音楽千夜一夜第350回

一聴すればたちまち分かるように、これまでのどんなピアニストのどんな演奏とも鋭く一線を画する恐るべき音楽が鳴っている。
内田光子は死んだシューベルトの霊を呼び出し、彼になりかわって白鳥の歌をうたい、鎮魂の真心を捧げているのである。批評家がなんといおうとも、恐らくこれまでの彼女の最高傑作ではないだろうか。
ではどのようにしてこのような、もはや音楽にして音楽を逸脱したような異様なまでに我らの心に迫る演奏が生まれたのであろうか?
内田選手のライナーノートによれば、彼女とフィリップスの有名なプロデューサー、エリック・スミスは、ウィーンの楽友協会ホールにおけるD894のト長調のピアノソナタを皮切りに、まずシューベルトのソナタ全曲を録音しようと固い約束を交わしていたそうだ。
ところ幸か不幸かがちょうどその時、空前のモーツアルト・ブームが訪れ、彼らはおよそ12年の歳月をかけてモザールのソナタや協奏曲の録音に取り組むことになったという。
ところがその間にエリック・スミスは引退し、あまつさえフィリップスが倒産して旧敵デッカに併呑されることになった。
しかしシューベルトの音楽について彼と肝胆相照らした内田光子の決意は変らなかった。彼女はエリック・スミスをデッカに呼び戻し、懐かしのヴィーナー・ムジークフェラインで、この見事な歴史的録音を完成させたのである。
シューベルトの「未完成」を聴きながら思うことどんな生も完成している 蝶人