海上山 千葉寺(かいじょうさん せんようじ)。
場所:千葉市中央区千葉寺町161。県道20号線(千葉大網線、通称:大網街道)「千葉寺三叉路」の東、約100m。駐車場有り(進入路が狭いので注意。)。
寺伝によれば、創建は和銅2年(709年)、行基菩薩を開基とする。行基がこの地に来たとき、池のなかに、1本の茎に千葉(花弁が多く重なっている)の青蓮華が2輪咲き、その花の中に観音が現れるという祥瑞があった。そこで、行基自ら丈六の観音像を刻んで祀り、後に聖武天皇の勅により「海照山 歓喜院 青蓮千葉寺」と称した、という。行基創建説は古寺によくある伝説だが、現在地から奈良時代後期の様式の布目瓦が出土したことから、その頃から現在地に古代寺院として存在していたことは確からしい。
なお、永暦元年(1160年)に落雷のため堂宇が全て焼失してしまったが、本尊の観音像は自ら近くの老桜の木の枝に逃れて無事であったという伝説も伝えられている。また、当寺の梵鐘は弘長元年(1262年)銘がある名鐘だったが、あるとき改鋳のため江戸に送られたが、夜中に鐘が悲しげに「千葉寺、千葉寺・・・」という声を発するという怪異があり、そのまま寺に戻されたという話もある。そのため、この鐘は「戻り鐘」という名がついたが、戦時中に供出され、現在のものは戦後に作られたものである。
さて、当寺は、中世には千葉氏の祈願所となり、手厚い庇護を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐により北條氏とともに千葉氏が滅亡したため、一時衰退した。その後、徳川氏の保護により再興されたが、明治初年には無住寺となるなど廃寺の危機もあった。現在は、真言宗豊山派の寺院で、戦災で焼失した本堂も鉄筋コンクリート造で再建された。本尊は十一面観世音菩薩で、坂東三十三観音霊場の第29番札所となっている。
「坂東三十三観音霊場」のHPから(千葉寺へ御来山歓迎)
「千葉一族」のHPから(海上山 千葉寺)
写真1:「千葉寺」山門(文政11年(1828年)再建)
写真2:境内の大銀杏(イチョウ)。樹高30m、目通り8mという巨木で、樹齢は推定1300年という。県指定天然記念物
写真3:本堂
写真4:本堂裏の「瀧蔵神社」(瀧蔵権現)。祭神は海津見尊? 千葉氏の居城「亥鼻城」の南の守護神であるという。
場所:千葉市中央区千葉寺町161。県道20号線(千葉大網線、通称:大網街道)「千葉寺三叉路」の東、約100m。駐車場有り(進入路が狭いので注意。)。
寺伝によれば、創建は和銅2年(709年)、行基菩薩を開基とする。行基がこの地に来たとき、池のなかに、1本の茎に千葉(花弁が多く重なっている)の青蓮華が2輪咲き、その花の中に観音が現れるという祥瑞があった。そこで、行基自ら丈六の観音像を刻んで祀り、後に聖武天皇の勅により「海照山 歓喜院 青蓮千葉寺」と称した、という。行基創建説は古寺によくある伝説だが、現在地から奈良時代後期の様式の布目瓦が出土したことから、その頃から現在地に古代寺院として存在していたことは確からしい。
なお、永暦元年(1160年)に落雷のため堂宇が全て焼失してしまったが、本尊の観音像は自ら近くの老桜の木の枝に逃れて無事であったという伝説も伝えられている。また、当寺の梵鐘は弘長元年(1262年)銘がある名鐘だったが、あるとき改鋳のため江戸に送られたが、夜中に鐘が悲しげに「千葉寺、千葉寺・・・」という声を発するという怪異があり、そのまま寺に戻されたという話もある。そのため、この鐘は「戻り鐘」という名がついたが、戦時中に供出され、現在のものは戦後に作られたものである。
さて、当寺は、中世には千葉氏の祈願所となり、手厚い庇護を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐により北條氏とともに千葉氏が滅亡したため、一時衰退した。その後、徳川氏の保護により再興されたが、明治初年には無住寺となるなど廃寺の危機もあった。現在は、真言宗豊山派の寺院で、戦災で焼失した本堂も鉄筋コンクリート造で再建された。本尊は十一面観世音菩薩で、坂東三十三観音霊場の第29番札所となっている。
「坂東三十三観音霊場」のHPから(千葉寺へ御来山歓迎)
「千葉一族」のHPから(海上山 千葉寺)
写真1:「千葉寺」山門(文政11年(1828年)再建)
写真2:境内の大銀杏(イチョウ)。樹高30m、目通り8mという巨木で、樹齢は推定1300年という。県指定天然記念物
写真3:本堂
写真4:本堂裏の「瀧蔵神社」(瀧蔵権現)。祭神は海津見尊? 千葉氏の居城「亥鼻城」の南の守護神であるという。