プロージットオーケストラでお隣のオーボエさんのリードが気になります。
譜面台にカップをつけて湿らせながら使います。
は、1945年に「オーボエ協奏曲」を作曲しています。
ジョン・デ・ランシー(1921-2002年)
楽器の優越性を早くから公言していて、それによる演奏を想定しています。
でも1948年12月18日から20日にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会でハンス・カメシュ(Hans Kamesch)が最初に演奏しています(指揮はヴィルヘルム・フルトヴェングラー)。
パレットみたいでかわいいです。
譜面台にカップをつけて湿らせながら使います。
もう一人オーボエくんのは、
なんかゴージャスな入れ物。
これは譜面台にトレイをくっつけてカップもパレットも一気に乗せておくタイプ。
なんかゴージャスな入れ物。
これは譜面台にトレイをくっつけてカップもパレットも一気に乗せておくタイプ。
整然としてきれいです。
この前オーボエのリードについては書いたので、これだけなのですが、フルートは金属化して自然のもので残っているのはタンポのフェルトとそれをくるんでいる羊の腸の皮くらいです。
以前は自分で調整したりなんかしていましたが、最近は腕の良いリペアマンにお任せなので、自分で調整できるところはほぼありません。
たがらなんだか懐かしく、羨ましくもあるのです。
リヒャルト シュトラウス(1864−1949年)ドイツ連邦バイエルン王国バイエルン生まれ、ドイツ連邦共和国バイエルン州ガルミッシュ=バルテンキルヒエン没
は、1945年に「オーボエ協奏曲」を作曲しています。
第二次世界大戦終戦直後の1945年。スイスのチューリッヒ近郊で作曲されました。
この頃シュトラウスはバイエルン、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの山荘に滞在していました。
そこへアメリカ陸軍の軍曹だったオーボエ奏者のジョン・デ・ランシーが訪れました。
ジョン・デ・ランシー(1921-2002年)
ガルミッシュへの米軍進駐はヒトラー自殺の前日(4月29日)から平和裏に行われ、その中に防諜担当のアルフレッド・マン中尉(Alfred Mann)がいました。
マンはドイツから亡命したユダヤ人で、兵役前は音楽学を専攻していました。5月になってデ・ランシーの所属する部隊が到着した時、マンは以前から面識のあったデ・ランシー軍曹をシュトラウスに紹介しました。
デ・ランシーは
「あなたの作品にはオーボエの素晴らしいソロが多く出てきますが、そのオーボエのための協奏曲を書くつもりはないのですか?」
と問いかけましたが、シュトラウスは「特にありません」と返答しました。
デ・ランシーが引き上げてしばらくした後、シュトラウスは気が変わり、同年の秋から移住したスイスでオーボエ協奏曲の作曲を始めました。
ただシュトラウスはデ・ランシーの名前を正しく憶えておらず、「ピッツバーグ」も「シカゴ」と誤記しています。
初演は翌1946年2月26日にチューリヒで、マルセル・サイエのオーボエ独奏、フォルクマール・アンドレーエの指揮、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団によって行われました。
シュトラウスが独奏者に希望したデ・ランシーは曲の完成すら知らないまま既に除隊・帰国し、後に行われたアメリカ初演でも、在籍していた楽団の都合で結局吹くことができませんでした。
デ・ランシーは1964年になってから1度だけ演奏しています。
シュトラウスはフランス式(世界的に一般的なコンセルヴァトワール型)
楽器の優越性を早くから公言していて、それによる演奏を想定しています。
ウィーン式の楽器
でも1948年12月18日から20日にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会でハンス・カメシュ(Hans Kamesch)が最初に演奏しています(指揮はヴィルヘルム・フルトヴェングラー)。
1948年にブージー&ホークス社から楽譜が出版された際、シュトラウスは全曲の終結部分を少し長めに書き足しました。
現在はその改訂版で演奏されることが一般的です。
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