下君山廃寺跡(しもきみやまはいじあと)。
場所:茨城県稲敷市下君山2521外。国道408号線と茨城県道49号線(江戸崎新利根線)の「松山」交差点から国道を西へ約450m進んだところで、右側道(北側)に入る。約240m進んで右折(北へ)、狭い坂道を約170m上った台地上の右手(東側)に「鹿島神社」参道がある。その反対側(西~北西側)の畑一帯が「下君山廃寺跡」のようだが、何の痕跡もない。西側奥の竹林の中に、「下君山廃寺」の塔心礎とされる巨石があるとのことだが、訪問時には未確認。駐車場なし(「鹿島神社」境内に多少のスペース有り。)。
「常陸国風土記」によれば、「榎浦の津」に古代東海道の常陸国に入って最初の駅家があるとされ、奈良時代には下総国「山方」駅(現・千葉県栄町興津付近が有力。)または「荒海」駅(現・千葉県成田市荒海が遺称地とされる。)から「香取海」を渡海して北上するルートだったと考えられている。このことからすれば、「榎浦津」駅は、現・茨城県稲敷市のどこか、具体的には、江戸崎、柴崎、下君山、羽賀などが候補地となっている。その中で、下君山には8世紀頃の寺院跡とされる「下君山廃寺跡」がある。塔心礎と石製露盤などが残置されているほか、常陸国分寺系の布目瓦片が出土している。また、茨城県歴史館所蔵の銅造誕生釈迦仏立像(8世紀後半頃の推定)は、「下君山廃寺跡」から出土したものとの伝承がある。一方、「木瓜台」という地名(小字)があり、これは「宮裏」が訛ったものではないかということなどから、「信太郡家」推定地ともされる。「信太郡家」は現・茨城県美浦村信太付近とする説があり(「楯縫神社」(2018年3月31日記事)参照。)、「信太郡家」は元は信太にあったが、後に下君山に移動したとも考えられている。更に、「木瓜台」の西側に「長者山」という地名(小字)もあり、焼け米が出土したともいわれ、これは郡家または駅家があった可能性を示唆するものとされる。そして、下君山の北側にあるゴルフ場「江戸崎カントリー俱楽部」の西端から、その先、現在の稲敷市と牛久市の市境がほぼ直線的になっていて、今も狭いながら道路が続いているのが、古代東海道の痕跡であるとされている。また、通説では、平安時代の古代東海道は、「榛谷」駅(現・茨城県龍ケ崎市半田町付近)から更に東(または北東)に進んで、下総国から進んできた奈良時代の古代東海道に接続したのだろうとしている。
蛇足:2021年5月29日の茨城新聞の記事によれば、下君山と松山に跨る稲敷工業団地建設に伴う5遺跡の発掘調査で、山王原遺跡から古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)の竪穴住居22棟や土師器片などが見つかった。これらの住居はいずれも焼け跡で、火災に遭ったか、あるいは移転する際に儀礼の一環で焼き払った可能性がある。また、「長者山遺跡」では「古代東海道」の駅家とみられる施設の発見を受けて、開発を取りやめて現状保存することに決めた、という。記事にはこれ以上の情報はないが、「長者山遺跡」が古代東海道の駅家跡と判断した根拠は何だろう? また、ここに駅家があったとして、それは「榎浦津」駅だろうか、「榛谷」駅だろうか、あるいは記録にない駅だろうか? 更に詳しい調査をお願いしたいところである。
写真1:稲敷市下君山の台地上にある「鹿島神社」鳥居(場所:稲敷市下君山2646)。
写真2:同上、拝殿。社殿は西向きで、東には常陸国一宮「鹿島神宮」があるので、その遥拝所でもあったのだろう(「鹿島神宮」まで直線距離で約32km)。
写真3:同上、本殿。社伝によれば、康平2年(1059年)の創建。祭神:武甕槌命。常陸国では、鹿島神が国土開発の守護神とされる例が多い。なお、当神社の西、約200mのところに「古天皇宮」という高位の人の住居跡があったという伝承があり、祭事をしたうえで調査したところ、土器等が発見されたという。
写真4:「鹿島神社」の西側が「下君山廃寺跡」らしいが、今は畑地。
写真5:「鹿島神社」の向かい側(西側)にある竹林。この中に「下君山廃寺」の塔心礎や露盤があるというのだが、詳しい人の案内がないとたどり着けないと思われる。なお、塔心礎などが元からここにあったかどうかは不明で、かつて台地下の小川の橋石に使われていたとの伝承もあるようだ。
写真6:「下君山廃寺」塔心礎。この写真は「日本の塔婆」HPからお借りした。
写真7:台地下にある「下君山公民館」。元は薬師堂だったという。流石に、これが「下君山廃寺」と関係があるとは言えないのだが、現在、集落は台地の下にしかないことを考えると、もし下君山に駅家があったとすると、それを支える駅戸の集落は台地の下に形成されていたのかもしれない(台地の下の方が湧き水等が得やすいなど、暮らしに便利。)。
写真8:同上、大師堂。元は寺院だった名残りだろうか。
場所:茨城県稲敷市下君山2521外。国道408号線と茨城県道49号線(江戸崎新利根線)の「松山」交差点から国道を西へ約450m進んだところで、右側道(北側)に入る。約240m進んで右折(北へ)、狭い坂道を約170m上った台地上の右手(東側)に「鹿島神社」参道がある。その反対側(西~北西側)の畑一帯が「下君山廃寺跡」のようだが、何の痕跡もない。西側奥の竹林の中に、「下君山廃寺」の塔心礎とされる巨石があるとのことだが、訪問時には未確認。駐車場なし(「鹿島神社」境内に多少のスペース有り。)。
「常陸国風土記」によれば、「榎浦の津」に古代東海道の常陸国に入って最初の駅家があるとされ、奈良時代には下総国「山方」駅(現・千葉県栄町興津付近が有力。)または「荒海」駅(現・千葉県成田市荒海が遺称地とされる。)から「香取海」を渡海して北上するルートだったと考えられている。このことからすれば、「榎浦津」駅は、現・茨城県稲敷市のどこか、具体的には、江戸崎、柴崎、下君山、羽賀などが候補地となっている。その中で、下君山には8世紀頃の寺院跡とされる「下君山廃寺跡」がある。塔心礎と石製露盤などが残置されているほか、常陸国分寺系の布目瓦片が出土している。また、茨城県歴史館所蔵の銅造誕生釈迦仏立像(8世紀後半頃の推定)は、「下君山廃寺跡」から出土したものとの伝承がある。一方、「木瓜台」という地名(小字)があり、これは「宮裏」が訛ったものではないかということなどから、「信太郡家」推定地ともされる。「信太郡家」は現・茨城県美浦村信太付近とする説があり(「楯縫神社」(2018年3月31日記事)参照。)、「信太郡家」は元は信太にあったが、後に下君山に移動したとも考えられている。更に、「木瓜台」の西側に「長者山」という地名(小字)もあり、焼け米が出土したともいわれ、これは郡家または駅家があった可能性を示唆するものとされる。そして、下君山の北側にあるゴルフ場「江戸崎カントリー俱楽部」の西端から、その先、現在の稲敷市と牛久市の市境がほぼ直線的になっていて、今も狭いながら道路が続いているのが、古代東海道の痕跡であるとされている。また、通説では、平安時代の古代東海道は、「榛谷」駅(現・茨城県龍ケ崎市半田町付近)から更に東(または北東)に進んで、下総国から進んできた奈良時代の古代東海道に接続したのだろうとしている。
蛇足:2021年5月29日の茨城新聞の記事によれば、下君山と松山に跨る稲敷工業団地建設に伴う5遺跡の発掘調査で、山王原遺跡から古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)の竪穴住居22棟や土師器片などが見つかった。これらの住居はいずれも焼け跡で、火災に遭ったか、あるいは移転する際に儀礼の一環で焼き払った可能性がある。また、「長者山遺跡」では「古代東海道」の駅家とみられる施設の発見を受けて、開発を取りやめて現状保存することに決めた、という。記事にはこれ以上の情報はないが、「長者山遺跡」が古代東海道の駅家跡と判断した根拠は何だろう? また、ここに駅家があったとして、それは「榎浦津」駅だろうか、「榛谷」駅だろうか、あるいは記録にない駅だろうか? 更に詳しい調査をお願いしたいところである。
写真1:稲敷市下君山の台地上にある「鹿島神社」鳥居(場所:稲敷市下君山2646)。
写真2:同上、拝殿。社殿は西向きで、東には常陸国一宮「鹿島神宮」があるので、その遥拝所でもあったのだろう(「鹿島神宮」まで直線距離で約32km)。
写真3:同上、本殿。社伝によれば、康平2年(1059年)の創建。祭神:武甕槌命。常陸国では、鹿島神が国土開発の守護神とされる例が多い。なお、当神社の西、約200mのところに「古天皇宮」という高位の人の住居跡があったという伝承があり、祭事をしたうえで調査したところ、土器等が発見されたという。
写真4:「鹿島神社」の西側が「下君山廃寺跡」らしいが、今は畑地。
写真5:「鹿島神社」の向かい側(西側)にある竹林。この中に「下君山廃寺」の塔心礎や露盤があるというのだが、詳しい人の案内がないとたどり着けないと思われる。なお、塔心礎などが元からここにあったかどうかは不明で、かつて台地下の小川の橋石に使われていたとの伝承もあるようだ。
写真6:「下君山廃寺」塔心礎。この写真は「日本の塔婆」HPからお借りした。
写真7:台地下にある「下君山公民館」。元は薬師堂だったという。流石に、これが「下君山廃寺」と関係があるとは言えないのだが、現在、集落は台地の下にしかないことを考えると、もし下君山に駅家があったとすると、それを支える駅戸の集落は台地の下に形成されていたのかもしれない(台地の下の方が湧き水等が得やすいなど、暮らしに便利。)。
写真8:同上、大師堂。元は寺院だった名残りだろうか。
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