如意輪山 普門院 観音寺(にょいりんさん ふもんいん かんのんじ)。通称:小幡観音寺。
場所:茨城県行方市小幡1038。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同184号線(島並鉾田線)「小高」交差点から184号線を北東~北へ約4.2km、「←観音寺」の案内板が出ているところで左折(北西~北へ)、約500mで参道入口。そこから更に約240m北へ進んだところで左折(西へ)すると、駐車場がある。
寺伝によると、大同元年(806年)に桓武天皇の皇孫・高棟皇子が常陸国へ宮郭を移された折、大同3年(808年)、筑紫国大宰府「観世音寺」(現・福岡県太宰府市)から如意輪観音を満海上人に托して「堂山」に奉祀させたのが創始とされる。鎌倉時代の文応元年(1260年)、領主の地頭・小幡大炊助平相正が大檀那となって堂宇を建立し、真言律宗の僧・忍性(死後、「菩薩」号を勅許。)を招いて再興した。正平6年(1351年)、比叡山の東範権僧正が来て天台宗に改宗したことから、東範を中興開山とする。天正19年(1591年)、小幡城が落城し小幡氏が滅ぶと、その城址に移転したという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
ただし、この寺伝には疑問点がいくつかある。例えば、高棟皇子は、第50代桓武天皇の第三皇子・葛原親王の長男で、臣籍降下して平朝臣姓を与えられ、平高棟と名乗った。しかし、生年は延暦23年(804年)とされているので、大同3年ではまだ4歳である。臣籍降下が認められたのも天長2年(825年)なので、時代が合わない。また、ずっと京都にいて、常陸国に住んだことはないと思われる。同様に、時代は合わないが、高棟の弟に当たる高見王(葛原親王の三男?)の子・高望王は寛平元年(889年)に臣籍降下して平高望を名乗り、上総介に任官して任地である上総国に下った。任期が過ぎても帰京せず、上総国・下総国・常陸国に勢力を伸ばし、坂東平氏の祖となった(平将門は高望の孫に当たる。)。こうしたこととの混同があったのではないだろうか。次に、開山の満海上人であるが、当寺院の観音像収蔵庫前の石碑には「満海上人の足跡は鹿島より行方、筑波北条より東北に巡錫し最後は現在の仙台市準胝観音堂、瑞宝殿に墓地がある。満海上人と正宗公は同じ墓所にあり、満海上人の生まれ変わりが伊達正宗公とも言われている。」とあるが、この満海上人は湯殿山の修験者で、現・宮城県仙台市の「瑞宝殿」(伊達政宗公墓所)建立工事中に石室が発見されたが、これが満海上人が入定した墓跡とされた。そして、同じく隻眼であったということから、伊達政宗に生まれ変わったという伝説が生まれたらしい。満海上人の入定は天正年間(1573~1592年)とされるので、当寺院創建時期とは合わない。当寺院開山を「萬海上人」あるいは「満開上人」とする資料もあり、別人ではないだろうか。なお、当寺院に所蔵されている銅製如意輪観音坐像は鎌倉時代の作とされており、忍性は建長4年(1252年)に常陸国筑波「三村寺」(「三村山 清涼院 極楽寺」。現在は廃寺)を拠点として布教活動を行ったとされるので、小幡氏に招かれて当地に来た際、この観音像をもたらした可能性はあると思われる。
茨城県教育委員会のHPから(金銅 如意輪観音坐像)
写真1:「観音寺」参道入口にある「茨城百景 観音馬場」石碑。かつては門前に直線約250mの馬場があり、昭和20年頃までは草競馬が行われていたという。今も参道に桜の木が多く、名所になっている。
写真2:「観音馬場」碑の立つ土塁の下に「巨木三本松」という小さな石碑がある。ここに、高さ約42m、幹周り約12m、樹齢約800年という松(マツ)の巨木があったが、昭和39年に枯れてしまい、伐採された。遠くは鹿島からも見えたという。
写真3:山門(仁王門)。永正10年(1513年)建立とされ、室町時代末~桃山時代にかけての建築様式を伝えるものとして、昭和52年に行方市指定有形文化財に指定。
写真4:参道正面にある観音堂
写真5:観音堂の左手にある収蔵庫。如意輪観音坐像は像高36.3cm・総高63.9cmで、宋風彫刻の影響がみられるという。仏像・光背・台座がほとんど当時のまま一具として残る銅造如意輪観音像としては唯一の貴重な作例とされ、昭和49年に茨城県指定重要文化財に指定。現地説明板では、製作時期を14世紀末としている。
写真6:更に奥に進むと、巨大な寺号標がある。この背後に駐車場がある。
写真7:本堂
写真8:鐘楼
写真9:スダジイの巨木。樹高約15m・枝張り約18m・幹周り約6m、推定樹齢約500年。旧北浦村で最大の巨木とされ、昭和48年に行方市指定天然記念物に指定。
写真10:本堂横にある「小幡城跡」石碑。説明文は意味が取りにくいところが多いが、当寺院及び北側にあった「要小学校」(廃校)敷地が、玉造氏から分かれた小幡氏の中世城館跡だったらしい。現在も土塁等が多く残っており、当寺院の鐘楼の土壇は物見櫓跡という(古墳という説もある。)。
場所:茨城県行方市小幡1038。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同184号線(島並鉾田線)「小高」交差点から184号線を北東~北へ約4.2km、「←観音寺」の案内板が出ているところで左折(北西~北へ)、約500mで参道入口。そこから更に約240m北へ進んだところで左折(西へ)すると、駐車場がある。
寺伝によると、大同元年(806年)に桓武天皇の皇孫・高棟皇子が常陸国へ宮郭を移された折、大同3年(808年)、筑紫国大宰府「観世音寺」(現・福岡県太宰府市)から如意輪観音を満海上人に托して「堂山」に奉祀させたのが創始とされる。鎌倉時代の文応元年(1260年)、領主の地頭・小幡大炊助平相正が大檀那となって堂宇を建立し、真言律宗の僧・忍性(死後、「菩薩」号を勅許。)を招いて再興した。正平6年(1351年)、比叡山の東範権僧正が来て天台宗に改宗したことから、東範を中興開山とする。天正19年(1591年)、小幡城が落城し小幡氏が滅ぶと、その城址に移転したという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
ただし、この寺伝には疑問点がいくつかある。例えば、高棟皇子は、第50代桓武天皇の第三皇子・葛原親王の長男で、臣籍降下して平朝臣姓を与えられ、平高棟と名乗った。しかし、生年は延暦23年(804年)とされているので、大同3年ではまだ4歳である。臣籍降下が認められたのも天長2年(825年)なので、時代が合わない。また、ずっと京都にいて、常陸国に住んだことはないと思われる。同様に、時代は合わないが、高棟の弟に当たる高見王(葛原親王の三男?)の子・高望王は寛平元年(889年)に臣籍降下して平高望を名乗り、上総介に任官して任地である上総国に下った。任期が過ぎても帰京せず、上総国・下総国・常陸国に勢力を伸ばし、坂東平氏の祖となった(平将門は高望の孫に当たる。)。こうしたこととの混同があったのではないだろうか。次に、開山の満海上人であるが、当寺院の観音像収蔵庫前の石碑には「満海上人の足跡は鹿島より行方、筑波北条より東北に巡錫し最後は現在の仙台市準胝観音堂、瑞宝殿に墓地がある。満海上人と正宗公は同じ墓所にあり、満海上人の生まれ変わりが伊達正宗公とも言われている。」とあるが、この満海上人は湯殿山の修験者で、現・宮城県仙台市の「瑞宝殿」(伊達政宗公墓所)建立工事中に石室が発見されたが、これが満海上人が入定した墓跡とされた。そして、同じく隻眼であったということから、伊達政宗に生まれ変わったという伝説が生まれたらしい。満海上人の入定は天正年間(1573~1592年)とされるので、当寺院創建時期とは合わない。当寺院開山を「萬海上人」あるいは「満開上人」とする資料もあり、別人ではないだろうか。なお、当寺院に所蔵されている銅製如意輪観音坐像は鎌倉時代の作とされており、忍性は建長4年(1252年)に常陸国筑波「三村寺」(「三村山 清涼院 極楽寺」。現在は廃寺)を拠点として布教活動を行ったとされるので、小幡氏に招かれて当地に来た際、この観音像をもたらした可能性はあると思われる。
茨城県教育委員会のHPから(金銅 如意輪観音坐像)
写真1:「観音寺」参道入口にある「茨城百景 観音馬場」石碑。かつては門前に直線約250mの馬場があり、昭和20年頃までは草競馬が行われていたという。今も参道に桜の木が多く、名所になっている。
写真2:「観音馬場」碑の立つ土塁の下に「巨木三本松」という小さな石碑がある。ここに、高さ約42m、幹周り約12m、樹齢約800年という松(マツ)の巨木があったが、昭和39年に枯れてしまい、伐採された。遠くは鹿島からも見えたという。
写真3:山門(仁王門)。永正10年(1513年)建立とされ、室町時代末~桃山時代にかけての建築様式を伝えるものとして、昭和52年に行方市指定有形文化財に指定。
写真4:参道正面にある観音堂
写真5:観音堂の左手にある収蔵庫。如意輪観音坐像は像高36.3cm・総高63.9cmで、宋風彫刻の影響がみられるという。仏像・光背・台座がほとんど当時のまま一具として残る銅造如意輪観音像としては唯一の貴重な作例とされ、昭和49年に茨城県指定重要文化財に指定。現地説明板では、製作時期を14世紀末としている。
写真6:更に奥に進むと、巨大な寺号標がある。この背後に駐車場がある。
写真7:本堂
写真8:鐘楼
写真9:スダジイの巨木。樹高約15m・枝張り約18m・幹周り約6m、推定樹齢約500年。旧北浦村で最大の巨木とされ、昭和48年に行方市指定天然記念物に指定。
写真10:本堂横にある「小幡城跡」石碑。説明文は意味が取りにくいところが多いが、当寺院及び北側にあった「要小学校」(廃校)敷地が、玉造氏から分かれた小幡氏の中世城館跡だったらしい。現在も土塁等が多く残っており、当寺院の鐘楼の土壇は物見櫓跡という(古墳という説もある。)。