神が宿るところ

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立石様(東京都葛飾区)

2013-05-11 23:59:38 | 名石・奇岩・怪岩
立石様(たていしさま)。
場所:東京都葛飾区立石8-37-17(立石児童遊園内)。葛飾税務署の東、約90m。駐車場なし。因みに、京成電鉄線に「立石」という駅があるが、「青砥」駅のほうが近い(徒歩約10分)。
「立石様」は、当地の地名の由来となった不思議な石で、「要石」と同様に、いくら掘っても根が出ないといわれている。また、むやみに掘ると祟りがあるとか、「中川」が蛇行しているのは、この石を動かせなかったからだ、とかいう話もあるらしい。滝沢馬琴等が書いた奇談集「兎園小説(第10集)」(文政8年(1825年))には、次のように紹介されている。「下総国葛飾郡立石村の元名主・新右衛門の畑の中に昔から高さ1尺ほどの丸い石があった。新右衛門は、さほど根が深いとも思えず、この石がなければ耕作に便利と考え、掘り出そうとした。しかし、掘っても掘っても根が見えず、明日また掘ろうとして、翌日来てみれば、石は穴の中に沈み、底から1尺ほど出ていた。これは都合がよいと思い、上から土を被せて埋めた。ところが、翌日、見に行くと、石は地上に出ていた。ここに至って、これはただの石ではないと悟り、祠を建て稲荷として祀った。(要旨)」。ほかにも、冬には痩せて細くなるが、夏には回復するとして「活蘇石」とも呼ばれたともいう。
「立石様」は、現在では地表に僅かに出ているだけだが(写真3)、その名のとおり、かつては地上に細長く突き出ていたようだ。文献的には、室町時代の応永5年(1398年)の「下総国葛西御厨田数注文写」という文書に「立石」という地名が見られるとされ、下って江戸時代の文政13年(1830年)完成の「新編武蔵風土記稿」では「直径2尺許(約60cm)、高さ1尺程(約30cm)」とされ、天保7年(1836年)刊行の「江戸名所図会」巻七では大人の膝上くらいの高さに描かれている。
さて、この石の正体だが、石自体はいわゆる「房州石」といわれる、上総国の鋸山で産出する凝灰岩であることがわかっている。「房州石」は「法皇塚古墳」(2013年2月2日記事)の石室など、この付近の古墳築造に使われた石材である。「立石児童遊園」内から埴輪片が発見されたという話もあり、ここに古墳があった可能性がある。これが「立石様」と呼ばれるようになったのは、古墳の石材を流用して、この付近を通る古代東海道の道標として石を立てたからではないかという説が有力である。ただし、「立石様」の位置は、厳密に言うと、東京低地に残る古代東海道の痕跡とされる直線道路沿いではない。それは、「立石様」の南、約100mの中川の中になる。当時は周りに何もなかったかもしれないので、それでも目印になったのだろうか。


葛飾区観光ガイドのHPから(立石様)


写真1:公園入口にある鳥居と「立石祠」という社号標?。東向き。


写真2:小さな鳥居と説明板。鳥居の後ろに玉垣、更に後ろに石祠がある。


写真3:玉垣の中に「立石」が地上に僅かに出ている。


写真4:石祠。「立石稲荷大明神」と刻されているのが見える。文化2年(1805年)に、立石村名主・島田新右衛門が中心となって石祠を建て、「立石稲荷大明神」として祀ったという。
コメント (2)
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