」山頂近くで案内板が出ている。駐車場あり。
社伝によれば、当神社の創建は、慶長14年(1609年)、瀧権兵衛という者(武田の落人という。)が竜爪山に登り、白い鹿を撃ったところ正気を失った。家族が熱心に祈ったところ、3年後に神懸かり、自ら竜爪権現と名乗り、山上に祠を建てて祀るならば病を治してやろうとのお告げがあった。そこで、山上の「亀石」の上に小祠を建て、自ら神官となったという。
「竜爪山」という名は、日本武尊が東征の折、この山から時雨が襲ってきて衣を濡らしたことから、時雨峰(しぐれみね、ジウホウ)、時雨匝山(しぐれめぐるやま、ジウソウサン)といい、これが訛って「リュウソウザン」になったといい、あるいは、山頂に常に雲がたなびいていたが、あるとき竜が降りてきて、誤って爪を落としたということから、その名がついたともいう。ただし、これらは、いかにもコジツケめいていて、納得しにくい。本来、「竜爪山」は、薬師岳(1051m)と文珠岳(1041m)をの二つを総称した呼び名で、古くから修験道が盛んであったところから、熊野速玉大社と一万宮の本地仏とされる薬師如来と文殊菩薩に当て、「両所権現(リョウショゴンゲン)」といったのが「リュウソウ」になったという説もある。「文珠岳」の字が「文殊」と違うのはともかく、薬師如来の脇侍は文殊菩薩ではないので、なぜ、この2仏の名が採られたのか不明である。
さて、明治の神仏分離以前は、神仏混淆の神格「龍爪大権現」を祀っていた。魔除護符の神像を見ると、翼があって鼻高の大天狗の姿であるが、炎を纏い、右手に剣、左手に索縄を持っており、不動明王と合体したような形容となっている。これは、「秋葉山三尺坊」などとも通じるものである。龍爪山には、昔から「天狗倒し」や「天狗礫」という怪異があったと伝えられており、神社の創建とは別に、深山に神とも魔ともつかぬものが棲んでいたらしい。天狗研究の権威、知切光蔵氏は「天狗の研究」(昭和50年9月)の中で「大天狗番付」を編んでいるが、「竜爪権現」は番付外の「取締役」5狗のうちの1狗に当てられている。「取締役」は、「大天狗を上回る実力を備えた超大物」であるというのである。そして、「権現自体は天狗の仲間に入れられることを、人間の賢しらとして片腹痛く思ってござるかも知れない神代紀以来の荒っぽい地主神である・・・」とされる。文政3年(1820年)に「山人(天狗)修行から戻った」という少年・寅吉からの聞き書き、平田篤胤の「仙界異聞」によれば、身長は7尺~1丈(約2m~3m)。竜爪山の奥の「千丈ガ嶽」では、2尺(約60cm)の足跡と荷車2台分の糞を見たといい、糞は草木を蒸した臭いがしたという。
そんな「竜爪大権現」も明治の神仏分離で「穂積神社」となり、祭神は大己貴命と少彦名命とされたが、「龍爪さん」と通称されて神威を現わし続けた。その御利益の1つは降雨で、既述のとおり、山上に雲を孕んでいることが多く、祈雨の対象になったようである。神社創建の話の中に出てきた「亀石」というのは本来「神石」であって、往古はこれを磐座として神に祈ったのかもしれない。一説に、確実に雨を降らせるには、牛の首を山中に置いてくることだという。これは、神への生贄というより、神は血を不浄として嫌い、怒って雨を降らせるのだとされる。したがって、このようなことをするのは信者ではなく、相場師などが多かったという。
御利益のもう1つは弾避けで、特に第二次世界大戦時には、出征兵士やその家族などが盛んに参詣したらしい。竜爪山の祭では、近郷の猟師が集まり、盛んに空砲を撃ったという。実は、「龍爪大権現」は鉄砲の音が大嫌いで、鉄砲弾を無力にしたようである。
竜爪山信仰の歴史については、このHPが詳しい。「龍爪山の歴史」
L-wave(えるウェーブ)さんのHPから(穂積神社)
写真1:旧参道登り口。ここにも10台分くらいの駐車場がある。
写真2:社号標と鳥居の扁額は「竜爪山穂積神社」となっている。
写真3:社殿正面。参拝当日、里では曇りだったが、「穂積神社」に登ると雨粒が落ちてきた。
場所:静岡市葵区平山1769。県道201号(平山草薙停車場線、通称「竜爪街道」)をひたすら北上し、「竜爪山」山頂近くで案内板が出ている。駐車場あり。
社伝によれば、当神社の創建は、慶長14年(1609年)、瀧権兵衛という者(武田の落人という。)が竜爪山に登り、白い鹿を撃ったところ正気を失った。家族が熱心に祈ったところ、3年後に神懸かり、自ら竜爪権現と名乗り、山上に祠を建てて祀るならば病を治してやろうとのお告げがあった。そこで、山上の「亀石」の上に小祠を建て、自ら神官となったという。
「竜爪山」という名は、日本武尊が東征の折、この山から時雨が襲ってきて衣を濡らしたことから、時雨峰(しぐれみね、ジウホウ)、時雨匝山(しぐれめぐるやま、ジウソウサン)といい、これが訛って「リュウソウザン」になったといい、あるいは、山頂に常に雲がたなびいていたが、あるとき竜が降りてきて、誤って爪を落としたということから、その名がついたともいう。ただし、これらは、いかにもコジツケめいていて、納得しにくい。本来、「竜爪山」は、薬師岳(1051m)と文珠岳(1041m)をの二つを総称した呼び名で、古くから修験道が盛んであったところから、熊野速玉大社と一万宮の本地仏とされる薬師如来と文殊菩薩に当て、「両所権現(リョウショゴンゲン)」といったのが「リュウソウ」になったという説もある。「文珠岳」の字が「文殊」と違うのはともかく、薬師如来の脇侍は文殊菩薩ではないので、なぜ、この2仏の名が採られたのか不明である。
さて、明治の神仏分離以前は、神仏混淆の神格「龍爪大権現」を祀っていた。魔除護符の神像を見ると、翼があって鼻高の大天狗の姿であるが、炎を纏い、右手に剣、左手に索縄を持っており、不動明王と合体したような形容となっている。これは、「秋葉山三尺坊」などとも通じるものである。龍爪山には、昔から「天狗倒し」や「天狗礫」という怪異があったと伝えられており、神社の創建とは別に、深山に神とも魔ともつかぬものが棲んでいたらしい。天狗研究の権威、知切光蔵氏は「天狗の研究」(昭和50年9月)の中で「大天狗番付」を編んでいるが、「竜爪権現」は番付外の「取締役」5狗のうちの1狗に当てられている。「取締役」は、「大天狗を上回る実力を備えた超大物」であるというのである。そして、「権現自体は天狗の仲間に入れられることを、人間の賢しらとして片腹痛く思ってござるかも知れない神代紀以来の荒っぽい地主神である・・・」とされる。文政3年(1820年)に「山人(天狗)修行から戻った」という少年・寅吉からの聞き書き、平田篤胤の「仙界異聞」によれば、身長は7尺~1丈(約2m~3m)。竜爪山の奥の「千丈ガ嶽」では、2尺(約60cm)の足跡と荷車2台分の糞を見たといい、糞は草木を蒸した臭いがしたという。
そんな「竜爪大権現」も明治の神仏分離で「穂積神社」となり、祭神は大己貴命と少彦名命とされたが、「龍爪さん」と通称されて神威を現わし続けた。その御利益の1つは降雨で、既述のとおり、山上に雲を孕んでいることが多く、祈雨の対象になったようである。神社創建の話の中に出てきた「亀石」というのは本来「神石」であって、往古はこれを磐座として神に祈ったのかもしれない。一説に、確実に雨を降らせるには、牛の首を山中に置いてくることだという。これは、神への生贄というより、神は血を不浄として嫌い、怒って雨を降らせるのだとされる。したがって、このようなことをするのは信者ではなく、相場師などが多かったという。
御利益のもう1つは弾避けで、特に第二次世界大戦時には、出征兵士やその家族などが盛んに参詣したらしい。竜爪山の祭では、近郷の猟師が集まり、盛んに空砲を撃ったという。実は、「龍爪大権現」は鉄砲の音が大嫌いで、鉄砲弾を無力にしたようである。
竜爪山信仰の歴史については、このHPが詳しい。「龍爪山の歴史」
L-wave(えるウェーブ)さんのHPから(穂積神社)
写真1:旧参道登り口。ここにも10台分くらいの駐車場がある。
写真2:社号標と鳥居の扁額は「竜爪山穂積神社」となっている。
写真3:社殿正面。参拝当日、里では曇りだったが、「穂積神社」に登ると雨粒が落ちてきた。