きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

広島の原爆ドームに行ってきました 2009年11月20日

2009-11-23 20:29:49 | 写真撮影(県外)
広島大学病院の眼科検診に行ったついでに、原爆ドームを見に行った
【11月20日】

原爆ドーム_01

原爆ドーム_03

原爆ドーム_04
原爆ドームです。世界遺産に指定されています。
人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)に基づき世界遺産一覧表に記載された
1996年12月7日 広島市


原爆ドーム見学
原爆ドームの説明文を熱心に読んでいる観光客の方々です。

原爆ドームの解説_03広島県物産陳列館

 原爆ドームのもとの建物は、チェコ人の建築家ヤン・レッルの設計により1915年4月に広島県物産陳列館として完工し、特色ある緑色のドームによって市民にしたしまれていました。
 館は、県物産の展示・即売、商工業に関する調査・相談などを業務としていましたが、美術展や博覧会など文化事業にも利用されました。
 その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、業務の拡大がはかられてきましたが、戦争の長期化・激化とともに業務が縮小され、戦争末期の1944年4月から、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社など官公庁等の事務所として使用された。


原爆ドームの解説_04原爆ドームへ

 1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機が、人類史上最初の原子爆弾を投下しました。原爆は、広島県産業奨励館の南東約160メートル地上の上空約600メートルで炸裂し、建物は大破・全焼、館内にいた全員が即死しました。
 しかし、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、建物の壁の一部は倒壊を免れ、最上部に残った鉄骨により円蓋をもつ建物であったことがわかる程度の残骸となりました。
 戦後、広島産業奨励館の残骸は、最上部の円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から、原爆ドームと呼ばれるようになりました。


原爆ドームの解説_05保存への取り組み

 原爆ドームについては、当初、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考えがありました。
 しかし、市街地が復興し、被爆建物が姿を消していく中で、保存を求める声は次第に高まりを見せ、1966年、広島市議会が原爆ドームの保存を決議しました。これを踏まえて、保存工事のための募金運動が行われ、国の内外の平和を願う人々の寄金により1967年、第1回目の保存工事が行われました。
 その後も、数回の保存工事が行われ、原爆ドームは被爆当時の姿を今に伝えています。


原爆ドームの解説_06世界遺産への登録

 1996年12月、原爆ドームは、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として、世界遺産に登録されました。
 また、原爆ドーム周辺は文化財保護法による国の史跡に指定されるとともに、平和記念公園周辺を含む区域に緩衝地帯(バッファーゾーン)が設定され、原爆ドームの保護が図られています。


元安川と原爆ドーム_01

元安川

元安川沿いの紅葉がとてもきれいでした。透き通るような青い空に原爆ドームが建っていました。

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