マイアベーアを書いたら、ドゥメルスマンについて書かなくてはなりません。
ドゥメルスマン Jules Demerssemanは、フルート奏者とサックス奏者にとってはとても大切な作曲家ですが、他の音楽家にはあまり知られていません。
1833年1月9日フランス北部のHondschooに生まれました。44年にパリ王立音楽院に11歳で入学し、ソルフェージュをAlexandre Tariot、フルートを Jean-Louis Tulouに、和声をCouletと、対位法とフーガをAimé Ambroise Leborneに学んでいます。入学の翌年、ソルフェージュ力について評価され、フルートで一等賞を取っています。
1852年、対位法とフーガでローマ賞をとっています。
彼のフルーティストとしての活躍は、1856年パリで始まりました。
ライヒャは、書評に「ドゥメルスマンより完璧に演奏し、楽器で歌う演奏を、聞いたことがない。」
フェテは「彼の演奏は、光り輝き、非常に明晰で洗練されていた。」と書いています。
もし、彼が1866年12月に、33歳の若さで亡くならなければ、よく知られる作曲家に必ずなっていたはずです。
ドゥメルスマンはパリでよく知られたフルートの名手で、「フルートのパガニーニ」とか、「フルートのサラサーテ」とニックネームがついていました。
しかし、パガニーニの活躍は演奏家に限られていましたが、ドゥメルスマンは光輝く演奏家であるだけでなく、作曲家でもあったのです。
フルーティストとしてのドゥメルスマンの才能は、Edward Blakeman著「フルートの天才」の中でタファネルが「ドゥメルスマンはこのように演奏した。」「ドゥメルスマンはこうだった。」「ドゥメルスマンは・・・。」と何度も演奏のお手本として述べていたと書いています。
しかし、ドゥメルスマンは、パリ音楽院の教授には考慮されませんでした。それは、彼の教授トゥルーの影響を受け、新しく開発されたベーム式フルートを使わず、古い形のトラベルソを使い続けたからです。
そのことは彼の人生に大きな影響を与え、早すぎる死を招いたように思われます。
それは一方、彼の熱い思いと、強固な性格を表していると感じさせます。
作曲家としてのドゥメルスマンは早く亡くなりましたが、なくなるまでに、多くの作曲をしました。殆どは、彼の楽器フルートとピアノのために、いくつかのオペレッタ、フルートソナタ、そしてサックスのためのものなど。
彼の多くの作品はパガニーニのように、彼の得意のフルートのテクニックを見せるためのものです。彼は、特別な贈り物をする作曲家でした。不思議な魅力に満ちたメロディは、彼の正確なテクニックが可能にする動きの喜びに満ちています。
La Princesse Kaïkaは、1859年に初めて演奏された彼のオペレッタで小さな劇場the Folies-Nouvellesで上演されましたが、すぐにthe Paris Casinoで、演奏されました。(その中でショパンの主題による幻想曲が演奏されました。)また、その中の歌が、民衆に受け入れられ歌われました。
そして音楽史上、最も重要なものはサックスのための作曲です。
ドゥメルスマンはAdolphe Sax (1814-1894)と友人で、彼が新しい楽器サックスを考案し、歴史上、ドゥメルスマンがその楽器を使って作曲した初めの作曲家となったのです。
参照 Luc Vertommen
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます