
○スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」をみて
前半は鬼軍曹にしごかれる新兵たち、後半はベトナムに送り込まれた彼らが戦争の本当の悲惨さに直面する話に分かれている。
前半のような光景はこれまで何回も映画化されてきたが、ここでは私のようにもっとも軍隊や訓練にもっとも不向きで不器用な男が、あまりにも非人間的な抑圧に耐えきれず、逆上して軍曹を銃殺してしまうところを描いている。
このようないじめと悲劇は、わが帝国軍隊でも同じように、いなもっと陰惨なかたちで繰り返されてきたに違いない。
後半でも死ぬ必要もない若い命が、大義なき戦争のただ中でまるでむしけらのように死んでゆく。
遠からずわが国でも始まる新しい戦争においても、ここでキューブリックが描いたと同じ地獄が再現されていくのだろう。
○サム・ペキンパー監督の「戦争のはらわた」を読んで
第2次大戦末期のドイツ軍の最前線で繰り広げられる壮絶な戦いの裏の人間ドラマを描いているが、ラストの演出の切れ味が鋭い。
裏切られた卑劣な宿敵を殺しておわりかと思えたが、それでは勧善懲悪の仇討ちになってしまう。そこでペキンパーが考えたのは、怨執念恩讐を超えて死んだつもりでソ連軍に突撃してドイツ魂を見せつけようということだったが、考えてみればなんのことはないお馴染みのわが特攻隊の絶望的蛮勇の精神世界ではないか。
されどその時早く、かの時遅く鳴り渡る「蝶々蝶々菜の葉にとまれ」の童歌が惨劇を喜劇に転化する。この手法って黒澤の「八月の狂詩曲」に似ていなくもない。
かくなるうえは「あの人まだ生きているの」と言われるほどの意地悪爺になってやる 蝶人