伝 源頼朝之墓(でん みなもとのよりとものはか)。通称:頼朝様。
場所:茨城県常総市水海道亀岡町2637(「報国寺」の住所)。茨城県道357号線(谷和原筑西線)「天満町」から北へ約500mで右折(東へ)、約100m。駐車場あり。水海道第一高校の北側。
茨城県常総市の浄土宗「亀岡山 豊田院 報国寺」境内、墓地の中央付近に石造五輪塔が4基並んでいるが、これが鎌倉幕府を開いた征夷大将軍・源頼朝の墓と伝承されてきたものである。「墓」と通称されるが、頼朝は建久10年(1199年)に亡くなり、亡骸は現・神奈川県鎌倉市の「法華堂」(現「白旗神社」)に葬られている(「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」として国史跡に指定。)ことから、これは「供養塔」である。4基のうち、「五輪」すなわち(上から)「空・風・火・水・地」が揃ったものは1基しかないが、「水海道市史 上巻」によれば「報国寺境内の伝頼朝之墓である五輪塔は水輪を欠いている」とあるので、写真1の向かって右端のもののようである。確かに、水輪があれば、4基の中では最も大きいことになるだろう。各輪の高さは、空輪21cm、風輪13cm、火輪30cm、地輪(地表上)26cmとされている。
さて、「供養塔」としても、何故ここにあるのだろう。詳細は不明だが、旧・水海道市周辺には当寺院のほかにも同様のものが3カ所あり、「源様」とか「頼朝御石碑」ともいうらしい。その伝承によれば、頼朝に地頭に補任された報恩のためとか、頼朝が征夷大将軍になってから3ヵ年の間、年貢を減免された恩徳のために建てられた、という。五輪塔は一般に年号等はなく、建立時期は不明だが、これらの五輪塔の中には鎌倉時代まで遡るものがあるのではないか、とされている。
亀岡山 豊田院 報国寺(かめおかさん とよだいん ほうこくじ)。
寺伝によれば、元は真言宗寺院であったが、上総国・下総国・常陸国を中心に布教活動を行った浄土宗第3祖・記主禅師然阿良忠上人が弘安4年(1281年)に浄土宗に改宗して開祖となった。最初、村人らは改宗に応じなかったが、良忠上人が寺の前の沼に飛び込み、竜宮から愛宕貝という土産をもらってきたと示して、改宗させることに成功したという。なお、境内に暦応5年(1342年)銘とされる「梵字光明真言板碑」が現存し、当寺院が元は真言宗であったことの傍証ともされるが、この年号(南北朝時代の北朝のもの)は当寺院開基より61年も後のものになるので、この板碑が他所から持ち込まれたか、あるいは当寺院の開基が寺伝より遅かったか、とも考えられる。当寺院はその後、戦乱により度々諸堂焼失したが、慶安年間(1648~1652年)に9間半×6間半の本堂が再建され、また、寺領15石を拝領した。関東十八檀林の1つ「飯沼弘経寺」(「寿亀山 天樹院 弘経寺」2021年5月29日記事)の末寺筆頭を勤め、当寺院自身も末寺4ヵ寺を有した。なお、現在の本堂は慶応年間(1865~1868年)の再建で、平成7年~9年にかけて解体修理が行われたという。現在は浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来。
茨城県常総市 報国寺のHP
写真1:「伝 源頼朝之墓」。説明板などはなく、当寺院のHPにも触れられていない。
写真2:「報国寺」本堂
写真3:「梵字光明真言板碑」。本堂前の植え込みの中にある。
写真4:「伝 源頼朝之墓」は、本堂前のイチョウの木の背後、奧に見えるシュロの木の前辺りにある。
写真5:鐘楼。こちらのほうが本堂より古いものという。
写真6:弘法大師堂。「新四国 第五十八番 たちよりて されいのどうに やすみつつ ろくじをとなへ きゃうをよむなり(立ち寄りて 作礼の堂に 休みつつ 六字を唱え 経を読むなり)」という額が掛けられているので、四国八十八箇所霊場第58番札所「作礼山 千光院 仙遊寺」(現・愛媛県今治市)の写し。近世~近代には利根川流域地域には多くの大師講があったといわれており、必ずしも真言宗寺院だけでなく、日蓮宗を除く他宗派の寺院も参加していたようである。
写真7:新しい弘法大師堂? 手前に「五十八番 大師堂 新築記念碑」が建てられているのだが...
写真8:多くの石造弘法大師像
写真9:不動堂。中に「不動尊」碑が安置されている。
写真10:何かの講の記念碑と思われる。現・常総市内の浄土宗寺院が第1番~第6番+番外の7ヵ寺の名がある。当寺院は、その第1番になっている。梵字のキリークと阿弥陀如来の名が刻されている。