連休最終日は、今津公民館て西宮ギター練習会にギター川原さんと参加しました。
ルシリア
によって「赤ちゃんの一族」第1集が上演されたほか、同第2集、ノネット、ピアノ三重奏曲などが上演され好評を得ます。
セゴビアとヴィラ=ロボス
曲はバッハのバディネリ、モーツァルトのソナタop15の二楽章、イベールの間奏曲、ピアソラのリベルタンゴとアヴェ・マリアを演奏しました。
バッハはギター譜が見つけられなくて、ピアノ譜でした。
10月12日(土)光明寺お寺ライブでもするつもりですが、ギター譜を見つけるか?楽譜を作っちゃうか…もうちょっと考えなくちゃ。
モーツァルトはかわいい曲です。
7歳から10歳までに作った曲ですからロンドン旅行で出会ったバッハの末弟ヨハン クリスチャン バッハの影響も曲の中に見えます。
かわいいけれど簡単では無いですが…。
川原さんはソロでも弾いていましたよ。
マキシモ ディエゴ プホール(1957-)の
「9月」
タレガの「2人の姉妹」
他の人で、ヴィラ=ロボスの「エテュード」を弾いた人がいました。
これはなかなかの難曲でコンクールの課題曲にもなっているようです。
何人か果敢に挑まれていました。
エイトル ヴィラ=ロボス(1887-1859年)ブラジル帝国ブエノスアイレス生没
エイトルの父ハウル・ヴィラ=ロボス
はスペインからブラジルに移住した大学教授で、またアマチュア音楽家でした。
はスペインからブラジルに移住した大学教授で、またアマチュア音楽家でした。
母、ノエミアの父は作曲家のアントニオ・サントス・モンテイロです。
ハウルとの間に8人との子どもをもうけました。
ヴィラ・ロボス家は二階建ての家に住んでおり、一階に叔父と叔母が商店を営んでいて、二階にはハウルとノエミア、エイトルが暮らしていました。 叔父たちが営む商店では音楽家を招いたパーティが行われていて、エイトルは「トゥフ」というあだ名で可愛がられていました
しかし1892年、ハウルが職場のトラブルや、当時の副大統領への政権批判記事を新聞に掲載したことによる政治的危険性から、一家はリオ・デ・ジャネイロを離れ、ブラジル各地を転々とする生活を送ることになります。
1893年、最終的にリオ・デ・ジャネイロへと戻り、再び音楽家たちを集めたパーティが再開されます。
この時、就寝時間の言いつけを破って度々、音楽家たちのパーティを見に行きました。
また叔母はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集
平均律クラヴィーア曲集第1巻自筆譜の表紙
を好んで弾いたと伝えられていて、エイトルのその後の音楽に大きな影響を与えました。
を好んで弾いたと伝えられていて、エイトルのその後の音楽に大きな影響を与えました。
こうしてエイトルはハウルからピアノ、クラリネット、チェロを演奏することを学び、また演奏会などにもハウルに引き連れられ見学に行きました。
その後、独学でギターとサキソフォンを学び、作曲も1899年頃には記録に残る最初の作品が音楽家たちのパーティの中で発表されました。
1899年に当時ブラジルで流行していた天然痘によって父ハウルが亡くなります。
どうにか医学部のある大学へと進学させたい母ノエミアの反対を押し切って、エイトルは16歳の時に家を出て叔母の家に移り住みます。
その後、ギターのレッスンなどで収入を得つつ、演奏家としての活動を始めます。
1905年にはブラジル北部に民謡の収集に出かけ、1907年には税関の警備員などをし、1908年にはパラグアイを拠点に演奏活動を続けました。
1913年にはピアニストのルシリアと結婚しました。
ルシリア
1915年から1917年にかけて多くの室内楽作品や管弦楽作品などを作曲し、また自作品だけの演奏会も度々企画して興行を行いました。
1922年には「近代芸術週間」や「独立百周年記念博覧会」などで主に室内楽を中心に作品が演奏され、イベントの前衛的な趣旨と相まって、前衛作曲家としての地位を高めていきます。
こうした活動がダリウス・ミヨー
やアルトゥール・ルービンシュタインを通じて認められ、政府の奨学金を得て、1923年にパリへ留学します。
この頃に書かれた作品として、ヴァンサン・ダンディの手法による3つの交響曲 (交響曲第1番から第3番)、3つの戦争交響曲 (交響曲第4番から第6番)、ヴァイオリンとピアノのための幻想曲第1番などがある。
1923年にはアルトゥーロ ルービンシュタイン(1887-1982年)
によって「赤ちゃんの一族」第1集が上演されたほか、同第2集、ノネット、ピアノ三重奏曲などが上演され好評を得ます。
またルービンシュタインの紹介もあり、音楽出版社であるマックス・エシック社との契約が結ばれ、声とヴァイオリンのための組曲などが出版されます。
その後、資金が底を付き、ヴィラ=ロボスは一旦、ブラジルに帰国することになります。ヴィラ=ロボスの代表作ショーロスの多くはこの時期に作曲されました。
その後、カルロス・ギンレの資金援助を受け、再びパリを拠点に活動を再開します。
この時期にはショーロスを始め、多くの作品がパリで上演され、パリでもヴィラ=ロボスの名が知られるようにななります。
またエドガー・ヴァレーズやレオポルド・ストコフスキー、セルゲイ・クーセヴィツキー、アンドレス・セゴビアなどの著名な音楽家たちと交友関係を築いたのもこの時期です。
セゴビアとヴィラ=ロボス
しかし、1930年革命により、金銭難に陥ったため留守にしていたパリのアパートから立ち退きを余儀なくされます。この時に、2つのショーロス(第13番と第14番)を含む多くの作品の自筆楽譜と筆写譜が失われたと考えられています。
ブラジルに帰国後、サンパウロ州を統治していたジョアオ・アウベルト・リンス・ジ・バホスよりブラジル内陸部でクラシック音楽のイベントを行うよう要請されます。
このイベントは「ヴィラ=ロボス芸術ツアー」と命名され、サンパウロ州、ミナスジェライス州、パラナ州などを巡りました。
1932年には25歳年下の音楽教師アルミンダ・ネヴェス・ダウメイダと愛人関係になり、ルシリアとの婚姻関係の解消を巡り裁判沙汰にまで発展します。
1933年には、ジェトゥリオ・ヴァルガス政権が設立した音楽芸術教育庁の初代長官に就任します。
1940年代になると、アルゼンチンやアメリカなど南北アメリカ大陸を中心に渡り歩き、各地で講演や自作の演奏会などを行いました。
1945年にはブラジル音楽アカデミーを設立し、初代会長に就任しました。
1948年には膀胱がんと診断され手術が行われます。以降、入退院を繰り返しながらも、戦後のヨーロッパやアメリカ、イスラエル、フィンランドなど世界中を巡り、自作の演奏会などを行います。
1959年、故郷リオ・デ・ジャネイロで72年の生涯を終えた。
ヴィラ=ロボスの没後、アルミンダはブラジル大統領ジュセリーノ・クビチェクに掛け合い、ヴィラ=ロボス博物館を設立、初代館長に就任しました。
1928年ギターのために書かれた「12曲の練習曲」(エテュード)はバッハの平均律クラヴィーア曲集に影響を受けています。
練習曲第1番、第7番、第8番は1947年3月5日、アンドレス・セゴビアによってマサチューセッツ州ウェルズリーのウェルズリー大学で初演されました。
第2番。
Leonora Spangenberger13歳が演奏しています。