日曜日母不在。昼食後、父を夫と連れ出しました。
最近は座ってばかりで、筋力が落ちて数歩歩くと、ふらふらして、椅子に座りたがります。
運動するように、促してもなかなか動いてくれません。
里山に連れ出せば、少しは歩くかも。
と、車で山城方面へ行くことにしました。
それと、夫はクワガタが気になるので、山城。
緑が濃いです。
緑につられて父もカートを押して少し歩きました。
萩の花。
秋の季語ですが、この辺りでは、涼しいのか、早くから咲いています。
一家に 遊女も寝たり 萩の月
松尾芭蕉
旅の途中市振で泊まった宿に、たまたま遊女も同宿していた。
自分が月で遊女が萩のように思えてくる。
市振の宿につくと、夜通し若い2人の女の声が隣室から聞こえてくる。
次の朝、
覚束ない身を訴え、芭蕉に同行を頼む遊女たち。自分たちは、どこに泊まるとも決めず、さすらう旅の途中なので、一緒に行くわけにはいかない。と断わります。
曽良が日記に書き留めた。
と、芭蕉が書いていますが、曽良の日記には、記述はなく、遊女は、芭蕉の創作だと思われます。
萩の花は、可愛らしく、枝垂れていますが、藤の花のように豪華でも、上品でも無い。
小さく、そこら辺の山里や、道端にありふれて咲いています。
そうそう足を止めて見る人もいません。
そんな、風情が遊女の面影を思わせたのでしょうか。
そう思うと、この句を生んだのは、萩の花のような気がしてくるのです。
老境の芭蕉の句、遊女と一つ屋にいるなまめかしさよりも、寄る辺ない彼女たちとさすらう自分たちの不安定な身を、一夜重ねて、別れてみせた。
月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた、旅人なり
という、奥の細道のテーマが浮かび上がってくる一句だと思います。
父との時も、後何時あるか?
大切に重ねたいと思います。
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