金曜日、京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンでした。
出町柳の柳。
鷺さんがいました。
を修士として学びました。
招待により、リオデジャネイロ市のリリコ・フルミネンセ劇場
先日京阪が関電停電事故のせいで遅れたので早めに出ました。
するとサクサク進んで、しかも出町柳からのバスが延滞で遅れていたため1本前のバスに乗れてしまいました。
結果20分前に到着。なかなかうまくいかないものです。
京都は小雨でした。
出町柳の柳。
鷺さんがいました。
ホフマイスターのカルテットを見ていただきました。
スケールとアルペジオでできているような曲てす。
最近姿勢がくずれがち、スケールのタンギング下降形で息が少なく、タンギングが強すぎなどなど課題満載でした。
基本が大事。
まだまだ精進、精進!
マシュー・アンドレ・ライヒェルト( 1830–1880年)オランダ マーストリヒト生まれ、ブラジル リオデジャネイロ没
は、ベルギー(市民権を持っていました)の作曲家、フルートの名手でした。
彼はブラジル音楽に影響を受け、影響を与えました。ブラジルのポピュラー音楽および器楽音楽のジャンルであるショーロの先駆者と考えられています。
遊牧民のベルギー人音楽家の息子でした。彼はブリュッセル王立音楽院でジュール・ドゥムールとフランソワ・ジョゼフ・フェティス(1784-1871年)
を修士として学びました。
彼は皇帝D. ペドロ 2 世(治世1831-1889年)の
招待により、リオデジャネイロ市のリリコ・フルミネンセ劇場
1854-1875年まで
で演奏しました。
で演奏しました。
この発表以来、彼はサンパウロ、リオグランデ・ド・スル州、ペルナンブコ州、バイーア州、パラー州で活動し、マノエル・マルセリーノ・ヴァーレやドゥケ・エストラーダ・マイヤーなど多くの著名な弟子を抱えました。
リオデジャネイロでは、当時ブラジル人のフルート奏者、ホアキン・アントニオ・ダ・シルバ・カラドと友人になりました。
ライヒェルトは、リオデジャネイロを壊滅させた伝染病である髄膜脳炎による脳発作で亡くなりました。
彼はサン・ジョアン・バティスタ墓地に埋葬されています。
フルート作品でもっとも有名なものは「ファンタジー メランコリック」「7つの毎日の練習 Op.5」です。
ラ コケットop.04 1872年出版
ラ コケットはフランス語で気を惹く魅力的な女性というような意味ですが、女性に限らず、何か強く惹きつけられる吸引力あるものを意味しています。