三度、家の裏の川が決壊すると、雨が降ると心配になってきます。データ放送の気象レーダー図をチェックしたり、川の水位を確かめたり。
二度目の決壊の後、自治会で市に掛け合ったら、市は土嚢をいくつか積んで、浸水した周辺の家の消毒にやってきました。
役員さんは、淀川に川の水を逃すポンプまで見学に行ってきて、これだけやっているならとレポートを書いて町内広報を回してくれました。
しかし、三度目。
二度目の決壊で、集会所が浸水して畳を変えたところだったため、その集会所を、どうするのか?
自治会で、連続講座を開いて考えてくれています。
2回の講座の報告では、建て替えるか、修繕するかどうか、住民のすべての意見を聞くなどと書いてあって、本当に大変なことなんだな。と今頃になって実感している当事者意識の無い自分を恥じています。
市にも、次が無いように掛け合いにいくとも書かれていました。
自衛するしか無いと、決め込んでいたうちの駐車場の対策も、その割にも、物理的には何も変化は無く、相変わらず天気図とにらめっこして、早めに車を避難させるかというレベルです。
雨がひどくなってからだと、動くに動けなくなるので、早めにと思いながら、局所的豪雨注意報が発令してからだと、大体もう、大雨。動きたくない。ということに気がついてしまった。
そして、今回の台風レベルでは、浸水しない。ゲリラ豪雨。の場合のみ。
ということは、テレビに出てくるおおざっぱな予報では、確実な予測は無理。
空振りでも車を避難させると、決めておかないと完全な予防はできないということです。
防災は、安心してはいけない。私が、あの震災から学んだこと。
自分と自分の家族の生命を大切と考える人がいたし、となりに住む人も、わが町に住む人のただ一人の命も失われてほしくないと考える人達が多勢いた。
そういう人たちは、災害だから仕方ないと立ち止まったりしないで、もう二度と一人の命も失わないですむように、動いて、つながったり、考えたりしています。
そのことを、私は受けとらなくてはいけない。
これくらいなら大丈夫、自分は年をとっているからもういいんだ。今までこのやり方でやってきたから、と安心したいという意識の上にあぐらをかくことは、本当の安心ではない。
小さな水が流れ込んできてやがて大きな穴が空いて、一挙に流されてしまう。小さな穴のうちに気づき、動けることが安心に繋がることなんだと思います。