神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

稲田神社(茨城県笠間市)(常陸国式内社・その8)

2018-07-21 23:51:21 | 神社
稲田神社(いなだじんじゃ)。別名:姫の宮。
場所:茨城県笠間市稲田763。国道50号線「稲田」交差点から南西に約550mのところ(北関東道「笠間西」ICまで4kmの案内標識があるところ)で右斜め(西へ)に入り、約100mで鳥居前。駐車場なし。なお、「稲田」交差点から南西に約350mのところで右折(西へ)して約300m進むと丘の上に上っていく道があり、社殿近くまで行ける。駐車スペース有り。
創建時期は不明。伝承によれば、現社地(宮山)の北西約300mのところに大きな椎(シイ)の木があり、「百枝の椎の木」と呼ばれていた。その木の下に「好井」という泉が湧いており、ある日、若者が水を汲みに来ると、そこに美しい女性が現れた。驚いた若者が主人を連れてくると、その女性は「私は稲田姫である。私は今、ここに降りて、住もうと思う。父母、夫婦の宮を建て、「好井」の水と三田(3枚の田)の稲で酒を作って供えてほしい。」と言われた、という。後に、現社地に遷座されたが、稲田姫が現れた場所には今も「奥の院」(本宮)がある。「延喜式神名帳」に登載された「稻田神社」に比定された式内社(名神大)。ただし、それ以外に「国史」等での記載がなく、神階も不明。なぜ当神社が名神大(社)とされたのかも不明。中世には「本宮」を中心として東西2里・南北2里(各約1km)が社地で、領田は17町(約17ha)あったとされるが、元亀・天正の頃(1570~1593年)兵火に遭って以来衰退し、慶長7年(1602年)に再興されたものの、元緑7年(1694年)に水戸藩第2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)が参拝した折には、その零落ぶりを嘆いたという。なお、社殿は弘化2年(1845年)に再び焼失、嘉永元年(1848年)に再建されている。
現在の祭神は奇稲田姫之命(クシイナダヒメ)で、夫神の素戔嗚尊(スサノオ)を(主)祭神として祀る神社は数多い(「八雲神社」、「八坂神社」、「氷川神社」、「津島神社」、「廣峯神社」、「須賀神社」など)が、稲田姫を祀るのは珍しいだろう。どういう経緯があったのかは不明だが、祀ったのは出雲出身の一族だろう。当地が属した古代「新治郡」は「新治国造」が治めており、「常陸国風土記」では「比奈良珠命(ヒナラス)」を新治国造の祖とする記述があり、また「先代旧事本紀」では「美都呂岐命(ミツロキ)」の子の「比奈羅布命(ヒナラフ)」が初代「新治国造」に任命されたとしている。そして、「美都呂岐命」は「天穂日命」の八世孫であるとされるので、「出雲国造」と同祖であるという。ということで、当神社は「新治国造」が奉斎した神社であろうといわれている。
蛇足ながら、笠間市稲田地区は「稲田石」と呼ばれる花崗岩(所謂「御影石」)の産地で、白く美しい石材は国会議事堂やJR東京駅などにも大量に使用されている。花崗岩地帯の湧き水はミネラルや有機物を殆ど含まないため美味しい水になるといわれているところから、当地に素戔嗚尊ではなく、稲田姫が祀られたのは、水、米、酒といった柔らかなイメージからではなかったかと思う。


茨城県神社庁のHPから(稲田神社)


写真1:「稲田神社」境内入口の鳥居と社号標「縣社 稻田神社」


写真2:石段脇の社号標に「延喜式内 名神大社 稲田神社」とある。


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:境内社「八雲神社」(夫神・素戔嗚尊)


写真6:脚摩乳神社(父神・脚摩乳命(アシナヅチ))


写真7:手摩乳神社(母神・手摩乳命(テナヅチ))


写真8:「奥の院」入口。向かって右側が「好井」、(写真に入っていないが)左側に小さな田圃がある。現社地から北の道を下り、そのまま北へ約160m進んだところで左折(西へ)、突き当り。


写真9:「奥の院」(本宮)


写真10:「太鼓石(太古石)」。ここに稲田姫が降臨したという磐座。
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