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そうしなければならないのか?最後の弦楽四重奏

2024-10-14 21:01:00 | 古典
日曜は鶴見区民ホールでプロージット室内管弦楽団の練習でした。

2度目の地下鉄鶴見緑地線横堤。

いよいよ本振りの木許裕介先生の登壇です。

献堂式、ミサ・ソレムニスを見ていただき、第九。
第1楽章の最後の513小節目から木許先生「ここから地獄の門が開くのです。この低音が苦難の音階です。ベートーヴェンは地獄に降りる覚悟はあるか?と言っているような感じがするのです。」
「バタフライエフェクト…小さな羽ばたきがやがて巨大な山を動かす。耳が聞こえなくなったベートーヴェンが、小さな、小さな羽ばたきを少しずつ繊細に重ねて行き、やがて大きな動きになる。そんなフォルテの境地に到達しました。」
ベートーヴェンの深みにどんどんハマっていきます。

いよいよ来週末本番です。

フリードリヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)
神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

弦楽四重奏曲第16番ヘ長調 作品135は、ベートーヴェンが1826年に作曲した弦楽四重奏曲です。

死の5か月前に完成しました。
ベートーヴェンが完成させた最後の弦楽四重奏曲で、ベートーヴェンのまとまった作品としても生涯最後の作品です。自身のパトロンであり崇拝者でもあったヨハン・ネポムク・ヴォルフマイヤーに捧げられました。

シュパンツィヒ四重奏団は、ベートーヴェンの死から1年後の1828年3月23日にこの作品を初演しました。

最後に完成された弦楽四重奏曲の楽章は、『大フーガ』の代わりに作曲された、第13番の終楽章でした。

『大フーガ』を除いた後期の四重奏曲の中では最も小規模で、ハイドン以来の古典的な4楽章形式に戻っています。

自筆譜においてベートーヴェンは、最後の楽章「難しい決断」の導入部のゆっくりとした和音の下に、

「"Muss es sein?"そうしなければならないのか」と自筆譜に記しています。
それに対して
「"Es muss sein!"そうしなければならないのだ」と応答しています。

この謎めいた文については深遠な哲理を示すものとの見方もあれば、軽いやり取り(友人から借りた金を返さねばならないか否かなど)に過ぎないという説もあります。

印刷版は1827年9月に出版されましたが、ベートーヴェンはその年の3月にすでに亡くなっていました。

1827 年 4 月 12 日の死後数週間後、アントン シンドラー (ベートーヴェンの秘書)

は、弦楽四重奏曲の出版を担当していたベルリンの出版社シュレジンガーに、次のように書き送っています。

「亡き友人ベートーヴェンが、死の数日前に私に、あなたに手紙を書いて次のことを尋ねるように頼んできました。すなわち、あなたが彼から受け取った最後の四重奏曲の作品番号は何番か、そしてベートーヴェンがすでにこの四重奏曲に献辞を贈っていたかどうかを知ることです。作品番号については、彼は 130 か 131 であると考えていました。献辞については、あなたに送ったかどうか覚えていないので、友人のヨハン ヴォルフマイヤーに捧げてほしいと頼んでいました。」

ヨハン ヴォルフマイヤーは裕福なウィーンの織物商、音楽愛好家、ベートーヴェンの (秘密の) パトロン、友人でした。
ヴォルフマイヤーがベートーヴェンの音楽を大いに賞賛していたことは明らかで、1826 年 8 月の会話帳に、ヴァイオリニストのカール・ホルツがベートーヴェンに宛てて「ヴォルフマイヤーは 25 年前にあなたを擁護し、今や人々がそれに気付いていることをとても喜んでいます」と記しています。

ベートーヴェンは弦楽四重奏曲作品 131 をヴォルフマイヤーに献呈することをすでに検討していましたが、最終的には恩義を感じていたシュトゥッターハイム男爵に決めました。

ヴォルフマイヤーは、死後に作品 135 を献呈することでその埋め合わせをしたが、これはおそらくカール・ホルツの発案によるものであろう。シンドラーが書いているように、重病の作曲家が本当にこの献呈を自ら手配したのだろうか? 疑問が残ります。