今日のホーム最終戦、新潟戦は体調不良のため自宅でテレビ観戦でした。それでも、DAZNでは試合後の引退セレモニーまで放送してくれたので、写真の宇賀神友弥選手の引退セレモニーの様子は見ることができました。宇賀神はジュニアユース、ユースと浦和の下部組織でプレーしていましたが、ユース卒業時にトップチームに上がれず、流通経済大学を経由する回り道をしています。
しかも、流通経済大学時代も1年生から順調とは行かず、三軍チームである「クラブ・ドラゴンズ」に所属したこともあり、1年生からレギュラーだった1年後輩の武藤雄樹をスタンドから応援していたこともあります。そんな宇賀神ですが、4年生のときにようやくトップチームで抜きん出た存在になり、天皇杯のガンバ大阪戦である程度通用したことで「J1でもやれる」と確信して浦和レッズのトップチームに入団してきました。
1年目のフィンケ監督時代には、左サイドの攻撃的な位置で起用されて活躍した宇賀神ですが、2年目のゼリコ・ペトロヴィッチ監督時代に左SBで出場したときに頭上を抜かれるミスをして、「DFではない」という評価になってベンチスタートが多くなる挫折を味わいます。そんな宇賀神が36歳の今までプレーできた要因に、3バックの左アウトサイドには最適な選手だったことが考えられます。
長く続いたミシャ時代、浦和の布陣はほとんど3-4-2-1で固定でした。この頃、宇賀神自身も努力して体力レベルを上げたことで、時にはFWのラインまで行くこともあるミシャのアウトサイドへの要求をクリアできるようになります。もちろん、浦和というチームは選手間競争にはシビアなので、順調に思われたミシャ時代にも梅崎や関口などライバルが多く在籍しましたが、ミシャがどちらかと言えば体力のあるアウトサイドが好みだったことも追い風になりました。
また、宇賀神は左右どちらのサイドでもこなせる強みがありました。もともと利き足は右なので、右SBで起用してもそれなりにプレーできたことが、彼の長い現役生活を支えていました。一度浦和を戦力外になり、J3の岐阜で2年間プレーしていましたが、今季荻原、明本とSB候補が次々と流出したことで宇賀神に復帰のオファーが来ることになりました。
今季は2試合出場と、トップチームの戦力になったとは言い難い結果だったことも引退の決断の理由でしょう。引退後は本人の口から「浦和レッズのGMになりたい」と抱負を明確に語ってくれました。一足先にGMになった先輩堀之内聖さんからも学ぶこともあるでしょう。まずは裏方からスタートして、その夢が実現するように願うばかりです。
しかも、流通経済大学時代も1年生から順調とは行かず、三軍チームである「クラブ・ドラゴンズ」に所属したこともあり、1年生からレギュラーだった1年後輩の武藤雄樹をスタンドから応援していたこともあります。そんな宇賀神ですが、4年生のときにようやくトップチームで抜きん出た存在になり、天皇杯のガンバ大阪戦である程度通用したことで「J1でもやれる」と確信して浦和レッズのトップチームに入団してきました。
1年目のフィンケ監督時代には、左サイドの攻撃的な位置で起用されて活躍した宇賀神ですが、2年目のゼリコ・ペトロヴィッチ監督時代に左SBで出場したときに頭上を抜かれるミスをして、「DFではない」という評価になってベンチスタートが多くなる挫折を味わいます。そんな宇賀神が36歳の今までプレーできた要因に、3バックの左アウトサイドには最適な選手だったことが考えられます。
長く続いたミシャ時代、浦和の布陣はほとんど3-4-2-1で固定でした。この頃、宇賀神自身も努力して体力レベルを上げたことで、時にはFWのラインまで行くこともあるミシャのアウトサイドへの要求をクリアできるようになります。もちろん、浦和というチームは選手間競争にはシビアなので、順調に思われたミシャ時代にも梅崎や関口などライバルが多く在籍しましたが、ミシャがどちらかと言えば体力のあるアウトサイドが好みだったことも追い風になりました。
また、宇賀神は左右どちらのサイドでもこなせる強みがありました。もともと利き足は右なので、右SBで起用してもそれなりにプレーできたことが、彼の長い現役生活を支えていました。一度浦和を戦力外になり、J3の岐阜で2年間プレーしていましたが、今季荻原、明本とSB候補が次々と流出したことで宇賀神に復帰のオファーが来ることになりました。
今季は2試合出場と、トップチームの戦力になったとは言い難い結果だったことも引退の決断の理由でしょう。引退後は本人の口から「浦和レッズのGMになりたい」と抱負を明確に語ってくれました。一足先にGMになった先輩堀之内聖さんからも学ぶこともあるでしょう。まずは裏方からスタートして、その夢が実現するように願うばかりです。
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