照る日曇る日第825回
この本は著者が初めて書いた「自伝的なエッセイ」です。
いちおう小説家を志望する若者たちへの小規模な座談というスタイルをとっていますが、その中には著者がどのようにして突然小説を書こうと思い立ったのか、「ど素人」の青年が、どうやって処女作以下の作品を35年にもわたって書きついでいくことができたのか、などの「創作の秘密」を、彼の半生共々率直に述べていて共感を呼びます。
特に印象的なのは、彼の処女作「風の歌を聴け」が「何も書くことがないということを書くしかない」と決意し、「何も書くことがない」ということを武器にして書かれた、と語られていることですが、
もっと興味深いのは国内でバッシングを受けたあと、バブルに踊る混濁の故国を投げ捨てて米国に渡り、一新人作家としてNYの文学界にデビューし、国際的作家、世界作家へと飛躍を遂げていくくだりで、
これを読んでいると、「快男児、♪男一匹海を渡るー」というような浪花節が口をついて出てきて、なぜか胸がキュンと鳴ってしまいます。明治以来自作が本国で売れなくても海外で売れるように徒手空拳で努力した日本人作家が一人でもいたでしょうか。
ところで、村上春樹の小説を嫌う人は、それを好む私のような人間と同じくらい多くて、その理由を尋ねると、「文体や内容が軽佻浮薄」というのが多いようです。これほど独創的な文章を書く作家は、ざらにはいないのにね。
しかし本書で著者がいうように、小説、そして現実の世界においても、「木が沈み、石が浮く」という逆転現象がしばしば起こります。
既成の純文学作家の重厚長大風の格調高い文体が、次々に生起する現実とパラダイムの転換にいつの間にかついていけなくなったり、「一般に軽いと見做されていた語り口が、時間の経過とともに無視できない重さを獲得する」ことも往々にしてある例を、私たちは著者や保坂和志などの小説のなかに見出すことができるでしょう。
彼らの小説はセロニアス・モンクやグレン・グールドの音楽のような普遍的なオリジナリティに輝きながら、1個の重い石のように川の上を流れています。
木が沈み石が浮きグレン・グールドのように叫ぶ日がやって来た 蝶人