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ベートーヴェンフリーク

2024-10-30 21:00:00 | 古典
先週の日曜日、10月20日のことを書きます。
特別な体験でした。
ベートーヴェンの第九交響曲初演200年記念コンサート。

献堂式
ミサ・ソレムニス
交響曲第九番

という200年前1824年、初演時と同じプログラムの再演。

フェニーチェ堺でプロージット室内管弦楽団に出演しました。
朝9:30集合舞台設営。
合唱団約50名、オーケストラ約50名。ソリストも含め、総勢100名余りの椅子を並べるだけで大騒ぎです。

ひな壇を組んでくださっていたのでその上に階段状に合唱団が並びます。

その前に管楽器群、その前に弦楽器を並べたら、緞帳の位置から最前列のヴァイオリンがはみ出ます。

もう少し後ろと言われましてもオルガンも入るので、ギリギリ。
結局、緞帳は降ろさないで、はみ出たままで行くことになりました。

フェニーチェ堺、響きが良いです。

私は「第九」も「献堂式」も初舞台。なのに何故か?1stばかり。

「ミサ・ソレムニス」は降り番だからいいけれど、めちゃくちゃプレッシャー。

「献堂式」はほぼ吹き詰め、「第九」もソロでオケと対峙する形が多くて気が抜けません。

リハーサルの後も楽屋で管楽器群のみんなに助けてもらって合わせ練習しました。

こんなに助けてもらったのは初めてです。

それから木許裕介先生の温かい言葉。
「不安になったら、僕を見てください。なんとかします。
失敗したら、僕の責任。成功したらみんなの手柄です。」

素晴らしい指揮者、素晴らしいメンバーと演奏できて本当に幸せでした。
いろいろ自分の演奏については課題がありますが…。

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1826年『大フーガ』(Große Fuge)変ロ長調 作品133は晩年の弦楽四重奏曲です。

演奏者に対する極度の技術的な要求、内省的な性格で有名です。

ベートーヴェンが完全に聴覚を失った1825年から1826年にかけて作曲されました。
当時の補聴器これをピアノに当てて骨伝導により音を聴いていました。
元来この巨大なフーガは、弦楽四重奏曲第13番の終楽章として作曲されました。

第13番が初演された後、2つの楽章がアンコールに応じて演奏されましたが、終楽章のフーガは取り上げられなませんでした。

ベートーヴェンは納得できず
「どうしてフーガじゃないんだ?」と噛み付き、聞くに堪えない悪口を並べたと言われています。

しかし、このフーガが当時の演奏家にとってはあまりに要求が高く、聴衆にも理解できず不人気だったため、ベートーヴェンはアルタリア出版にせがまれて第13番には新たな終楽章を作曲し、このフーガを独立させ、1827年に出版されました。

ベートーヴェンは強情な人柄、また聴衆の意見や趣味に無関心なことで有名でしたが、このときは出版者の要望に折り合いました。

第13番のフーガと差し替えるために書き下ろされた終楽章は、フーガよりも軽いものとなっています。

19世紀から長い間、『大フーガ』への理解は進まず、失敗作と見なす向きもありました。

ルイ・シュポーアは、ベートーヴェンの他の後期作品と併せて「わけのわからない、取り返しのつかない恐怖」と怯え、ダニエル・グレゴリー・メイソンは「人好きのしない」曲であるとしました。

19世紀末になっても、作曲家フーゴー・ヴォルフは、この曲を含むベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲を「中国語のように不可解である」と評しています。

しかし20世紀初頭ごろからようやく理解され始め、現在ではベートーヴェンの偉大な業績の一つとみなされています。

イーゴリ・ストラヴィンスキーは、

「絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」と述べています。

今日では普通に演奏・録音されるようになり、録音では第13番の後に『大フーガ』が録音されていることが多いです。

2005年10月13日に報じられたところによると、7月にペンシルベニア州ウィンウッドのパーマー神学校
の図書館で、1826年に作成された『大フーガ』の4手ピアノ版(作品134として既存)の自筆譜が発見されました。

それまで115年間にわたって失われたとされた手稿です。

これは2005年12月1日にサザビーズで競売にかけられ、112万ポンド(米ドルにして195万ドル)の価格で落札されました。

1890年に競売目録に載せられ、ベルリンで競り出されて、オハイオ州シンシナティの資産家の手に渡りました。

落札者の娘は、1952年に本作品とモーツァルトの『幻想曲』などの自筆譜を、フィラデルフィアの教会に寄贈しました。

それから発見場所の図書館にどのように伝承されたのかは、わかっていません。