内環まで行き過ぎて再び戻った。補修工事の網に覆われて建物が見えにくくなっていたのだ。ピンずれを疑ったが、実際は正確にピンは立っていた。オートロックを開けてもらいエレベーターに乗ってお客様の部屋の前まできた。
(玄関先で受け渡し)
インターホンを押して商品を両手で渡せるように準備する。しばらくしてもお客様は出てこなかった。自分の感覚では即座に出てくるのが普通だと思っていたが、配達を重ねる内に決してそんことはないのだとわかった。広い家では自分のいる部屋から玄関まで距離もあるだろう。部屋で仕事中の人はそれなりの段取りもあるだろう。洗濯物を取り込んでいる人もいるだろうし、子供が駄々をこねている場合だってある。過去にはいかにも風呂上がりだというように裸で現れる人もいた。
1分待っても出てこないと少し不安になる。アプリを開いて置き配でないことを確認する。もしかして部屋を間違えている? 時々マンションを隣と間違えてしまうことはあった。その場合は応答がなくてエントランスで気づくということが多かった。部屋の前まで来ているのでそれはない。ドアの上の部屋番号を何度も見た。やはり合っている。もう一度鳴らしてみる。誰も出てこない。
「904でお間違いなかったでしょうか?」
念のためにメッセージを送るが返信はない。
ドアの前で待ちかまえたまま3分が経過した。
おかしいな……。
部屋の前までたどり着いて僕は迷子になった。
(僕はここで何をしているのだろう)
突然、あふれそうになるほど自分が押し寄せてきた。
もっと歌いたい。もっと書きたい。もっと運びたい。もっと叶えたい。もっと指したい。もっと組み立てたい。もっと泳ぎたい。もっとひっくり返したい。今からでも間に合う? どうして? とても追いつけやしない。この時間はいったい何? 誰のための時間? 実現するにはもっと大勢の自分が必要だ。何人も何人も自分が存在していたら……。
友に裏切られても平気。魂が滅んでも平気。夢が叶わなくても平気。蔑まれても平気。無視されても平気。上手く運ばなくても平気。大切なものをドブに捨てても平気。ひとりではとても抱え切れないのに、神さまはどうして僕をひとりにしておいたのだろう。
ドアに背を向けて見知らぬ街の雲をみた。
この壁を飛び越えたら、異世界へと旅立てるだろうか……。
(ああ、色んな人がいた)
階段を駆け下りてハイツから出てきた人。エレベーターが開くと、こんにちはと言ってくれた親子。歩道まで出て待っていてくれた人。エレベーターが開くとドアを開けて待っていてくれた人。助かりましたと言いながらあとから驚きのチップをくれた人。さよならと笑顔で手を振ってくれた子供。人は色々だから。いつか出会った清々しい人たちに恥じないような生き方をしなければ。
あの優しい人たちに言い残したことが、もっとある。
正面に向き直ると指を伸ばした。
(最後にもう一度)
4回目のベルを鳴らして、今度も駄目ならもうここに置いて行こう。
ガチャ♪
その時、ドアが開いて女性が出てきた。
「ごめんなさい」
女は耳にスマホを当てていた。
「お待たせいたしました!」
そうか。そういうことか。
ずっと電話に夢中だったんだね。
忙しい人もいるものだ。
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