大塚原古墳(おおつかはらこふん)。
場所:千葉県旭市大塚原1176。 「大塚原青年館」(西側に大きな防火水槽がある。旭市コミュニティバス「大塚原」バス停の南西、約100m)の西、約100m。住宅地の中にあって目印が乏しく、判り難い場所にある。駐車場なし。接面道路も狭いので注意。
「大塚原古墳」は、全長約10mの円墳とされるが、弘文天皇妃の耳面刀自媛(みみもとじひめ)の陵墓であるという伝承がある。そもそも弘文天皇というのは、天智天皇の子で、「壬申の乱」で大海人皇子(後の天武天皇。天智天皇の弟)に反乱を起こされ、敗れて自死したとされる大友皇子のことである。天智天皇の死(672年1月)後、天武天皇の即位(673年3月)までの間に、大友皇子が天皇として即位したかどうかについて古くから論争があった。正史である「日本書紀」に即位の記事は無いが、江戸時代末期には、即位したとする説が有力になった。このため、明治3年になって「弘文天皇」と追号され、第39代天皇と認められた。この点について詳述する余裕は無いが、即位しなかったとする説の論者でも、大友皇子が天智天皇の死後に天皇としての役割を担ったことは認めているので、言ってみれば「天皇即位の儀式をしたか、しなかったか」という議論に過ぎないともされる。いずれにせよ、弘文天皇は672年8月には崩御されているので、治世は極く短かい期間だった。陵墓は、死地とされる現・滋賀県大津市の「平松亀山古墳」が当てられ、「長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)」と称されるようになったが、この古墳は時代が合わず、弘文天皇の陵墓ではないとする説が有力という。こうしたこともあってか、大友皇子(弘文天皇)は密かに近江国を脱出し、上総国の現・千葉県君津市俵田で亡くなったとされる伝説がある。同所にある「白山神社」では菊理媛命と大友皇子を祀り、背後の前方後円墳(「白山神社古墳」)が弘文天皇の陵墓であるという。
この弘文天皇に関する伝説は、正史である「日本書紀」の記述に反するので信憑性は薄い(「日本書紀」には、勝者である天武天皇側に立った捏造説もあるが)。一方で、弘文天皇妃である耳面刀自媛に関しては、史料が乏しく、謎も多い。耳面刀自媛は藤原鎌足の娘とされており、「壬申の乱」後、多氏系中臣氏の子孫であった藤原鎌足の出身地である常陸国を目指して東国に逃れたのだとする伝説が生まれたようだ。この伝説によれば、耳面刀自媛は下総国の現・千葉県匝瑳市の野手海岸に上陸したが、病に倒れ、同地で亡くなったという。耳面刀自媛は従者の中臣英勝(なかとみのあかつ)らによって葬られ、その墓は「内裏塚(だいりづか)」と称する古墳であったとされる。「内裏塚」は、圃場整備によって消滅したが、道路沿いに今も小さな鳥居と2基の石碑が立てられている(これを「内裏神社」とも称し、説明板もある。)。そして、天慶3年(940年)、中臣英勝の8世の孫・中臣美敷が「椿海」の畔に改葬したのが「大塚原古墳」であるとされ、「内裏塚」の墳土の一部を遷して霊廟を建てたのが現在の千葉県旭市鎮座の「内裏神社(だいりじんじゃ)」の創始であるという。明治24年、風雨のため「大塚原古墳」の一部が崩壊し、人骨・土器・「連金子英勝」と刻された石板が出土した。そのときには詳しい調査がされずに埋め戻され、昭和46年の調査時には約3体分の人骨が出たが、細分化していて男女の別も不明という状態だった。しかし、その骨に、高貴な人物の埋葬に使われたとされる朱が付着していたこともあり、伝承とも合わせ、耳面刀自媛や中臣英勝らの墓であるとされた、という(現地説明板などによる。)。
匝瑳市のHPから(内裏神社):PDFファイル
「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(大塚原古墳)
同上(内裏神社)
写真1:「大塚原古墳」。「弘文天皇妃耳面刀自媛陵墓」という石碑が建てられている。旭市指定文化財(史跡)

写真2:同上、「連金子英勝」と刻された石板もあるが、今では磨耗して文字は読み取れない。

写真3:「内裏神社」正面鳥居(場所:千葉県旭市泉川1502-1。県道104号線(八日市場井戸野旭線)沿い、「豊畑郵便局」の東約280m。駐車スペースあり。)

写真4:同上、社殿 (祭神:耳面刀自媛)

写真5:同上、社殿裏にある「大友皇子霊璽」石碑

写真6:「内裏神社(上社)」(場所:千葉県匝瑳市野手)

写真7:同上、社殿

写真8:「内裏神社(下社)」(場所:千葉県匝瑳市野手)

写真9:同上、「遷宮記念碑」

(写真6~9は2019年6月23日に追加しました。)
場所:千葉県旭市大塚原1176。 「大塚原青年館」(西側に大きな防火水槽がある。旭市コミュニティバス「大塚原」バス停の南西、約100m)の西、約100m。住宅地の中にあって目印が乏しく、判り難い場所にある。駐車場なし。接面道路も狭いので注意。
「大塚原古墳」は、全長約10mの円墳とされるが、弘文天皇妃の耳面刀自媛(みみもとじひめ)の陵墓であるという伝承がある。そもそも弘文天皇というのは、天智天皇の子で、「壬申の乱」で大海人皇子(後の天武天皇。天智天皇の弟)に反乱を起こされ、敗れて自死したとされる大友皇子のことである。天智天皇の死(672年1月)後、天武天皇の即位(673年3月)までの間に、大友皇子が天皇として即位したかどうかについて古くから論争があった。正史である「日本書紀」に即位の記事は無いが、江戸時代末期には、即位したとする説が有力になった。このため、明治3年になって「弘文天皇」と追号され、第39代天皇と認められた。この点について詳述する余裕は無いが、即位しなかったとする説の論者でも、大友皇子が天智天皇の死後に天皇としての役割を担ったことは認めているので、言ってみれば「天皇即位の儀式をしたか、しなかったか」という議論に過ぎないともされる。いずれにせよ、弘文天皇は672年8月には崩御されているので、治世は極く短かい期間だった。陵墓は、死地とされる現・滋賀県大津市の「平松亀山古墳」が当てられ、「長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)」と称されるようになったが、この古墳は時代が合わず、弘文天皇の陵墓ではないとする説が有力という。こうしたこともあってか、大友皇子(弘文天皇)は密かに近江国を脱出し、上総国の現・千葉県君津市俵田で亡くなったとされる伝説がある。同所にある「白山神社」では菊理媛命と大友皇子を祀り、背後の前方後円墳(「白山神社古墳」)が弘文天皇の陵墓であるという。
この弘文天皇に関する伝説は、正史である「日本書紀」の記述に反するので信憑性は薄い(「日本書紀」には、勝者である天武天皇側に立った捏造説もあるが)。一方で、弘文天皇妃である耳面刀自媛に関しては、史料が乏しく、謎も多い。耳面刀自媛は藤原鎌足の娘とされており、「壬申の乱」後、多氏系中臣氏の子孫であった藤原鎌足の出身地である常陸国を目指して東国に逃れたのだとする伝説が生まれたようだ。この伝説によれば、耳面刀自媛は下総国の現・千葉県匝瑳市の野手海岸に上陸したが、病に倒れ、同地で亡くなったという。耳面刀自媛は従者の中臣英勝(なかとみのあかつ)らによって葬られ、その墓は「内裏塚(だいりづか)」と称する古墳であったとされる。「内裏塚」は、圃場整備によって消滅したが、道路沿いに今も小さな鳥居と2基の石碑が立てられている(これを「内裏神社」とも称し、説明板もある。)。そして、天慶3年(940年)、中臣英勝の8世の孫・中臣美敷が「椿海」の畔に改葬したのが「大塚原古墳」であるとされ、「内裏塚」の墳土の一部を遷して霊廟を建てたのが現在の千葉県旭市鎮座の「内裏神社(だいりじんじゃ)」の創始であるという。明治24年、風雨のため「大塚原古墳」の一部が崩壊し、人骨・土器・「連金子英勝」と刻された石板が出土した。そのときには詳しい調査がされずに埋め戻され、昭和46年の調査時には約3体分の人骨が出たが、細分化していて男女の別も不明という状態だった。しかし、その骨に、高貴な人物の埋葬に使われたとされる朱が付着していたこともあり、伝承とも合わせ、耳面刀自媛や中臣英勝らの墓であるとされた、という(現地説明板などによる。)。
匝瑳市のHPから(内裏神社):PDFファイル
「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(大塚原古墳)
同上(内裏神社)
写真1:「大塚原古墳」。「弘文天皇妃耳面刀自媛陵墓」という石碑が建てられている。旭市指定文化財(史跡)

写真2:同上、「連金子英勝」と刻された石板もあるが、今では磨耗して文字は読み取れない。

写真3:「内裏神社」正面鳥居(場所:千葉県旭市泉川1502-1。県道104号線(八日市場井戸野旭線)沿い、「豊畑郵便局」の東約280m。駐車スペースあり。)

写真4:同上、社殿 (祭神:耳面刀自媛)

写真5:同上、社殿裏にある「大友皇子霊璽」石碑

写真6:「内裏神社(上社)」(場所:千葉県匝瑳市野手)

写真7:同上、社殿

写真8:「内裏神社(下社)」(場所:千葉県匝瑳市野手)

写真9:同上、「遷宮記念碑」

(写真6~9は2019年6月23日に追加しました。)