照る日曇る日 第2169回
例の「皿皿皿皿皿…」で始まる、皿を番町皿屋敷のやうに延々と繰り返す作品で有名な、所謂一人のダダ詩人の詩集を読んでみましたが、この人のどこがダダなのかタダタダ分からんかった。
ダダを無意味と訳すならば、彼は『無意味』というけっこう長い詩も書いているが、それは「無意味」について自問自答するていのものであって、そこでの彼は詩人というより一個の哲学者、というて悪ければ思索者というべきだろう。
「夜が更けたことに何の意味があろう/人が死ぬことに何の意味があろう/雪が降ることに何の意味があろう」
と問いかけ、
「一切の事実は無意味である/生きている事も又無意味である/無意味ではあるが面白いと言うのであるか/面白い事は事実であろう/一切の事実は無意味である」
とたたみかけられても、こちとらは「ああ、そうですか」くらいしか挨拶できないが、彼と仲良しだったとかいう中原中也は、この長くて退屈な寿限無寿限無の中から「無意味ではあるが面白いと言うのであるか/面白い事は事実であろう」
というようなところだけを、彼の作品の絶妙なスパイス代わりに巧みに取りこんでいるのはさすがである。
高橋新吉の高橋選手らしい詩というのは、例えば
「何事も知らぬにこした事はない/知らぬが仏とはよく言ったものだ/何事も知らないことが 最上の智慧である」という『知らぬが仏』とか、
「世の中が変化せん と見るのも間違っている/変化すると見るのも間違っている」という『変化』というような、いささか抹香臭い悟達の箴言詩であるが、そんなものより余は
「しずかに雲が流れている/川の底に/白い雲の上を/魚が泳いでいる」
という2行詩の『雲』のほうが、ずっと簡素で好きだ。
10時間を超える会見で1度しかトイレに行かずに堪える人は偉い 蝶人