蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)。
場所:千葉市中央区蘇我2-2-7。国道357号線「蘇我1丁目」交差点から1本東の旧道を約80m南下し、写真1の案内看板のところの狭い道を入る。駐車場なし。
創建時期は不明。伝承は次のようにいう。即ち、日本武尊東征の途上、相模国から上総国に渡るため走水(はしりみず)の海(現・浦賀水道)に船出したが、海神の怒りにより海が荒れ、難破の危機に陥った。この窮地を救うため、日本武尊の妻、弟橘媛が海に入水し、海神の怒りを鎮めた。このとき、弟橘媛とともに、蘇我大臣の姫も身を投げた。弟橘媛は行方不明となったが、蘇我姫は当地の浜に流れ着き、里人の介抱によって蘇生した。蘇我姫は「我れ蘇れり」と言ったので、当地を「蘇我」と称した。蘇我姫は都に帰ったが、後に日本武尊が亡くなったことを聞いた里人が当神社を建立したという。また一説によれば、壬申の乱(672年)に敗れた蘇我赤兄が当地に配流されたとき、その祖神を祀ったともいう。
当神社の主祭神は蘇我比咩大神で、上記の伝承からすれば、蘇我氏の姫を祀ったとしか思えないが、謎も多い。「延喜式神名帳」には「蘇賀比咩神社」という記載になっており、元々「ソカ」あるいは「ソガ」という地名の場所に鎮座する神であって、蘇我氏とは無関係とする説も有力だが、「ソカ(ソガ)」にどういう意味があるのか殆ど説明されていない。
大化改新以前、現・千葉市を中心に、習志野市、船橋市東部、八千代市西部を含む、かなり広い範囲を千葉国造が支配していたとされる。「日本後紀」の延暦24年(805年)の条に、千葉国造である大私部直善人(おおきさいべのあたえ よしひと)が外従五位下に授位された記事がみえる。この時代には、国造は政治を離れ、祭祀を中心とする名誉職になっていたが、元の国造家の世襲であったらしい。で、大化改新以前から千葉国造は大私部直であったということだが、蘇我氏との関係が不明。開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔に日下部氏があり、その分流として私市氏という氏族があって、大私部氏は、その私市氏と関係があるのではないかともいわれるが、「(大)私部」というのは皇后のための私有民たる部曲(かきべ)を言い、「大私部直」はそれを支配する役職だったという考え方もある。それによれば、元々蘇我氏の出身であったが、「大私部直」に任命されて、その氏を名乗ったとも考えられる。ということで、いろいろ考え方はあるが、確実なことは言えないようである(だから、古代史は面白いともいえるのだが。)。
因みに、境内の説明板には、「下総国二宮 蘇我比咩神社」とある。その根拠は不明だが、平安時代から戦国時代まで一大勢力を張った地方豪族・千葉氏の本拠地に近い古社として信仰を集め、現在の静かな佇まいからは想像できないくらい栄えた時期があったのだろうと思われる(千葉氏は妙見信仰を基にした「千葉神社」(千葉市中央区院内)を重視し、次第に当神社は衰退していったという。)。
千葉県神社庁のHPから(蘇我比咩神社)
写真1:旧道沿いにある案内看板。「千葉南部総守護 延喜式内社 蘇我比咩神社」となっている。
写真2:境内入口の鳥居
写真3:社殿
場所:千葉市中央区蘇我2-2-7。国道357号線「蘇我1丁目」交差点から1本東の旧道を約80m南下し、写真1の案内看板のところの狭い道を入る。駐車場なし。
創建時期は不明。伝承は次のようにいう。即ち、日本武尊東征の途上、相模国から上総国に渡るため走水(はしりみず)の海(現・浦賀水道)に船出したが、海神の怒りにより海が荒れ、難破の危機に陥った。この窮地を救うため、日本武尊の妻、弟橘媛が海に入水し、海神の怒りを鎮めた。このとき、弟橘媛とともに、蘇我大臣の姫も身を投げた。弟橘媛は行方不明となったが、蘇我姫は当地の浜に流れ着き、里人の介抱によって蘇生した。蘇我姫は「我れ蘇れり」と言ったので、当地を「蘇我」と称した。蘇我姫は都に帰ったが、後に日本武尊が亡くなったことを聞いた里人が当神社を建立したという。また一説によれば、壬申の乱(672年)に敗れた蘇我赤兄が当地に配流されたとき、その祖神を祀ったともいう。
当神社の主祭神は蘇我比咩大神で、上記の伝承からすれば、蘇我氏の姫を祀ったとしか思えないが、謎も多い。「延喜式神名帳」には「蘇賀比咩神社」という記載になっており、元々「ソカ」あるいは「ソガ」という地名の場所に鎮座する神であって、蘇我氏とは無関係とする説も有力だが、「ソカ(ソガ)」にどういう意味があるのか殆ど説明されていない。
大化改新以前、現・千葉市を中心に、習志野市、船橋市東部、八千代市西部を含む、かなり広い範囲を千葉国造が支配していたとされる。「日本後紀」の延暦24年(805年)の条に、千葉国造である大私部直善人(おおきさいべのあたえ よしひと)が外従五位下に授位された記事がみえる。この時代には、国造は政治を離れ、祭祀を中心とする名誉職になっていたが、元の国造家の世襲であったらしい。で、大化改新以前から千葉国造は大私部直であったということだが、蘇我氏との関係が不明。開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔に日下部氏があり、その分流として私市氏という氏族があって、大私部氏は、その私市氏と関係があるのではないかともいわれるが、「(大)私部」というのは皇后のための私有民たる部曲(かきべ)を言い、「大私部直」はそれを支配する役職だったという考え方もある。それによれば、元々蘇我氏の出身であったが、「大私部直」に任命されて、その氏を名乗ったとも考えられる。ということで、いろいろ考え方はあるが、確実なことは言えないようである(だから、古代史は面白いともいえるのだが。)。
因みに、境内の説明板には、「下総国二宮 蘇我比咩神社」とある。その根拠は不明だが、平安時代から戦国時代まで一大勢力を張った地方豪族・千葉氏の本拠地に近い古社として信仰を集め、現在の静かな佇まいからは想像できないくらい栄えた時期があったのだろうと思われる(千葉氏は妙見信仰を基にした「千葉神社」(千葉市中央区院内)を重視し、次第に当神社は衰退していったという。)。
千葉県神社庁のHPから(蘇我比咩神社)
写真1:旧道沿いにある案内看板。「千葉南部総守護 延喜式内社 蘇我比咩神社」となっている。
写真2:境内入口の鳥居
写真3:社殿