「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

西武七里ガ浜住宅地の住民協定(4)

2008-04-20 04:51:10 | 環境・土地
(画像はCotswold-Gallery(UK)から頂いた)

次になぜこうした問題が頻発するかを考えたい。これは我が住宅地固有の問題ではなく、日本国内に広く見られるものであろう。つまり住宅環境に関する国民的感度の低さ、あるいはそうならざるを得なかった歴史に起因するのではないだろうか。私は概ね次の3つの原因があると思っている。

①短い住宅の建替えサイクル
②壊滅状態にある独自の住宅建築様式
③希薄な「景観の公共性」という概念

今回はこのうち最初の2つだけについて書いてみたい。

①短い住宅の建替えサイクル
我が国の住宅は次々と壊されて建替えられてしまう。確かに高度成長期に建てられた一般の住宅など、今見るとあまりに低質なデザインかつ素材感覚のモノが多い。木造でも鉄筋コンクリート製でもだ。ではすべての住宅がそうかというと、そうではない。江戸時代の豪農の木造家屋の中には今も立派に残っていて、ますます貫禄というか、歴史の重みを感じさせたりする建物がある。ということは方法(素材選びと美的センスとその後のメンテナンス)さえ間違えなければ、日本の住宅ももっと長く使われるだけの価値あるモノになるのだろう。ところが実際にはどんどん建替えられ、築40年の住宅が売却されその後50年使われました、などという話はほとんど聞かない。

②壊滅状態にある独自の住宅建築様式
おまけに我が国は少数の巨大ハウス・メーカーが住宅市場のかなりのシェアを握るという変わった国である。そうしたメーカーはクルマ等工業製品の如く住宅の新モデルを発表する。「●●モデル-A」とか「▲▲シリーズ-II」などと、スタイルや構法の違い(実は根本的には同じ)を強調して、次々に最新スタイルの「製品を発売」する。独立系工務店も後からそれについて行く感じだ。設計事務所は最近がんばっているが、なんとも自分勝手なフォルムを強調したデザインが多い。今となっては何が本来あるべき建築様式かわからず、我が国それぞれの地方に存在したはずの古典的なスタイルの建築を施主が求めようとすると、かなり高額な出費を迫られる。結局古い家並みを維持しようというカルチャーは消え失せ、全く異なる様式の住宅が隣り合って次々と建って行き、さらにそれがまた別のものに建替えられて行くというのが、我が国の多くの住宅街の混迷した状況である。

こうして我々は我々を取り巻く景色がどんどん変化することに慣らされて行く。その変化が周囲の現況と対比していかに突飛なものであろうと、以前と歴史的つながりを持たないものであろうと、整然とした分譲地においてある1区画が分割され景観のリズムが損なわれようと、緑が無くなろうと、平気になってしまうのである。

上に掲げた画像をご覧頂きたい。最近日本でも人気のイングランド・コッツウォルズ地方の景色である。何もコッツウォルズ地方だけではない。彼の国ではこうした風景が都心から少し離れるだけで当たり前のように見られる。こうした所で家を壊して2軒の家にしたり、例え1軒でも全く異なる様式の家を建てることは、どちらも犯罪に等しい。もっともそうしたことは起こらないのである。行政がちゃんとしていて、法的に許されないからだ。日本で道路沿いによく見られるように、カーポートとして屋根と支柱をつくることや、スチール製の物置を置くことすら許されないだろう。

世紀をまたいで何年経っても同じ景色、隣家と違和感無く溶け合う家並みが保たれる。単なる建築物が、石や木等の自然物に近くなる長い長いプロセスである。しかし古いまま放ったらかしかと言うとそうではなく、きちんとメンテナンスされている。東西南北の方角とは無関係に、どの家も道路を向いてデザインを整えてあり、前庭も世話が行き届く。電柱とそこからたくさんぶら下がる電線はないし、コンクリートで固めて駐車場と建物に出入りするための通路だけが並ぶという風景もないのである。そもそも建物に年月が醸し出す風情がある。こうしたところに暮らせば、自ずと考え方も違って来るらしい。やはり民度と歴史と行政に違いがあるようだ。

こういうことを私が言うと「日本は地価が高いから仕方が無いのだ」という人がいまだにいるが、その人には考えを改めてもらわねばならない。日本が停滞し地価が20年間下がり続けている間に、彼の国は経済がV字型に回復して1人当りGDPは日本を抜き、地価はほぼ上がり続けていまや逆転している。インターネットで、ド田舎であるコッツウォルズ地方の不動産価格を調べてみれば、驚かれることであろう。それでもここまで環境が保たれることに我々は敬意を払い、ものの考え方や制度を見習うべきだろう。
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6 コメント

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Unknown ()
2008-04-20 05:22:01
ぼくの大阪の家でも、たしか建築協定はあったはずですが、たしか期間限定だったような気がします。(一定期間に開発分譲した新興住宅地)
日本は、最近特に、思いやる心が廃れて、エゴばかりが強くなってきていますね。そうした人はごくわずかなんだけど、それを押さえ込むには相当なエネルギーがいる。で、みんな諦めて、黙認してしまう。
都会に住んでいると特にそれを感じます。
返信する
Unknown (管理人)
2008-04-20 08:01:06
舘さん、おはようございます。
朝早くから目が覚めて、ブログ更新をし、
犬の散歩もしました。まだ8時。
これから寝ようかと思っています。

当自治会も大変です。
業者や住民のエゴと戦わねばなりません。
私は自治会理事ではないので、その苦労は
背負っていませんが・・・。
返信する
Unknown (takagi)
2008-04-21 17:41:06
沼間住宅地では住民協定違反がゼロという情報は、やはりおちゃさんからだったのですね。
10年以上のむかし、鎌倉山側の斜面を造成する計画が持ち上がり大さわぎとなりました。資金を出しているとのことで厚木ナイロンも非難され、大規模な反対運動が展開されましたが、鎌倉市が認可した計画は撤回されることなく、七里ガ浜ダムと揶揄された巨大コンクリートの擁壁が出現し、10数戸の住宅地が造成されました。今では何事もなかったかのように住宅が建ち並んでいます。これを契機に鎌倉山側斜面の造成が加速されました。さらに土地の再分割もおおっぴらに行われるようになりました。野村のセールスによると、最近の戸建てを希望する若い世代は経済的事情に加えて、2台置ける駐車スペーズがあれば庭は必要としないそうです。ますます緑がすくなくなり、住宅が建て込むわけです。協定とは名ばかり、無力です。宝塚市のようにまちづくりの条例ができれば効果があるのでしょうが、行政(鎌倉市)にはその気はないです。世界遺産登録推進に関連する環境整備だけに関心があるようです。

95年以降毎年ヨーロッパアルプスを訪れ、町や村に滞在してきましたが、どの風景を切り取っても絵になるのに、日本では山の中を除いてカメラを向ける気になれません。コンクリートの電信柱、はりめぐらされた電線、絶え間ない道路標識と信号機、種々雑多の建物のかたち・色そして看板、郊外にあってはコンクリートで固められた護岸、堰堤、延々と続くガードレール。経済発展を優先させた結果、人々の暮らしが豊かになった反面、地方ごとの固有の景観は失われましたが、大方の人は気にならないようです。
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Unknown (管理人)
2008-04-22 07:38:56
takagiさん、こんにちは

正確には沼間住宅地は協定ではなく、すでに地区
計画になって法律に順ずるものに代わりました。
分譲開始から協定がありましたが、協定破りの取引
が成立せず、あまり家族構成など変化がない間に、
分譲開始後10年以内に地区計画に昇格させてしまっ
たので、その後は当然ながら基準を満たさない
土地分割、工事はありません。

我が七里ガ浜はあまりに長い間放置され、年月が
流れ状況が変わり、協定破りの取引が黙認された
ので、かなり厳しいですね。

おっしゃるとおり日本は景観後進国。アレックス・
カーによれば「日本人は見たくないものを見えない
ものとして扱える天才」のようです。電線も
看板も見えない気持ちになれる特異な才能が
民族的に備わっているらしい。
返信する
耐用年数 (七里ヶ浜N)
2008-05-01 10:20:33
現状の耐用年数は物理的な耐用年数とは異なり、生活の変化に耐えられなくなった時をもって寿命がきたとされているような気がします。
アメリカの話で恐縮ですが築70年、80年の木造住宅はざらです、こう言うと日本は湿気が高いから無理とハウスメーカーの担当者は異口同音に言いますが、フロリダの湿地帯の湿気は半端じゃないそうですし、シリコンバレーでも雨が1週間降り続くことはそう珍しくはありません、それでも耐用年数は桁が違います。
生活に合わなくなったときに、住み替えることが一般的になればまた違った展開になるとは思われませんか。
農耕民族は土地にへばりつき一度住んだら死ぬまでここを離れない(言い過ぎですか)DNAの問題のような気がします。一生に一度のことだから自分の思うようにしたい、回りは回し、私はわたし。
分割が進み古い家を重機で叩き壊し、近県の里山を産業廃棄物で埋め尽くしても土地に執着し一戸建て願望はとどまる所を知りませんし、まわりの環境などは売ってしまえばどうでも良い業者を育てているのは我々自身だと思いませんか。
長々と勝手なことばかり言ってすみません。
返信する
Unknown (管理人)
2008-05-01 17:36:06
七里ガ浜Nさん、初めまして。

>長々と勝手なことばかり言ってすみません

いいえ、ぜんぜん。そのとおりです。
もっと「住み替え」が進めば、世の中で家の保持が
進みますよね。きっと。どんな構法だって、そして
日本だってちゃんと建ててちゃんと使えばもっと
住宅は持つはず。アメリカでは高温多湿なマイアミ
も、そしてハワイも、そして冷涼なアラスカも、
住宅はほとんどツーバーフォー。そしてそれが
日本より遙かに長い期間利用される。日本の在来構法
だってもっと長く使えるはずです。

考えてみると「耐用年数の短さ」は必ずしも
多くの建物に当てはまるわけではありませんね。
単に「建替えサイクルの短さ」と書くべきだった
と思います。アドバイス有難うございます。
文章を書き換えてみます。

ただ「耐用年数の短さ」同様、「生活の変化」も
建替える言い訳にされちゃっているような気がします。
「生活の変化」があっても構造的にも美的にも
きちんと建てられた家は、施主がなんとか保持した
いと考えるでしょう。あるいはそれを本当に売らな
ければならなくなった時、中古で買い取った人が
なんとか保持したいと考えるのではないでしょうか。

ところが、それをするに値する家、しっかり建てら
れた家が少ないから、一挙に建替えになるのでは。

息子がオトナになっても同居するとか「二世帯住宅」
などという形態、概念が遙かに希薄、あるいは存在
しない欧米の方が本当は「生活の変化」は激しいは
ず。しかしそうした「生活の変化」にもかかわらず
欧米の方が住宅の耐用年数が長く、「生活の変化」
が相対的に少ない日本の方が早く住宅が建替えられる。日本の「生活の変化」はやはり建替えの言い訳。

つまり「耐用年数の短さ」が言い訳なら、
「生活の変化」も言い訳で、本当の理由は
ずっと使うにはつまらない、あるいはあまりに
ちゃちだから。

理由はいかにせよ、スクラップ・アンド・
ビルドは皆我々の文化に規定されていますね。
顧客あっての業者であり、おっしゃるとおり、
業者は顧客の思考を反映しています。
そうした業者を育てているのは施主ですね。
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