木曜日は、今年最後の「聴き合い会」でした。
ビウエラの斉藤さん
1820年頃の6キーのフルート
でボワモルティエを吹いたのは角谷雅一さんとピアノ神澤さん。
もちろんモダンフルートやいつものギター。
が来てくれてピアノの神澤さんと一緒に「ドリー組曲」を演奏しました。
1740年
ハンブルク近郊のベルゲドルフに生まれ、最初は父親に音楽教育を受けます。
と親しくなり、彼に師事し、その音楽を身に付けました。
の招きで1742年と1745年に赴いてオペラの公演を行いました。
の戴冠式では祝典の為の音楽劇《エジェリアEgeria》の作曲を努める栄誉を得ました。
今回は古楽器のヴィオラ・ダ・ガンバの有馬さんとフルートトラヴェルソの今川さん、田中さんのハッセのソナタを演奏。
リュートの樋口真希さん
ビウエラの斉藤さん
1820年頃の6キーのフルート
でボワモルティエを吹いたのは角谷雅一さんとピアノ神澤さん。
もちろんモダンフルートやいつものギター。
クラリネットの小林さん
が来てくれてピアノの神澤さんと一緒に「ドリー組曲」を演奏しました。
ヨハン・アドルフ・ハッセ( 1699- 1783年)神聖ローマ帝国ベルケドルフ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没。
1740年
ハンブルク近郊のベルゲドルフに生まれ、最初は父親に音楽教育を受けます。
素晴らしいテノールの声の持ち主だったため、彼は劇団員の道を選び、1718年にラインハルト・カイザーが指揮するオペラ劇団に参加しました。
ハッセは歌手として成功を収めたことで翌1719年にブラウンシュヴァイク=リューネブルクの宮廷劇場と契約し、その後作曲も担うようになり、この地で1721年に、オペラ『アンティゴノス』(Antigonus)をもって作曲家デビューを果たしました。
この最初の作品の成功によりブランシュヴァイク公は、ハッセを勉学の完成のためにイタリアへ遊学させました。
ハッセはヴェネツィア、ボローニャ、ローマを訪問したのち1724年にナポリへ着きます。
ナポリでアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725年)
と親しくなり、彼に師事し、その音楽を身に付けました。
彼の作曲した二声のセレナータはスカルラッティから学んだ音楽で作られ、成功を収めました。
この成功によってハッセの名声は高まり彼は単に有名なだけではない人気を得、ナポリ人から「親愛なるザクセン人(イル・サロ・サッソーネ)」と呼ばれるようになりました。
1726年にナポリの宮廷オペラのために作られた作品『セソストラート』(Sesostrato)は、彼の名をイタリア中に知れ渡りました。
1727年にヴェネツィアへ移ったハッセはそこで有名な歌手のヴェネツィア貴族の娘ファウスティーナ・ボルドーニ、人気台本作家の詩人ピエトロ・メタスタージオと出会います。
メタスタージオとハッセは意気投合して親友となり、以後2人は終生の友情を保った。
1730年にザクセン選帝侯兼ポーランド国王フリードリヒ・アウグスト1世の宮廷楽長に任命されたハッセは、直後にファウスティーナ(1697-1781年)
ファウスティーナの肖像(ロザルバ・カッリエーラ画、1730年代)
と結婚し、ボルドーニ家の養子となってヴェネツィアの市民権を得ました。
と結婚し、ボルドーニ家の養子となってヴェネツィアの市民権を得ました。
ザクセン公はすぐにドレスデンへ来ることを望みましたが、ハッセはおそらく妻の要望によってヴェネツィアに1年間留まり、ドレスデンへ移ったのは1732年の7月でした。
ハッセは9月にドレスデン初のオペラ『クレオフィーデ』の作曲をすると、後は再びイタリアへ行き、さらに1733年にはロンドンへ移りました。
ロンドンで彼は、ヘンデルと対立している排他的な派閥に、この大家の競争者になるように誘いをかけられています。
しかし彼は賢明にもそれを丁重に断って、ロンドンには貴族オペラ・カンパニー発足のこけら落としとして上演されるオペラ『アルタセルセ』(Artaserse)(初演は1730年、ヴェネツィア)のリハーサルを監督をするだけの期間のみ滞在し、1734年になるとドレスデンに戻りました。
ファウスティーナはドレスデンで歌手として活躍していましたが、1733年にフリードリッヒ・アウグスト1世が崩御し、フリードリッヒ・アウグスト2世(1794-1773年)
が即位した後、次第に彼女の宮廷での人気が衰え、ハッセにヴェネツィアへ帰るように促します。
ハッセは長期休暇を取る権利を与えられていた為、望まれる度に外国へ招かれ、特に妻ファウスティーナの実家のヴェネツィアには妻を伴って度々赴き、妻が望むままに長期滞在を重ねました。
ハッセはイタリア人に、その官職と貴族の養子であることから、シニョーレ・サッソーネ(ザクセン卿)と呼ばれ、敬愛されました。
プロイセンには国王フリードリッヒ2世(1712-1786年)
の招きで1742年と1745年に赴いてオペラの公演を行いました。
フルート奏者でもある国王はハッセのフルート音楽も愛好していたと見られています。
1943年以降はウィーンにも度々訪問し、アントニオ・カルダーラ亡き後創作意欲を欠いていたメタスタージオを喚起させ、彼の台本によるオペラを初演しました、その間ドレスデンでも積極的に作曲し、その影響はドイツの他の都市にも広まりました。
1763年にフリードリヒ・アウグスト2世が崩御し、ハッセは高額の年金をもらい受けて宮廷楽長の職を引退しました。
しかしハッセの創作意欲はいまだ衰えず、彼は家族とともにウィーンへ移り、親友メタスタージオの台本で、更にいくつかのオペラ作品のウィーンでの初演を担いました。
1765年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(1741|1790年)
の戴冠式では祝典の為の音楽劇《エジェリアEgeria》の作曲を努める栄誉を得ました。
彼の最後の劇場用作品は、ミラノでのオーストリア=エステ大公フェルディナンドの婚礼のために制作された
オペラ《ルッジェーロRuggiero》(1771年)です。
既に引退していたハッセでしたが、大公の母マリア=テレジアがこちらも引退を決めていたメタスタージオに、ハッセが音楽を作ることを条件に台本作製を引き受けさせていたので、ハッセも親友の最後の仕事に力を貸す決断をしました。
同時に15歳のウォルフガング・モーツァルトの作品、セレナータ「アルバのアスカーニオ」も上演されました、
この時ハッセが「このような才能が出てきては我々はすっかり影が薄くなってしまうだろう」と言ったとレオポルト・モーツァルトの手紙に記されています。以前モーツァルトに会った時のハッセは友人への手紙に「父親が息子を甘やかしてその才能を駄目にしないか心配だ」とモーツァルトの将来を慮っています。
1781年ファウスティーナが没し、翌年メタスタージオがこの世を去ると、翌1783年にハッセも、名誉と成功に彩られた84歳の生涯を終えました。
ハッセとファウスティーナは共に同地のサン・マルクオーラ教会(Chiesa di San Marcuola)に埋葬されています。
アリア「やさしい4月の緑に」トラヴェルソ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、ソプラノの演奏です。
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