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照る日曇る日第705回
漱石、漱石と関連した英米文学、鷗外、紅葉、荷風、白鳥、潤一郎、菊池寛、里見、かの子、春夫、寒村、基次郎を縦横無尽に論じ来たり、論じ去った著者会心の文学評論集で、どこを開いても著者の博覧強記と才気渙発に驚かされ、啓発されないページが皆無という素晴らしい書物ですが、やはり冒頭におかれた夏目漱石論がいちばん面白いでしょう。
私はご多分にもれずこの国民的作家が大好きですが、それは「夢十夜」「吾輩は猫である」「坊つちゃん」「三四郎」「彼岸過迄」が大好きだからで、そのほかにも有名な作品があるようですが、別に面白くもなんともない。
なくっても一向に構わないと思っているので、著者が「猫」と「坊つちゃん」と「三四郎」を漱石が英国留学当時に際会したヴィクトリア朝写実主義からモダニズム文学への大転回から学んだ高級な喜劇小説、社会風俗小説と位置付けて高く評価しているのには瞠目させられました。
プルーストより4歳上、ジョイスより15歳上の男は、東京に帰って数年後、プルーストやジョイスに先んじてモダニズム小説を書いたとわたしには見えます。(「忘れられない小説のために」より引用)、
というのが丸谷才一選手の基本的な漱石観ざんす。
まあ別に博識無双の英文学者から当時の世界モダニズム文学の最先端などとレッテルを貼って貰わなくとも、あれくらい読んで痛快無比、胸がワクワクさせられる小説は今に至ってもざらにないのですけれど、著者がわが偏愛の「彼岸過迄」のモーツアルト的な軽やかさと悲しみと無常感を無視して通り過ぎているのはまことに残念でした。
ところで最近朝日新聞は、現代作家の連載小説のあまりの不毛に嫌気がさしたのか(宮部みゆきの「荒神」の下らなさを見よ!)突如漱石の「こゝろ」の原作通りのリピートを始めたのには驚きました。(どうせやるなら「彼岸過迄」にして欲しかった。)
この「こゝろ」では乃木将軍が明治天皇に殉死したことを知った「先生」が「明治の精神」に殉死するわけですが、この不自然で唐突な結末に違和感を覚えた著者は、「徴兵忌避者としての漱石」に新しい光を当てる。
学生時代に北海道に「送籍」して日清・日露戦争の徴兵を逃れた漱石は、その後もつねに良心の呵責を覚え、それが松山落ちや熊本やロンドン時代の神経衰弱に繋がり、やがて漱石は、徴兵忌避という国民的裏切りを告白する代わりに、親友の妻と過ちを犯すという別の種類の裏切りを犯した男が、それを告白するという虚構のカタルシスを求めるようになり、その世間の目からは隠された舞台が「こゝろ」であったというのです。
漱石にとって、乃木将軍の自刃は明治天皇への殉死ではなく、二〇三高地に斃れた若き兵士たちへの殉死そのものであった。
「Kのような」同世代の若者への裏切りと、馴染みの友である明治国家への裏切りを自己処罰するために書かれたかもしれない漱石の痛苦と不気味な緊迫感に満ちた「こゝろ」を、著者の創見を鏡としながら改めて通読してみるのも一興ではないでしょうか。
なにゆえにbababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonntuonntyunntrovawnskawntoohoohoordenthurnuk!が雷の音なの19字目に「雷ゴロゴロ」と書いてあるでしょ 蝶人