神が宿るところ

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夜刀神社(常陸国式外社・その17)

2023-04-01 23:35:32 | 神社
夜刀神社(やとじんじゃ)。愛宕神社の境内社「夜刀神社」。
場所:茨城県行方市玉造甲3451-1。国道354号線と茨城県道50号線(水戸神栖線)の「泉北」交差点から、県道を南へ約120m(ホームセンター「コメリ玉造店」がある。)で右折(南西へ)、約500m進んで「行方市泉配水場」の案内板のところを左折(東へ)して、直ぐに右折(南へ)、約250mで二岐に分かれるところで左へ(南~南東へ)、約120mのところで右折(南西へ)、約130m。駐車場有り。文字で書くとわかりにくいが、谷の下へ下へ進む感じ。
「常陸国風土記」行方郡の条に、次のような記述がある。「古老が言うには、第26代・継体天皇の時代に箭括氏麻多智(やはずのうじのまたち)という者がおり、郡家より西の谷の葦原を開墾して新田を作った。その時、夜刀の神たちが群れ来て色々と妨害したため、田を耕すことができなかった(俗に、蛇のことを夜刀の神という。身は蛇のようだが、頭に角がある。・・・郡家の側の野原に多く棲んでいる。)。麻多智は大いに怒り、鎧兜を着け、矛を取って、夜刀の神を打ち殺して追い払った。そして、山の入口の堀に境界を示す柱を立てて、「これより上は神の土地とすることを許す。これより下は人が田を作る場所とする。今後は私が神主になって永く敬い祀るので、どうか祟ったり恨んだりしないようにしてほしい。」と告げ、社を設けて祀り始めた。そして、新田を増やして10町余になり、麻多智の子孫が代々神主を受け継ぎ、今も絶えていない。その後、第36代・孝徳天皇の時代に、壬生連麿(みぶのむらじまろ)がこの谷を治めることになり、池に堤を築いた。そのとき、夜刀の神は、池のほとりの椎の木に登って集まり、なかなか去らなかった。麿は、大声で「堤を築くのは民を活かすためである。どこの天津神か国津神かわからないが、なぜ従わないのか」と叫び、労役の民には「目に見える様々な物や魚・虫の類は、憚り恐れることなく全て打ち殺せ」と命じた。すると、妖しい蛇たちは逃げ隠れた。その池は、今は椎井の池と呼ばれている。」(現代語訳、一部省略)
「夜刀の神」は角のある蛇となっているが、実際は谷津(やつ。低湿地)に住む土着の民で、ヤマト政権側の新田開発を妨害したのを、ヤマト政権側が武力で征圧した話と考えられる。そして、箭括氏麻多智のときには、征圧した後は神として祀り、住む場所を分けている一方、時代が下って、壬生連麿のときになると、皇化を振りかざして脅し、問答無用で追い払っていることが対比されている。なお、壬生連麿は茨城国造として行方郡を建郡したことが「常陸国風土記」に記されているが、箭括氏麻多智の素性は不明で、弓矢や太刀を擬人化した創作上の人物ではないかという説もある。
さて、現在も「椎井の池」とされる場所があり、その湧水の上の台地に「愛宕神社」と「夜刀神社」が鎮座している。元は、現在地の南、約200mの台地の端、字「滝の入」というところにあった「夜刀神社」に、享禄2年(1529年)、常陸大掾氏の一族で玉造城第13代城主・玉造憲幹が京都の「愛宕神社(愛宕大権現)」(現・京都市右京区)から分霊を勧請して合祀し、それ以来、「愛宕神社」と称されるようになった。現在地への遷座は、第2代水戸藩主・徳川光圀によるものという。現在の祭神は、「愛宕神社」が軻遇突知命、「夜刀神社」が夜刀神。


写真1:「椎井の池」。別名「天龍の御手洗」(近くに「天龍寺」という寺院があり、当地を「天龍山」といったらしい。)。鳥居の扁額は「愛宕神社」となっている。


写真2:同上。水源地は玉垣で囲われている。


写真3:池の傍に立つ銅像(宮路久子氏の作)。壬生連麿だろうか。


写真4:今も水が湧いているのがわかる。なお、かつては、湧泉の南側の谷全部が「椎井の池」だったのだろうと思われる。


写真5:「愛宕神社」へは、池の左手から上る。


写真6:「愛宕神社」(通称:天龍山愛宕神社)社殿


写真7:境内の「天龍山愛宕神祠」石碑


写真8:境内社「夜刀神社」鳥居


写真9:社殿(祠)と社号標
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