國王神社(こくおうじんじゃ)。
場所:茨城県坂東市岩井951。国道354号線「岩井交番前」から県道20号線(結城坂東線)に入り、北東へ約1.5km。県道沿いにある。駐車場有り。
社伝によれば、鎮座地は祭神の平将門公の終焉の地。奥州で隠棲していた将門公の三女である如蔵尼が、三十三回忌に当たる天禄3年(972年)に当地に戻り、付近の山林で得た霊木をもって将門公の像を刻み、祠を建てて祀ったのが創始という。茨城県西部を含む北総地区では今も人気がある将門公であるが、新皇を名乗って反乱を起こした「朝敵」として江戸時代までは表立って祀れる状況ではなかったとされる(建長5年(1253年)には朝廷から赦免を受けているが・・・。前々項:2012年9月22日記事参照)。江戸時代になると、江戸総鎮守とされる「神田明神」(東京都千代田区)に合祀されていたこともあり、三代将軍徳川家光のときに「朝敵」の扱いは解かれた。しかし、明治維新後は再び逆賊として扱われ、「神田明神」でも祭神から外されるなどした(再度合祀されるのは1984年になってからである。)とされる。こうした苦難を乗り越え、坂東市(旧・岩井市)では「将門まつり」が行われるなど、地元の英雄として崇敬を集めている。
このブログでは、式内社や古代道路など、延喜式を中心史料としてしてきた。転勤してくるまで平将門公にはさして興味もなかったのだが、考えてみると、延喜式の成立が延長5年(927年)、施行が康保4年(967年)とされるので、まさに将門公(903?~940年)が生きた時代と重なる。要するに、延喜式は律令制の詳細を定めたものだが、既にこのときには律令制自体が大きく揺らいでいく時代に入っていたということがよくわかる。そういう前提を忘れてはいけないということだろう。
國王神社のHP
坂東市のHPから(国王神社と将門座像)
写真1:「國王神社」正面
写真2:社殿
写真3:拝殿も本殿も茅葺。いずれも茨城県有形文化財(寄木造将門座像も)。
写真4:境内に「宮内遺跡」の石碑もある。当神社から東側の広い地区内から、古墳時代後期から平安時代にかけての集落跡が発見され、特に平安時代の住居跡から鉄滓など鍛冶関連施設があったことを示すものが出土している。
場所:茨城県坂東市岩井951。国道354号線「岩井交番前」から県道20号線(結城坂東線)に入り、北東へ約1.5km。県道沿いにある。駐車場有り。
社伝によれば、鎮座地は祭神の平将門公の終焉の地。奥州で隠棲していた将門公の三女である如蔵尼が、三十三回忌に当たる天禄3年(972年)に当地に戻り、付近の山林で得た霊木をもって将門公の像を刻み、祠を建てて祀ったのが創始という。茨城県西部を含む北総地区では今も人気がある将門公であるが、新皇を名乗って反乱を起こした「朝敵」として江戸時代までは表立って祀れる状況ではなかったとされる(建長5年(1253年)には朝廷から赦免を受けているが・・・。前々項:2012年9月22日記事参照)。江戸時代になると、江戸総鎮守とされる「神田明神」(東京都千代田区)に合祀されていたこともあり、三代将軍徳川家光のときに「朝敵」の扱いは解かれた。しかし、明治維新後は再び逆賊として扱われ、「神田明神」でも祭神から外されるなどした(再度合祀されるのは1984年になってからである。)とされる。こうした苦難を乗り越え、坂東市(旧・岩井市)では「将門まつり」が行われるなど、地元の英雄として崇敬を集めている。
このブログでは、式内社や古代道路など、延喜式を中心史料としてしてきた。転勤してくるまで平将門公にはさして興味もなかったのだが、考えてみると、延喜式の成立が延長5年(927年)、施行が康保4年(967年)とされるので、まさに将門公(903?~940年)が生きた時代と重なる。要するに、延喜式は律令制の詳細を定めたものだが、既にこのときには律令制自体が大きく揺らいでいく時代に入っていたということがよくわかる。そういう前提を忘れてはいけないということだろう。
國王神社のHP
坂東市のHPから(国王神社と将門座像)
写真1:「國王神社」正面
写真2:社殿
写真3:拝殿も本殿も茅葺。いずれも茨城県有形文化財(寄木造将門座像も)。
写真4:境内に「宮内遺跡」の石碑もある。当神社から東側の広い地区内から、古墳時代後期から平安時代にかけての集落跡が発見され、特に平安時代の住居跡から鉄滓など鍛冶関連施設があったことを示すものが出土している。