火曜の朝は子育てサロン。
ピアノ三重奏曲を45曲書いていました。
の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率が増していきました。
が死去。
の招きにより、イギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになりました(オペラ『哲学者の魂』は完成したものの上演されませんでした)。
お名前を呼んで、手遊びをした後、
ボールプール。
受けました。
…めっちゃ受けました。
ボールの海でバシャバシャ泳ぐ子、飛び込む子、ボールを投げて遊ぶ子。
小さなブールでしたが、充分でした。
午後からは天満橋ルーシェ音楽院の部屋を借りてチェロの斉藤千秋さんとハイドンのロンドントリオとヘンデルのフルートソナタを合わせました。
ルーシェは天満橋を渡って川沿いに少し戻ったところです。
時間決めのレンタル練習室は、電子錠、料金は封筒に入れてポストインと徹底的に人を介さないシステムでした。
斉藤さんとは以前、エイパでお会いしました。
ようやくねがいがかなって「聴き合い会」でご一緒することができるようになりました。
ロンドントリオはフルート2本ですが、今川さんのご都合が合わなかったので、一人でファーストを吹きました。
大体のテンポを決めて、それで練習してくることにしました。今川さんにも伝えなくちゃ。
それから、ヘンデル。こちらはピアノの坂田さんとのトリオなので坂田さんにも後で伝えます。
8番のテンポを決めたら時間が余ったのでハ長調も急遽やりました。
ハ長調もいい曲!またやろう。
フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
ピアノ三重奏曲を45曲書いていました。
大部分は鍵盤楽器(チェンバロまたはピアノ)、ヴァイオリン、チェロによります。
が、Hob. XV:15-17の3曲は1790年にロンドンで出版されたときにヴァイオリンではなくフルートを使っていました。
1780年ごろにはエステルハージ家
の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率が増していきました。
この時期には『ロシア四重奏曲 作品33』(1781年)、『チェロ協奏曲第2番 作品101』(1783年)、『ピアノ協奏曲 ニ長調(Hob. XVIII:11)』(1784年出版)などの重要な作品がまとめて書かれました。
またハイドンはウィーンのアルタリア社やロンドンのフォースター社などと契約を結んで楽譜を出版しました。
1785年から翌年にかけてはフランスからの注文で『パリ交響曲』(第82番『熊』~第87番)を作曲しましたが、これはエステルハージ家以外の楽団のために書かれた最初の交響曲でした。
1785年にはスペインからの注文によって、管弦楽曲(後に弦楽四重奏曲やオラトリオに編曲)『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』が作曲されました。
ハイドンは「侯爵が生きている限り、彼のもとを離れるわけにはいかなかった。」といい、長い間イギリスからの招待も断っていました。
また、ハイドンは次のようにも述べています。
「侯爵は私の全ての作品に満足していた。私は承認を得て、オーケストラの楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができたのだ。私は世間から隔絶されていて、私の周りには行く手を惑わせたり邪魔したりする者は誰もいなかった。だから、私は独創的にならざるをえなかった。」
1790年、エステルハージ家のニコラウス侯爵
が死去。
その後継者アントン・エステルハージ (1738–1794))侯爵
は音楽に全くと言っていいほど関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンに年間1400グルデンの年金を与えて年金暮らしにさせてしまいました。
ただしハイドンにしてみれば、自由に曲を書く機会が与えられながら、同時に安定した収入も得られるという事で、必ずしも悪い話ではありませんでした。
ウィーンに出てきていたハイドンは、ロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで演奏会を開催していた興行主ヨハン・ペーター・ザーロモン(1745−1815年)
の招きにより、イギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになりました(オペラ『哲学者の魂』は完成したものの上演されませんでした)。
ハイドンはエステルハージ家を離れて一時期、自由に作曲活動が行えた時期の作品の1つです。
ピアノ三重奏曲Hob. XY15