朝望山 東光院 東城寺(ちょうぼうさん とうこういん とうじょうじ)。
場所:茨城県土浦市東城寺650。茨城県道53号線(つくば千代田線)沿い「沢辺郵便局」の西、約180mの信号のある交差点から北東へ進み、約80mで(「東城寺」という小さな案内標識がある。)左折(北へ)、道なりに約1.3kmで山門。本堂までは、ここから更に狭くて長い坂道を上るが(約400m)、山門脇から舗装路があり、自動車でも本堂近くまで行ける。駐車スペース有り。
寺伝によれば、延暦15年(796年)に第50代・桓武天皇の勅願により、天台宗の開祖・最澄(伝教大師)の高弟である最仙により開山された。当地では法相宗の僧・徳一の影響力が強く、布教に苦労したが、開山後は常陸国における天台宗の拠点の一つとなった。天台宗は鎮護国家の意識が強く、「朝望山」という山号は「朝廷を望む」という意味だという。本尊は薬師如来で、創建当初は「薬師寺」といったが、後に「東成寺」と改称した。鎌倉時代初期、小田氏の支配が及ぶと真言宗に改宗され、江戸時代になると土浦藩主・土屋氏の帰依により「土」の字を受け、「東成寺」から「東城寺」に改められたという。本堂裏手の山の斜面に経塚群があり、 発掘調査により保安3年(1122年)、元治元年(1124年)銘のある経筒が確認されている(茨城県指定文化財(史跡))。 本堂は平成9年の火災(放火)により焼失、平成16年に再建された。
茨城県教育委員会のHPから(東城寺経塚群)
同上(東城寺結界石)
写真1:「東城寺」山門。ここの扁額には「東成寺」とある。
写真2:自動車で上って行くと通り過ぎてしまうが、こんな雰囲気の良い石段もある。
写真3:結界石。寺域を示すための境界石で、当寺院の近辺に5基残っていたもののうち、建長5年(1253年)という年号銘のあるものを境内に移したものという。雲母片岩製で、高さは約1.2m。
写真4:本堂
写真5:地蔵堂
写真6:本堂の後ろにある「佛窟」。戦国時代、当寺院には300人の僧兵がいたとされるが、小田氏側について敗れ、山中に散らばって埋葬された。それを纏めて供養したものらしい。なお、平成9年の火災の際に焼け残った仏典なども納められているとのこと。昭和62年建立。
写真7:経塚群(一部)。
場所:茨城県土浦市東城寺650。茨城県道53号線(つくば千代田線)沿い「沢辺郵便局」の西、約180mの信号のある交差点から北東へ進み、約80mで(「東城寺」という小さな案内標識がある。)左折(北へ)、道なりに約1.3kmで山門。本堂までは、ここから更に狭くて長い坂道を上るが(約400m)、山門脇から舗装路があり、自動車でも本堂近くまで行ける。駐車スペース有り。
寺伝によれば、延暦15年(796年)に第50代・桓武天皇の勅願により、天台宗の開祖・最澄(伝教大師)の高弟である最仙により開山された。当地では法相宗の僧・徳一の影響力が強く、布教に苦労したが、開山後は常陸国における天台宗の拠点の一つとなった。天台宗は鎮護国家の意識が強く、「朝望山」という山号は「朝廷を望む」という意味だという。本尊は薬師如来で、創建当初は「薬師寺」といったが、後に「東成寺」と改称した。鎌倉時代初期、小田氏の支配が及ぶと真言宗に改宗され、江戸時代になると土浦藩主・土屋氏の帰依により「土」の字を受け、「東成寺」から「東城寺」に改められたという。本堂裏手の山の斜面に経塚群があり、 発掘調査により保安3年(1122年)、元治元年(1124年)銘のある経筒が確認されている(茨城県指定文化財(史跡))。 本堂は平成9年の火災(放火)により焼失、平成16年に再建された。
茨城県教育委員会のHPから(東城寺経塚群)
同上(東城寺結界石)
写真1:「東城寺」山門。ここの扁額には「東成寺」とある。
写真2:自動車で上って行くと通り過ぎてしまうが、こんな雰囲気の良い石段もある。
写真3:結界石。寺域を示すための境界石で、当寺院の近辺に5基残っていたもののうち、建長5年(1253年)という年号銘のあるものを境内に移したものという。雲母片岩製で、高さは約1.2m。
写真4:本堂
写真5:地蔵堂
写真6:本堂の後ろにある「佛窟」。戦国時代、当寺院には300人の僧兵がいたとされるが、小田氏側について敗れ、山中に散らばって埋葬された。それを纏めて供養したものらしい。なお、平成9年の火災の際に焼け残った仏典なども納められているとのこと。昭和62年建立。
写真7:経塚群(一部)。