
島の北側の 帯曲輪を東へ 旧登城道を行き
二の丸の東側 空堀に来ました

空堀内から 二の丸北側 東端の 石垣
東端(右端)崩れていますが
石積みは古そうに思います
土橋 .
👈天守台 👇 二の丸 👉

天守台 二の丸の間
天守台

👆 この道は 登城路 じゃなくて 見学路 .
登城路 は はっきり わからないです
空堀の二の丸側は

石垣が ない箇所や

上に上がれる 道 もありますが
登城路跡
か、どうかは、わかりません
もし登城路を整備したのなら
残念です

長い年月で 雨の侵食あり
どういう状態だったかはわからなくなってます
木は なかったはずです
土塁だったかと思います
本丸と 二の丸を つなぐ 土橋

ここの 空堀
最初来た時 土橋から見ました
ここに 空堀か~
と、よくわからなかったんです
もともと 谷があったのか
とも、思ったのですが
これは 天守台を造るために
盛り土を取った 跡の空堀
そう思います
それには 理由が あったようです
本丸 ⇔ 二の丸

土橋の向こう側 南側にも 空堀があります
土橋の向こう側の石垣は 鉄門櫓台
ここの 土橋は 稲葉時代
大門櫓を建てた時に造ったようです
石積みは 時代からして ちょっと雑
というのも 世は戦が終わっていたから
防衛面よりも 財政軽減か?
石積みは 時代からして ちょっと雑
というのも 世は戦が終わっていたから
防衛面よりも 財政軽減か?
一方 天守台
遡ること 豊臣時代 戦国の頃
まだまだ 石積みは 粗かった

にしては
石積みが雑です
これは崩壊後の補修でしょうか

と 思ってたんですよ
そしたら
なんのなんの
南野陽子

もともと 7m あったものが 4m 崩壊
3m 残ったということ らしいですわ
その 壊れたのが 大正時代 という
え~~?
いつごろ…?
えっ、昭和の前の?
公園化のため 4m 削った
なんとも 愚かな…
倍以上の 高さだった…

300年で 崩してしまった ということなのか
そもそも ここの天守台には
意外な事実が あった

実は
本丸よりも
大門櫓がある 二の丸の方が 高かった
そのために 盛り土の上に さらに天守台
(その頃はまだ大門櫓は無かった)
当初 大友時代は
二の丸の方が 本丸 だったというのだ
おどろきもものき うすき
にのまる ほんまる 記
へぇ~ へぇ~
豊臣時代の頃の石積み

と、いうことで
天守台に上がりましょ
左の方から 見学用の石段があります
勿体ないなあ。
今は城内はきちんと整備されている様ですね。