きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

沖縄人民党合流50年⑧ 不屈のたたかい継ぐ

2023-11-12 07:04:23 | 平和・憲法・歴史問題について
沖縄人民党合流50年⑧ 不屈のたたかい継ぐ

沖縄人民党のたたかいがつくってきたものをどう引き継いでいくかー。連載の終わりに日本共産党の若手地方議員で、県議のしまぶく恵祐さん(37)、読谷(よみたん)村議の城間真弓さん(45)、豊見城(とみぐすく)市議の新垣龍治さん(46)に語ってもらいました。


沖縄県議・しまぶく恵祐さん


読谷村議・城間真弓さん


豊晃城市議・新垣龍治さん

保守・革新超え
―もともと沖縄人民党にどんなイメージを持っていましたか。
しまぶく 人民党の存在はもちろん知っていたし、祖国復帰運動などで瀬長亀次郎さんがリーダーだったことは聞いていました。父方の祖父は、自民党議員の後援会長をやるぐらい保守の人だったそうですが、「亀次郎さんは本当に沖縄のことを考えている人だよ」と、生前語っていたと父から聞きました。
城間 読谷にも亀次郎さんが来たとき、人民党と思われたくない人もみんな離れた場所で演説を聞きに行っていたという話を家族から聞きました。亀次郎党を勝手につくりたい、私も読谷のかめさんと呼ばれたいなと思っていたぐらい。(笑)
新垣 共産党に入党したあと学習などで功績などを聞いて、やっぱりすごいことをした人なんだなと。数年前に公開されたドキュメンタリー映画は反響があり、年上の先輩たちで自民党寄りの人でも「亀次郎すごいね」と言っていましたね。

―人民党のここがすごいと思うところは。
しまぶく 「沖縄70万の人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を超えてワシントン政府まで動かすことができます」という亀次郎さんの演説があるように、県民を奮い立たせる、そこがすごかったんだと思いますね。同時に亀次郎さん一人で物事を決めていないんだよということを古堅実吉さん(共産党元衆院議員)から教わりました。
立法院議員が米国に宣誓させられる中で、亀次郎さんが一人だけ拒否したことが象徴的に取り上げられますけど。
これは人民党の常任中央委員会で議論し、拒否すると決めたことが『沖縄人民党の歴史』にも書いてある。
新垣 私も古堅実吉さんが、人民党あっての亀次郎を強調していたことを覚えています。党で議論した方針の中で動いた亀次郎さんがすごいと思います。
城間 辺野古新基地建設反対の保守も革新も超えたたたかいって、そのルーツは亀次郎さんたちがあの時代、不屈に頑張って体現したものにあるんじゃないか。県民を奮い立たせるということでは、一人ひとりが政治を変える力を持っているという原点を亀次郎さんのたたかいの中から感じました。

主体的に楽しく
―人民党のたたかいから引き継がれるものを、どう生かしていったらと考えますか。
新垣 1995年の少女暴行事件の抗議集会に8万5千人が集まり、米軍普天間基地の返還の動きにつながっていきました。大切なのはあきらめないこと。課題は、基地にあまり抵抗がない若い世代にどう伝えていくか。SNSもどんどん活用していかなければと思います。
城間 若い人たちは基地問題で争っている構造をすごく嫌がるので、入り口を変えていく。いま学費が高いよね、物価や食費もガソリンも高いよねと。非正規雇用の問題、どこを切り取ってもみんな苦しいのに政府は辺野古や戦争のために予算を使おうとしている。どれだけ若い世代の困っている声を聞き、発信して力に変えていけるかどうかだと思う。
しまぶく 日本民主青年同盟のパンフで日本と他国の大学の入学金の比較があって、日本では100万円近く取られるけどフランスでは2万7千円。学生たちはびっくりして、大軍拡をやろうとしていると話すと、「おかしいですね」となります。
みんなが立ち上がって不可能と言われた復帰を実現した県民のDNAは今も流れていると思うんです。そこに確信を持って働きかけ、もっと自由で主体的に生き生きと楽しく活動していきたいですね。
(おわり)(この連載は岡素晴が担当しました)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月11日付掲載


沖縄人民党のたたかいがつくってきたものをどう引き継いでいくかー。連載の終わりに日本共産党の若手地方議員で、県議のしまぶく恵祐さん(37)、読谷(よみたん)村議の城間真弓さん(45)、豊見城(とみぐすく)市議の新垣龍治さん(46)に語ってもらいました。
しまぶく 「沖縄70万の人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を超えてワシントン政府まで動かすことができます」という亀次郎さんの演説があるように、県民を奮い立たせる、そこがすごかったんだと思いますね。同時に亀次郎さん一人で物事を決めていないんだよということを古堅実吉さん(共産党元衆院議員)から教わりました。
新垣 1995年の少女暴行事件の抗議集会に8万5千人が集まり、米軍普天間基地の返還の動きにつながっていきました。大切なのはあきらめないこと。課題は、基地にあまり抵抗がない若い世代にどう伝えていくか。SNSもどんどん活用していかなければと思います。
城間 若い人たちは基地問題で争っている構造をすごく嫌がるので、入り口を変えていく。いま学費が高いよね、物価や食費もガソリンも高いよねと。非正規雇用の問題、どこを切り取ってもみんな苦しいのに政府は辺野古や戦争のために予算を使おうとしている。どれだけ若い世代の困っている声を聞き、発信して力に変えていけるかどうかだと思う。

沖縄人民党合流50年⑦ 心が震えた歴史的使命

2023-11-10 07:16:47 | 平和・憲法・歴史問題について
沖縄人民党合流50年⑦ 心が震えた歴史的使命

沖縄人民党が日本共産党に組織的合流をした直後の1973年11月。東京で開かれた第12回日本共産党大会では、「沖縄をアメリカ帝国主義による日本とアジア支配の拠点から日本人民解放の拠点にするため奮闘する」ことが確認されました。
当時、県党の専従として働き始めていた喜瀬愼全(きせ・しんぜん)さん(72)=沖縄県西原町=は、この文言に「心が震えた」と語ります。「歴史的使命を僕たちは負っているんだと思いました。専従として頑張っていこうと決意を固める上で勇気をもらった」



正式に日本共産党への合流を決定した沖縄人民党第18回臨時大会=1973年10月31日(「沖縄人民党の歴史」から)

貧しい基地の外
復帰前の60年前後、喜瀬さんが小学生の頃のクリスマスの思い出があります。学校の運動場に下り立つヘリコプター。サンタクロースに仮装したアメリカ人が出てきて、子どもにプレゼントを配るという光景でした。
「米軍基地の中の華やかで豊かな世界は、子ども心に憧れの対象でした。一方、基地の外の沖縄はなぜ貧しいのかなと思いました」
成長するにつれ、植民地主義的な米軍支配に怒りを感じるように。高校時代に先生たちの祖国復帰運動をする姿を見て、復帰を強く願うようになります。
68年末、行政主席公選などの「三大選挙」で革新民主勢力が勝利。復帰を実現する決定的な力となった歴史的勝利に、先生や級友らと教室で「万歳」と叫んだと明かします。
共産党に入党したのは大学卒業後の73年7月。合流を控え「赤旗」の本格的な配達が始まろうとする中、義兄からアルバイトで働いてみないかと誘われたのがきっかけでした。
配達は当初、本島中部を担当しました。「昼すぎから毎晩9時、10時までかかりましたがあまり苦にならなかった。若かったこともあるけど、配達先の読者の方たちの『頑張ろうね』との励ましがうれしく力になりました」

機関紙を中心に
正式に専従になると、配達・集金をしながら支部の機関紙体制づくりに取り組みました。機関紙を党活動の中心に根付かせるため粘り強く党員を訪問。苦労もありましたが、多くの人が働きかけに応えてくれたといいます。
「沖縄で急速に機関紙活動が前進できたのは、人民党の先人たちの不屈のたたかい、機関紙『人民』の配達・集金体制があったからだと思います。『最も英雄主義的活動』と位置付けられる配達・集金を担ってきた方々にもっと光をあて、血の通った激励を向けることが必要ではないか」
専従時代を振り返る時、思い出すのは86年衆院選。足が悪くなった父を支え投票に連れて行くと、「セナガ」(瀬長亀次郎元共産党衆院議員)と書いているのが目に入りました。
元警察官で反共的な教育も受けていた父は、党の専従になると決めた当時、「もう家は傾いてしまった」と言うほど落胆したといいます。「最後に少しでも息子を応援してあげようという思いだったのでしょう。親とはありがたいなとこみ上げてくるものがありました」
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月9日付掲載


沖縄人民党が日本共産党に組織的合流をした直後の1973年11月。東京で開かれた第12回日本共産党大会では、「沖縄をアメリカ帝国主義による日本とアジア支配の拠点から日本人民解放の拠点にするため奮闘する」ことが確認。
当時、県党の専従として働き始めていた喜瀬愼全(きせ・しんぜん)さん(72)=沖縄県西原町=は、この文言に「心が震えた」と。
正式に専従になると、配達・集金をしながら支部の機関紙体制づくりに取り組み。
「沖縄で急速に機関紙活動が前進できたのは、人民党の先人たちの不屈のたたかい、機関紙『人民』の配達・集金体制があったからだと思います。『最も英雄主義的活動』と位置付けられる配達・集金を担ってきた方々にもっと光をあて、血の通った激励を向けることが必要ではないか」

沖縄人民党合流50年⑥ 女性の願い訴え続け

2023-11-09 13:41:15 | 平和・憲法・歴史問題について
沖縄人民党合流50年⑥ 女性の願い訴え続け

新日本婦人の会の会員として長年活動してきた宮里節子さん(75)=沖縄県南風原(はえばる)町=は、1997年の名護市民投票で忘れられない記憶があります。
日米両政府は、米軍普天間基地(宜野湾市)を返還する代わりに、新たな基地を名護市辺野古に造ることで合意。その賛否を問う選挙で日本政府、自民党は買収など手段を選ばぬやり方で基地を押し付けようとしました。
宮里さんは新婦人の仲間と名護入りし、基地の“県内たらい回し”だと訴え、市民と対話していた時でした。高齢男性が「ごめんね。生活費がなくて3千円もらったからさー」と語り、反対には投票できないと答えました。
深刻な貧困問題を抱える沖縄ゆえに、わずかなお金と引き換えで基地を容認せざるを得ない人も存在するという現実でした。宮里さんは「とてもつらかった。こんな沖縄をいつまでも続けさせてはならない。子や孫たちの未来に」と語ります。

郷里離れ見えた
戦後生まれの宮里さんは復帰前の67年、パスポートを手に本土へ渡航し、東京の大学の薬学部に進学。当時、米軍支配下の現状を知らせるための沖縄展が各大学で開かれていました。宮里さんの大学でも開催が決まり、同郷の先輩に誘われて、日本民主青年同盟に加盟し手伝うことになりました。
「沖縄を離れたら逆に沖縄がよく見えるんですよね。東京は公園などに緑がいっぱいで、当時の沖縄とは全く違っていた。沖縄って何だろうと考えるようになりました」
69年夏には帰省活動の一環で、県学生会・医系分科会による離島の集団健診に参加。一緒に取り組んだ先輩たちの中には、日本共産党員の人もいました。核も基地もない平和な沖縄をめざし、反戦を訴えて一心に活動している党だと理解を深める中、入党を働きかけられます。
「決意はしたものの申し込みを書く時、手ががたがたと震えました。反共攻撃もひどかったから。実家の父には“アカだけにはなるな”と言われ、東京への進学を許してもらったんですけどね」いながら振り返ります。



新基地建設に反対する辺野古の住民組織「命を守る会」(当時)の闘争小屋を訪れた新日本婦人の会の、人たち=1997年12月、沖縄県名護市辺野古(「新婦人おきなわ五十五年のあゆみ」から)

「長男の嫁が…」
卒業後、沖縄に戻った宮里さんは、25歳で新日本婦人の会県本部の事務局長を務めることに。夫の両親と同居し、民青の専従だった夫に代わって家計を支えるため、薬剤師として働きながら多忙な日々でした。子どもは家族に預けなければならないので風当たりも強く、「『長男の嫁が何やっているの』と怒られてばかりでした」と話します。
沖縄の伝統で長男しか引き継げないとされるトートーメ(位牌=いはい)を女性でも継承できるようにする運動や、乳幼児医療費の無料化をめざす取り組みを続けてきました。「玉城デニー県政で中学卒業まで医療費無料化が拡充された時は、とても感動しました。50年近くずっと訴えてきて、諦めないでよかったと」
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月8日付掲載


戦後生まれの宮里さんは復帰前の67年、パスポートを手に本土へ渡航し、東京の大学の薬学部に進学。当時、米軍支配下の現状を知らせるための沖縄展が各大学で開かれて。宮里さんの大学でも開催が決まり、同郷の先輩に誘われて、日本民主青年同盟に加盟し手伝うことに。
「沖縄を離れたら逆に沖縄がよく見えるんですよね。東京は公園などに緑がいっぱいで、当時の沖縄とは全く違っていた。沖縄って何だろうと考えるようになりました」
沖縄の伝統で長男しか引き継げないとされるトートーメ(位牌=いはい)を女性でも継承できるようにする運動や、乳幼児医療費の無料化をめざす取り組みを。「玉城デニー県政で中学卒業まで医療費無料化が拡充された時は、とても感動しました。50年近くずっと訴えてきて、諦めないでよかったと」

沖縄人民党合流50年⑤ たたかい継ぐ反戦地主

2023-11-08 07:12:21 | 平和・憲法・歴史問題について
沖縄人民党合流50年⑤ たたかい継ぐ反戦地主

「母と一緒に畑でイモ掘りをしていた時だったか、そこに突然、叔母がやってきて。8歳年上のいとこが『撃たれた』と。米兵がジープに乗って追い回し、後ろから照明弾で狙撃したというのです。米軍は住民を人間扱いしていなかった」
平安山(へんざん)良尚さん(62)=沖縄県伊江村=が小学6年の時、重傷を負って手にギプスを巻いた、いとこの姿を覚えています。当時、沖縄は日本に復帰していたにもかかわらず、日本政府は裁判権を放棄。米軍から何の補償もなかったといいます。

「乞食行進」行う
沖縄本島北部の本部半島から北西約9キロにある伊江島。島民の半数が犠牲になった悲惨な沖縄戦で米軍は、日本軍が建設しながら自ら破壊した飛行場を復旧。戦後、「伊江島補助飛行場」として射爆撃演習などを行う基地としました。
1953年7月、米軍は真謝(まじゃ)、西崎両区に演習用地として土地を接収すると通告しました。翌年から基地建設を始め、立ち退きを強要しますが、両区の住民は拒否。反対運動に立ち上がります。55年3月には、武装した米兵約300人が上陸。真謝区ではブルドーザーで住民を家から追い出して畑や家屋を破壊し、焼き払う蛮行を働きました。
人々は暴虐を受けてもなおたたかいを続けます。非暴力による抵抗を訴え、「沖縄のガンジー」と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんを先頭に沖縄本島に渡り、伊江島の窮状を訴える「乞食(こじき)行進」に取り組みました。
これが多くの県民の憤激を呼び、56年の「島ぐるみ闘争」につながる導火線になったとされます。平安山さんの両親は阿波根さんとともに、土地を守るたたかいに参加した反戦地主でした。



米軍への訴えが記された団結道場の壁の前で、平安山良尚さん=沖縄県伊江村


土地の強制接収反対を訴え、「琉球政府」に陳情に訪れた伊江島の人々=那覇市(那覇市歴史博物館提供)

「命を育む場所」
基地のすぐそばには、島民で団結してたたかうための教育の場として団結道場がつくられます。幼いころから母に連れられ、団結道場を建設するにあたっての集会など、たたかいの場面に接したという平安山さん。そのためか、「自然と活動が身にしみついていった」と語ります。
母が日本共産党員だった平安山さんは、高校を卒業してすぐの18歳で入党。30代半ばの時には両親たちのたたかいを引き継ぐ上で反戦地主になりました。
かつては伊江島で米軍に土地を奪われた人の多くは反戦地主でしたが、国の切り崩しもあり、今では契約を拒否する人はわずかになりました。しかし平安山さんには譲れない思いがあるといいます。「土地というのは命を育む場所であって、命を奪う訓練をするところではない。誰かが戦争を起こすのは権力を持つ政治家どうしだと言っていました。共産党員になったのも、政治を変えなければよくならないと思ったからです。基地のフェンスの中にとられた土地を返してくれと訴え続けます」(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月7日付掲載


1953年7月、米軍は伊江島の真謝(まじゃ)、西崎両区に演習用地として土地を接収すると通告。翌年から基地建設を始め、立ち退きを強要しますが、両区の住民は拒否。反対運動に立ち上がります。55年3月には、武装した米兵約300人が上陸。真謝区ではブルドーザーで住民を家から追い出して畑や家屋を破壊し、焼き払う蛮行。
「沖縄のガンジー」と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんを先頭に沖縄本島に渡り、伊江島の窮状を訴える「乞食(こじき)行進」に。
これが多くの県民の憤激を呼び、56年の「島ぐるみ闘争」につながる導火線に。

沖縄人民党合流50年④ 奪われた土地とり戻す

2023-11-06 07:11:33 | 平和・憲法・歴史問題について
沖縄人民党合流50年④ 奪われた土地とり戻す

沖縄県が日本に復帰する前から池原秀明さん(80)=沖縄市=は、同市知花(ちばな)の米軍嘉手納弾薬庫地区内で手作業の土地の開墾を始めました。米軍が奪った祖父の代からの土地を取り戻すためでした。「見つかれば銃殺されることも覚悟の上だった」

米軍に隠れ耕す
日中は県の職員として農業指導に従事。県庁から帰って毎晩遅くまで米軍の目をかいくぐり、土地を耕しました。「重機を使えば見つかる。松林が広がる土地を農業ができるようにするには、どれだけ大変だったか」
池原さんは1971年12月に結成された反戦地主会のメンバーの一人。反戦地主は基地に土地を提供する契約を拒み、軍用地主に支払われる賃料を受け取らない人たちです。
7~8年かけて池原さんは5千坪の土地を「黙認耕作地」として開墾し、ブロックを積み上げ豚舎を建設。養豚を始めました。
「地代を上回る収入を出してみせる」。米軍キャンプ・シールズ内に土地を所有する反戦地主の島袋善祐(ぜんゆう)さん(87)と意気投合。島袋さんは限られた農地で収益を上げようと、ミカンの超密植栽培を試みていました。
池原さんは、県の職員を退職後、法律に基づいて県に申請し牛舎を建設。本格的に肉牛生産ができる環境を整え、82年に土地の返還を勝ち取ります。
軍用地として収用されながら未使用だった土地を、十分な収益を見通せる農地に変えたことが返還の決め手になりました。土地を強制収用できるのは「適正且(か)つ合理的であるとき」と定めた駐留軍用地特別措置法を空文化する状況をつくり出したからです。



池原秀明さんが手作業で開墾し、返還を勝ち取った土地。奥の建物が牛舎=沖縄市知花

基地共存できぬ
日本共産党に入党したのは67年。東京の大学に在学していた時でした。沖縄に帰郷後、米軍の毒ガス撤去を求める中で沖縄人民党の人と知り合い、活動をともにするように。
86年から共産党沖縄市議を8期。昨年、勇退するまで務めました。「嘉陽宗儀さん(元党県議)たち先輩に育てられ、住民の相談相手になることを心掛けてきた」。住民の利益増進に尽くし、基地のない平和な沖縄をめざしたたかってきました。
68年に米軍の戦略爆撃機B52が嘉手納基地内で墜落し、大爆発。数キロ離れた実家で爆音を聞いた生後3カ月の長男はその後数年間、爆音のたび恐怖で泣きだしたといいます。「94年にもF15戦闘機が墜落し、うちの牛舎に残骸が飛び込んできました。いつ犠牲になるか分からない状況は今も同じです。基地とは共存できないことを訴え続けなければ」(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月5日付掲載


日中は県の職員として農業指導に従事。県庁から帰って毎晩遅くまで米軍の目をかいくぐり、土地を耕しました。
池原さんは1971年12月に結成された反戦地主会のメンバーの一人。反戦地主は基地に土地を提供する契約を拒み、軍用地主に支払われる賃料を受け取らない人たち。
軍用地として収用されながら未使用だった土地を、十分な収益を見通せる農地に変えたことが返還の決め手に。
粘り強さですね。