音楽の喜び フルートとともに

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ジプシー(ロマ)の歌

2024-09-08 21:01:00 | ロマン派
奈良県音楽芸術協会のファインアーツコンサート。大和郡山城ホール。
オペラパークオーケストラのピッコロとフルートで出演してきました。

緊張しました…けど楽しかった。
私はピッコロ参加と、3rdフルート2小節。なので入って、吹いたと思ったら引っ込んでと言う具合で
クラリネットの降り番の人や、打楽器の降り番の人と

舞台袖で待機。

入った時は、楽器をベストの状態で保つために、空気を入れて温めて…。
ほぼこれが仕事と言っていいでしょう。
幸せな時間はあっという間に過ぎてしまいました。

終演後バブアゼ先生に会ったら「ありがとう。また、ぜひ出演してください。」と言われて感激しました。

優しい!
他のソリストのみなさんも名手揃いでした。
フルートパートで写真。

幸せ!
メゾソプラノの堀口莉絵さんに会って写真撮ってもらぃした。

「カルメン」の「ハバネラ」「セギディーリャ」「ジプシーの歌」のすごい表現力。
楽しくてパワフルですっかりファンになってしまいました。

堀口さんの動画チャンネル

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ブージヴァル没

の歌劇「カルメン」はオペラ『カルメン』は、プロスペル・メリメ(1806-1872年)

の小説『カルメン』を元に、アンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィがリブレット(台本)を作り、ビゼーが作曲した4幕もののオペラです。

音楽(歌)の間をレチタティーヴォではなくメロディのない台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれていました。

1875年3月3日、パリのオペラ=コミック座

オペラ=コミック座が、1840年から1887年まで本拠とした、第2代サル・ファヴァール
で初演されました。
初演は不評でしたが、その後の客入りと評判は決して悪くなく、ビゼーのもとには『カルメン』のウィーン公演と、そのために台詞をレチタティーヴォに改めたグランド・オペラ版への改作が依頼されました。

この契約を受けたビゼーでしたが、持病の慢性扁桃炎による体調不良から静養中の6月4日、心臓発作を起こして急死してしまいます。

そこで友人の作曲家エルネスト・ギロー(1837-1892年)

が改作を担当してウィーン上演にこぎつけます。
以降フランス・オペラの代表作として世界的な人気作品となりました。

リブレットはフランス語で書かれていますが、物語の舞台はスペインです。
音楽もハバネラやセギディーリャなどスペインの民族音楽を取り入れて作曲されています。

タバコ工場の女カルメンは仲間と喧嘩騒ぎを起こし牢に囚われることになります。

セビリアの旧タバコ工場、現在は大学になっています。

しかし、護送を命じられた竜騎兵の兵長ホセを誘惑し、脱獄に成功します。ホセは代わりに牢に囚われます。

「1月後にリリアス・バスティアの酒場で会おう。」というカルメンの言葉に、1ヶ月後、釈放されたホセが酒場に行くと、自由になったカルメンは仲間と「ジプシーの歌」を歌い踊っています。

ロマ(Roma、単数はロム)は、インド北部が起源と考えられ、中東欧を主として世界各地に居住する民族グループです。

「ジプシーのキャンプ」と題されたジャック・カロの銅版画を転載した挿絵

英語の「ジプシー」など、欧州を中心にさまざまな呼称が使われています。

1971年に世界ロマ会議の出席者により従来の呼称は差別的ニュアンスが含まれているとして、「ロマ」の呼称を用いるよう決議されました。

ロマの起源は5世紀に遡ります。
8世紀には、ムルタンの近くのシルマン山にヤットという名称のロマの集団が住んでいました。

彼らはインドの支配から独立を望み、アラブによるインドへの侵攻時にアラブと手を組みました。
ところがアラブがインドに敗北してしまったため、714年、退却するアラブの軍勢とともに西へ移動しました。
これがロマの起源です。
他にもいろいろなルートや起源説が混在しています。

ロマの荷馬車(1935年、ドイツ)

16世紀半ばにはイギリスの各地の地方自治体はロマに退去命令を出しました。

1561年にはフランスのシャルル6世がロマを2ヶ月以内に領土から追放するよう命令を出し、この命令に従わないロマは頭髪を剃り落とされ、罪人として晒し者にされ、ガレー船の漕手として3年間の重労働に服さなければなリませんでした。

1596年にはイギリスで放浪中のロマ196人が捕縛され、うち106人が死刑の宣告を受けました。このうち9人が実際に死刑となり、残りは出身地に連れ戻されました。

1714年にはドイツでマインツの大司教
がロマに対して裁判抜きの処刑・鞭打・追放・重労働を命じました。

1761年、オーストリア

マリア・テレジアのロマの同化政策
ではロマの定住化が図られ、ロマの青年に対して徴兵や職業訓練をおこない、領主への従属や納税の義務を課し、ロマ同士の結婚を禁じ、ロマの子はロマではない家庭に入れて育てることとしました。

これは人道的な同化策でしたが、定住や(ヨーロッパ人の考える)文化的な生活の押し付けとなり、ロマたちの拒否することとなりました。

1773年にプロイセンのフリードリヒ大王

がロマを隔離して定住させようとしましたが、結局失敗しています。

1935年になるとナチスドイツがロマを劣等民族と法律で定め、断種政策、絶滅計画が実施されました。

カルメンはそのロマの1人。
タバコ工場で仲間たちと同化できず、押さえつけられて、牢に囚われても自分の力でなんとかして飛び出し、自由を得てロマの仲間たちと歌い踊ります。
流浪の民のエネルギーが炸裂します。

セヴィリアの町外れにあるリリアス・パスティアの酒場

「ジプシーの歌」
鈴が鋭い音を鳴らす
金属的な響きをあげて
するとこの不思議な音楽に
ジプシー女たちが立ち上がる
タンバリンが調子を取ると
ギターは狂おしく
しつこく掻き鳴らされる
同じ歌、同じルフラン!
トラ・ラ・ラ・ラ…

銅と銀の腕輪が
浅黒い肌に輝く
オレンジと赤の縞模様の
衣が風にひるがえる,
踊りは歌とひとつになる
初めは小さく、ぼやけているが
次第に生き生きと、テンポを上げて
高鳴る、高鳴る、高鳴っていく!
トラ・ラ・ラ・ラ…

ジプシー男は力の限り
激しく楽器を掻き鳴らす
目もくらむようなどよめきは.
ジプシー女をとりこにする
歌のリズムに
燃えて狂って興奮した
女たちは有頂天になって
この渦に身を任せる
トラ・ラ・ラ・ラ…