鉾神社(ほこじんじゃ)。別名:鉾大明神。
場所:茨城県行方市小牧72。茨城県道185号線(繫昌潮来線)沿い「行方警察麻生東派出所」前から北へ約1.7km、右折して(南へ)約170mで旧「大和第一小学校」に入る。正門から入って直ぐのところに駐車スペースがある。北側の旧校舎の裏へ回り込んで、東へ約400~500m。ただし、小生が訪問したのはかなり前で、旧「大和第一小学校」(平成25年廃校)では、当時まだグラウンドでゲートボールをしている人たちがいたが、現在はどうなっているか分からない。なお、旧「大和第一小学校」入口から県道を更に北東へ約250m進んだところ(「行方市消防団第3分団第7部」車庫がある。)から非常に狭い道路(普通乗用車では無理。)があって、南西に向かって上って行くと旧「大和第一小学校」の裏に出るので、そこから東に進んでも行ける。
社伝によれば、創建は大同元年(806年)で、鹿島大神の鉾を祀る神社であるともいう(社宝に、古代鉾や大太刀があるとのこと。)。ただし、「常陸国風土記」(養老5年(721年)成立?)行方郡の条にある「田の里」というのが当地を含む古代「道田郷」に当たり、「(波耶武之野という)野の北の海辺に香島の神子の神社がある。」(現代語訳)という記述の「香島神子之社」(常陸国一宮「鹿島神宮」の分社)が当神社のことであるとされるので、創祀はもっと早い可能性がある。当地周辺は、中世には「小牧郷」と呼ばれるようになるが、元々は常陸国衙の金泥大般若経書写料所(経典を作成するための費用に充てられる地域)だったところ、保延5年(1139年)の太政官符によって「鹿島神宮」に日次御供料所(毎日の供物を賄う費用に充てられる地域)として寄進されている。古来、当地に「鹿島神宮」の主要摂社としての当神社が存在したことで小牧郷が「鹿島神宮」の神領となり、当神社の祭典の時は「鹿島神宮」から大禰宜が来て厳修したという。また、「小牧」という地名は、行政上は「コマキ」というが、地元では「コウマギ」と発音するといい、これは当地が「鹿島神宮」の神馬を飼育する牧場、即ち「神牧」だったことに由来すると考えられている。当神社や旧「大和第一小学校」敷地のある「小牧台」という台地は、古代「香取海」の一部だったと思われる北浦に向かって岬状に伸びており、かつては海辺にあって、放牧した馬を囲い込むのに適していたと思われる。明治7年、小牧・籠田など9ヵ村の村社となった。現在の祭神は、武甕槌命・大己貴命ほか。
因みに、茨城県鉾田市の市名は、同市内に鎮座する「鉾神社」に由来するとされるが、天正4年(1576年)に鉾田城主・田山東市正保胤が当神社から分霊を勧請して創建されたものなので、当神社の方が本社となる。
蛇足:社伝で当神社の創建を大同元年としていることについて、地元の郷土史家・箕輪徳二郎氏は次のように推定している。現・行方市小牧285(当神社の南西約600m(直線距離))に天台宗「普門寺」があり、その通称「鉾薬師堂」(堂本尊の薬師如来立像は榧(カヤ)材の一木造りで、平安時代後期作とされる。行方市指定文化財)は、元は「医王山 東光院 三光寺」といい、日向国(現・宮崎県)から来た智東上人が、霊験により、神泉が注ぐ池から神鉾をもって薬師如来像を掬い上げ、堂を建てて安置した。これが大同元年のこととする(大正14年に「長命山 明量院 普門寺」と合併して「普門寺」となった。)。この寺院が中世、当神社の別当であったために、その寺伝の創建年代をもって、当神社の創建としたのではないか、と。
写真1:森の奥に小さく、赤い鳥居が見える。長い参道は古社の雰囲気たっぷり。
写真2:「鉾神社」鳥居と社号標。説明板もある。
写真3:拝殿
写真4:本殿
場所:茨城県行方市小牧72。茨城県道185号線(繫昌潮来線)沿い「行方警察麻生東派出所」前から北へ約1.7km、右折して(南へ)約170mで旧「大和第一小学校」に入る。正門から入って直ぐのところに駐車スペースがある。北側の旧校舎の裏へ回り込んで、東へ約400~500m。ただし、小生が訪問したのはかなり前で、旧「大和第一小学校」(平成25年廃校)では、当時まだグラウンドでゲートボールをしている人たちがいたが、現在はどうなっているか分からない。なお、旧「大和第一小学校」入口から県道を更に北東へ約250m進んだところ(「行方市消防団第3分団第7部」車庫がある。)から非常に狭い道路(普通乗用車では無理。)があって、南西に向かって上って行くと旧「大和第一小学校」の裏に出るので、そこから東に進んでも行ける。
社伝によれば、創建は大同元年(806年)で、鹿島大神の鉾を祀る神社であるともいう(社宝に、古代鉾や大太刀があるとのこと。)。ただし、「常陸国風土記」(養老5年(721年)成立?)行方郡の条にある「田の里」というのが当地を含む古代「道田郷」に当たり、「(波耶武之野という)野の北の海辺に香島の神子の神社がある。」(現代語訳)という記述の「香島神子之社」(常陸国一宮「鹿島神宮」の分社)が当神社のことであるとされるので、創祀はもっと早い可能性がある。当地周辺は、中世には「小牧郷」と呼ばれるようになるが、元々は常陸国衙の金泥大般若経書写料所(経典を作成するための費用に充てられる地域)だったところ、保延5年(1139年)の太政官符によって「鹿島神宮」に日次御供料所(毎日の供物を賄う費用に充てられる地域)として寄進されている。古来、当地に「鹿島神宮」の主要摂社としての当神社が存在したことで小牧郷が「鹿島神宮」の神領となり、当神社の祭典の時は「鹿島神宮」から大禰宜が来て厳修したという。また、「小牧」という地名は、行政上は「コマキ」というが、地元では「コウマギ」と発音するといい、これは当地が「鹿島神宮」の神馬を飼育する牧場、即ち「神牧」だったことに由来すると考えられている。当神社や旧「大和第一小学校」敷地のある「小牧台」という台地は、古代「香取海」の一部だったと思われる北浦に向かって岬状に伸びており、かつては海辺にあって、放牧した馬を囲い込むのに適していたと思われる。明治7年、小牧・籠田など9ヵ村の村社となった。現在の祭神は、武甕槌命・大己貴命ほか。
因みに、茨城県鉾田市の市名は、同市内に鎮座する「鉾神社」に由来するとされるが、天正4年(1576年)に鉾田城主・田山東市正保胤が当神社から分霊を勧請して創建されたものなので、当神社の方が本社となる。
蛇足:社伝で当神社の創建を大同元年としていることについて、地元の郷土史家・箕輪徳二郎氏は次のように推定している。現・行方市小牧285(当神社の南西約600m(直線距離))に天台宗「普門寺」があり、その通称「鉾薬師堂」(堂本尊の薬師如来立像は榧(カヤ)材の一木造りで、平安時代後期作とされる。行方市指定文化財)は、元は「医王山 東光院 三光寺」といい、日向国(現・宮崎県)から来た智東上人が、霊験により、神泉が注ぐ池から神鉾をもって薬師如来像を掬い上げ、堂を建てて安置した。これが大同元年のこととする(大正14年に「長命山 明量院 普門寺」と合併して「普門寺」となった。)。この寺院が中世、当神社の別当であったために、その寺伝の創建年代をもって、当神社の創建としたのではないか、と。
写真1:森の奥に小さく、赤い鳥居が見える。長い参道は古社の雰囲気たっぷり。
写真2:「鉾神社」鳥居と社号標。説明板もある。
写真3:拝殿
写真4:本殿