有賀神社(ありがじんじゃ)。
場所:茨城県水戸市有賀町1028。国道50号線と茨城県道52号線(石岡城里線)の「内原跨線橋北」交差点から県道を北へ約1.1km、押ボタン式信号機のある交差点を左折(西へ。「有賀神社 入口」の看板が出ている。)、約40m進んで右折(北西へ。ここにも看板が出ている。)、約180mで神社正面。駐車スペース有り。
社伝によれば、貞観元年(859年)、那賀(仲)国造により創建されたという(この那賀国造を初代・建借馬命とする説もあるが、成務天皇の御代(131~190年?)に任命されたとされており、時代が合わない。もっとも、成務天皇自体の実在性が疑われている。)。清和天皇の御代(858~876年)に「藤内」の地に鎮座し、「藤内神社」と称した。天正18年(1590年)、兵火に遭い焼失、翌年、現在地に遷座して「鹿島明神」と改称。明治6年に青木神社と合併して村社に列格、明治10年に「有賀神社」と改称したという。現在の祭神は、武甕槌命と経津主命。
当神社は「牛伏古墳群」(「唐櫃塚古墳」(2019年4月27日記事)参照)の南西500m(直線距離)のところにあり、元は「藤内神社」と称していたというところから、常陸国式内社「藤内神社」に比定する説がある。また、当神社の特殊神事として、毎年11月11日の早朝に御神体の大御鉾が出御し、道中法螺貝を吹き鳴らしながら「大洗磯前神社」(2018年5月19日記事)へ渡御する「磯渡御」(お磯下り)がある。当神社創建以来続いているともいうが、確認できる史料でも天正2年(1547年)というものがあり、相当古くから行われていたことが窺われる(なお、この神事については「大洗磯前神社」のHPにも紹介されている。)。また、当神社と「大洗磯前神社」とは直線距離でも約22kmも離れているところから、両神社の結びつきの深さも感じられる。
ただし、当神社は元々「有賀台字塚原」の地にあり、天正元年(1573年)に「有賀宿字藤内」に遷座して「藤内神社」と称したとする説もある。この説によれば、当然ながら、式内社「藤内神社」とするには無理がある。因みに、上記の社伝にある「兵火に遭い焼失」というのは「塚原城」焼き討ちのとばっちりらしく、「塚原城」というのは当神社の北西側にあったという中世城館とみられる(「余湖くんのホームページ」による。)。とすると、元々、現在地付近に鎮座していて、兵火に遭って移転、暫くして戻って来た、ということも考えられるのではないだろうか。というようなことで、式内社「藤内神社」の論社として有力とまでは言えないと思われる。
水戸観光コンベンション協会のHPから(有賀神社)
「余湖くんのホームページ」から(内原町)
写真1:「有賀神社」一の鳥居
写真2:二の鳥居
写真3:拝殿
写真4:本殿
写真5:境内の「改築記念碑」。上記の社伝や「磯渡御」のことが刻されている。なお、当神社は「虫切りの神様」として知られており、子供の夜泣きなどに御利益があるという。
場所:茨城県水戸市有賀町1028。国道50号線と茨城県道52号線(石岡城里線)の「内原跨線橋北」交差点から県道を北へ約1.1km、押ボタン式信号機のある交差点を左折(西へ。「有賀神社 入口」の看板が出ている。)、約40m進んで右折(北西へ。ここにも看板が出ている。)、約180mで神社正面。駐車スペース有り。
社伝によれば、貞観元年(859年)、那賀(仲)国造により創建されたという(この那賀国造を初代・建借馬命とする説もあるが、成務天皇の御代(131~190年?)に任命されたとされており、時代が合わない。もっとも、成務天皇自体の実在性が疑われている。)。清和天皇の御代(858~876年)に「藤内」の地に鎮座し、「藤内神社」と称した。天正18年(1590年)、兵火に遭い焼失、翌年、現在地に遷座して「鹿島明神」と改称。明治6年に青木神社と合併して村社に列格、明治10年に「有賀神社」と改称したという。現在の祭神は、武甕槌命と経津主命。
当神社は「牛伏古墳群」(「唐櫃塚古墳」(2019年4月27日記事)参照)の南西500m(直線距離)のところにあり、元は「藤内神社」と称していたというところから、常陸国式内社「藤内神社」に比定する説がある。また、当神社の特殊神事として、毎年11月11日の早朝に御神体の大御鉾が出御し、道中法螺貝を吹き鳴らしながら「大洗磯前神社」(2018年5月19日記事)へ渡御する「磯渡御」(お磯下り)がある。当神社創建以来続いているともいうが、確認できる史料でも天正2年(1547年)というものがあり、相当古くから行われていたことが窺われる(なお、この神事については「大洗磯前神社」のHPにも紹介されている。)。また、当神社と「大洗磯前神社」とは直線距離でも約22kmも離れているところから、両神社の結びつきの深さも感じられる。
ただし、当神社は元々「有賀台字塚原」の地にあり、天正元年(1573年)に「有賀宿字藤内」に遷座して「藤内神社」と称したとする説もある。この説によれば、当然ながら、式内社「藤内神社」とするには無理がある。因みに、上記の社伝にある「兵火に遭い焼失」というのは「塚原城」焼き討ちのとばっちりらしく、「塚原城」というのは当神社の北西側にあったという中世城館とみられる(「余湖くんのホームページ」による。)。とすると、元々、現在地付近に鎮座していて、兵火に遭って移転、暫くして戻って来た、ということも考えられるのではないだろうか。というようなことで、式内社「藤内神社」の論社として有力とまでは言えないと思われる。
水戸観光コンベンション協会のHPから(有賀神社)
「余湖くんのホームページ」から(内原町)
写真1:「有賀神社」一の鳥居
写真2:二の鳥居
写真3:拝殿
写真4:本殿
写真5:境内の「改築記念碑」。上記の社伝や「磯渡御」のことが刻されている。なお、当神社は「虫切りの神様」として知られており、子供の夜泣きなどに御利益があるという。