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協定違反が頻発する背景について、前回私は3つのポイントを挙げたが、そのうち最後のものは書けず終いである。それについてここで説明したい。それは、我々が「景観の公共性」という概念をあまり持ち合わせていないということだ。
以前このブログで英国のチャールズ皇太子の著書「A Vision of Britain」を紹介した。大胆に意訳してしまえば、全編に流れるその主張はおおよそこんな内容だ。『建物は周囲の建物や環境と調和することが大事である。建物が高さ、様式、デザイン、材質、色彩等においてその調和を失うと、周囲の景観は品格を失う。歴史的連続性や伝統を失うと、建物はその魂を失う』
前回このブログで掲げた画像にあるコッツウォルズ地方の家々の風景は、正にこのチャールズ皇太子の主張を体現しているかのようである。街でも郊外の住宅地でも、ある建物はそれひとつだけで存在しているのではなく、周囲の建物を含む近隣の環境と溶け合って大きなひとつの景観を形成している。生活環境という意味でも、経済的資産としても、ある住民が所有する土地建物とその近隣住民の土地建物は、相互に大きな影響を及ぼしあう関係にある。
然るに日本では、自分の土地をどうしようがそれは土地所有者の自由であるとの考え方が支配的だ。「土地を分割して売却しようが、そこにどんな建物をいくつ建てようが私の勝手だろう!」という傲慢な主張が当然の如くなされるのである。行政もそれを是認している。これは先進国では今や稀に見る野蛮な発想であり、我が国の街や郊外の住宅地の景観が、いつまで経っても三流に留まっていることの原因のひとつとなっている。
たいていの人は自分の土地建物を、自分の生活環境および経済的資産としてかけがえの無いものと考えているであろう。常識的な人なら「自分がもしそう考えるならば近隣の他の住民もそう考えているはずだ」ということに思い至るはずである。景観の公共性、つまり景観における自他の相互作用を慎重に考慮して、我々は行動すべきではないだろうか。ましてや当住宅地は多くの住宅が近接して建ち並んでいるのであり、さらには住民全員が守るべきルールとして住民協定まであるのだ。簡単に「自分の土地だから」と好き勝手なやり方で売却など行うべきでないことを我々住民は理解せねばなるまい。「全体から見れば小さなこと。事情があるんだから、協定には反するがこの土地は私の好きにさせてくれ」といった言い訳が許されるものではない。
京都タワーもできるときには、いろいろ議論紛糾しましたね。
おはようございます。携帯からです。
今日はこれから水戸に行きます。
楳図かずおというと、最近では都内のご自宅が
有名ですが、原村の山荘では前からもめてましたね。
最近は来荘されておられないようですが、
赤と白のストライプ山荘は健在です。
京都と言えば最近は京都駅。外国人観光客が驚き
怒ってます。賛否両論でしたが、私は反対です。
アレックス・カーの「犬と鬼」ではないですが、
あれはちょっとひどいと思います。
美ヶ原の上の建築物なども、外国人には驚きのよう
ですね。国立マンション景観論争なんてものもありましたね。
敷地内に入ることが可能だったのでは(自信が
ない)。きっとそれも含めて世界遺産になるで
しょう。グローバルに見てインパクトは落ちた
が、今も世界のノミューラだから。