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マジャール民謡とドビュッシー

2024-03-15 21:01:00 | 近代
日曜日の演奏の後にいただいた差し入れのさくらせんべい。

素敵なパッケージに入っていました。
また、寒くなっていますが、ちらほらある種の桜が咲いてきれいです。

寒桜ですが…。
待ち遠しい!
そして日曜日ドルチェ楽器で見かけたクラリネット。

ヘインズの金属管です。珍し過ぎて初めて見ました。美しい!
もちろん吹けませんが…。

バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(1881-1945年)は、ハンガリー王国、バーンシャーグ地方ナジセントミクローシュに生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

クラシック音楽の作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家。

『2つの映像』作品10、Sz.46は、1910年に作曲した管弦楽曲です。

原語曲名:Két kép(ハンガリー語) Zwei Bilder(ドイツ語) Two Pictures(英語)

スコアのバルトーク自身の書き込みによれば、1910年8月に完成。
初演は1913年2月25日、ブダペストにて、イシュトヴァーン・ケルナーの指揮のブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団によります。

7歳の時に父が病気(アジソン病だったと言われている)のため32歳で急死、ピアノ教師として一家を支えることとなった母パウラ ヴォイトの仕事の都合でナージセレーシュ(現在のウクライナ、ヴィノフラージウ)に転居、その後各地を転々とします。

9歳前後から習作的なピアノ曲も書き始め、10歳の時にはピアニストとしての初舞台を踏みます。

パウラは子を天才少年ピアニストとして売り出す気はなく、まずは普通に教育を受けることになります。

1893年に音楽活動の活発だったポジョニ(現在のスロヴァキアの首都、ブラチスラヴァ)に母と赴いた際、作曲家エルケル・ラスローに指導してもらう機会を得ます。

翌年、母がポジョニに仕事を得たため同地へ引っ越し、当地のギムナジウムに入学。エルンスト・フォン・ドホナーニ

ドホナーニ(1877:-1960年)
と知り合い友人となります。

学内でもピアニストやオルガニストとして活動し、ヨハネス・ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可されます。

しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだというドホナーニの薦めに従い、翌年ブダペスト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学。

作曲をハンス・ケスラー、ピアノをトマーン・イシュトヴァーンに指導を受けます。ここではワグネリアンの学長からリヒャルト・ワーグナーの洗礼を受けますが、既にブラームスの影響を脱して先に進もうとしていた彼に、ワーグナーは答えをくれなかったと回想しています。

1902年、21歳の時にリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはこう語りき』に強烈な衝撃を受け、交響詩『コシュート』を作曲。

ハンガリーの革命の英雄コシュート ラヨシュ(1802-1894年)1848年3月ハプスブルクからのハンガリー独立を勝ち取るも1849年5月にはブダペスト陥落亡命します。

ハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュへの賛歌であった為、当時ハプスブルク帝政の支配下にあったブダペストの世論を騒がせました。

1904年にはゲルリーツェプスタ(現在スロヴァキア領)で初めてトランシルヴァニア出身者の歌うマジャル民謡に触れます。

1905年、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。作曲部門では入賞せず奨励賞の第2席、ピアノ部門では2位でした(優勝者はヴィルヘルム・バックハウス)。

自分の人生をピアニストとして描いていたため、優勝を果たせずかなり落胆しようですが、それ以上に作曲部門での結果の方がショックでした。
また民謡について科学的アプローチを始めていたコダーイ・ゾルターンと出会い多大な影響を受けます。

左バルトーク 右コダーイ
1906年からコダーイやその他の研究者達と共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始めます。

1913年にアルジェリアへ赴いた他は、専ら当時のハンガリー国内で民族音楽を採集していました。

1907年、26歳でブダペスト音楽院ピアノ科教授となります。

ブダペスト音楽院(現リスト フィレンツェ音楽院)
ピアニストとして各地を旅するのではなく、ハンガリーに留まったことで、更なる民謡の採集が進み、民謡の編曲なども行います

この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものですが、ピアノ小品や親しかった女性ヴァイオリン奏者シュテフィ・ゲイエル

に贈った
『 ヴァイオリン協奏曲第1番』(ゲイエルの死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集の影響が表れています。
1908年の『弦楽四重奏曲第1番』にも民謡風要素が含まれています。ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始めます。

1909年、ツィーグレル・マールタ(Ziegler Márta)

と結婚。
翌1910年には長男ベーラ(バルトーク・ジュニア)が生まれます。

この年、フレデリック・ディーリアス(1862-1934年)
1912年ディーリアスの肖像画イェルカ

と知り合い、彼の作品の影響も受けます。

そんな時作曲したのが『2つの映像』作品10、Sz.46、管弦楽曲です。

マジャール(ハンガリー)民謡

マジャール人達
の収集活動の中で民謡の特徴を分析し、自らの作品に生かしていく道を歩み始めていましたが、同時に教会旋法や全音音階などを使用して新しい響きを打ち出したドビュッシーの作品にも強く影響されています。
ドビュッシー(1862-1918年)

この作品は、そのドビュッシーに対する共感とドビュッシーの影響をも自分の語法の中に消化していこうという意識が前面に押し出された作品です。

第1曲 花ざかり
ハンガリー語のタイトル“Virágzás”は厳密には「花」という意味です。

第2曲 村の踊り




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