音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

熱い思い出

2008-08-09 22:55:30 | Weblog

また、森へ来てしまいました。imagesお盆休みですが、夫と明石まで、息子に手伝わせて仕事の残りを片付けに、名神の大渋滞のナンバープレートは秋田、鹿児島、岡崎、福山、愛知…。私たちも、お休み気分で仕事の後、兵庫県立三木山森林公園へ、今日出会ったのは、色、つや、大きさといいみごとな、森の王様というべき、かぶとむしimages静かな木陰images imagesそして、やっぱり夕方から雷雨images

今日は、森の中でトランペットを練習している人をみつけました。ブラスバンドの個人練習かな?ミュージックエイトの楽譜で「ペッパー警部」とか、「ルパン3世」なんかを、クーラーもない高校の屋上の部室で、汗をかきかき練習していた頃を、思いだしました。

エイトの楽譜はフルートはスケールか、後打ちリズムでなぜか必ずペットや、アルトサックスとほとんど重なっていて吹いても自分にさえ聞こえない。それでも、真面目に後うちを練習していました。
今ふりかえると、そんな自分がいとおしいです。よくがんばっていたね。って言ってあげたい。

今も、たくさんの中高校生がブラスバンドを練習しているんだろうなぁ。なんだかうれしい。暑い中がんばれ


レッスン♪

2008-08-08 23:13:30 | Weblog

堂島川images淀屋橋images市役所前ミストimages
今日は、梅田でレッスンでした。いつも、京阪淀屋橋から梅田まで歩きます。2時頃、歩くとメッチャ暑いです。市役所前のミストは、冷気が漂っています。やっぱりヒートアイランド現象に効果あるのかな?

アルテ3巻 23Aは快調。DUOは本当に楽しいです。4度であがるのはいいけれど、降りてくるのはちょっと、まだ苦手。23Bは同じ曲の転調。「フラット系の方が、楽なんだよね。丸にしないで、次のレッスンは、両方しようね」なんだか先生、…うれしそう。また、練習しなくっちゃ。

今日もドボルジャークのソナチネ。
「音をもっと、聴いてみて。」「ほら、全然違うでしょ。」
「自分が鳴らしている音を聴く自分、外でなっている音を聴く自分、自分の中でなっている音。3人の自分を持って、その音を聴いてごらん。自分の中でなっている音だけを聴くと、音がこもって外に出て行かない。外から自分を客観視して聴くと、音が広がっていくから。」

確かに音が違います。

「音を出した時にはこうかな?どうかな?とか不安に思わない。へんだったら言うから。不安に思ったらその音が伝わるから。」

本当にそうなんです。私の生徒さんはこれを聴いたら、おもしろがると思います。いつも、私が生徒さんたちに言っていることだから。言うは易し、行なうは難し。先生の耳はごまかせません。
今日も、ばれてしまいました。精進、精進。










バッハ追想

2008-08-08 00:36:08 | 名曲

蘭のアランダの一種だと思います・・・たぶん

疲れた時、心がささくれ立ったような時に、バッハを演奏すると段々と心が落ち着いてきます。
モーツアルトが脳に良いという話は一般に流布されていますが、バッハについてはそういう話は聞きません。

私は結構、根暗なのかもしれません。バッハのソナタ集を片っ端から吹いていると、近所の友達から「なんか暗い曲ばっかり吹いてたね。何あの曲?」と言われたことがあります。

確かに同時代のヴィヴァルディや、ヘンデルと吹き比べてみると、暗い感じはしますね。

中でも無伴奏フルートソナタは根暗い。
バッハは教会音楽を作り続けた人です。
人生は楽しく明るいことばかりではありません。仕事、経済、家族、そして死。全てにおいて思いのままになる人など、ほとんどありません。その全てを冷静に見つめ続けた人のような気がします。

ベルリンの壁が崩壊したお祭り騒ぎの中、ロストロポーヴィッチが壁の前で演奏することを選んだのは、バッハのソナタだったのも、わかるような気がします。

長い年月、たくさんの命を奪い、悲劇の元凶だった壁がなくなった喜び。生と死、愚行と、犠牲を飲み込んだ壁を象徴し、しかもやっぱり喜び。生命の勝利の喜びを表現するにはバッハしかないと思います。
バッハの音楽には嘘がない。嘘がないものに出会ったとき、私たちの背中に一本筋が通リ、元気になれるのだと思います。

バッハの音楽は語ります。人生は苦しみや、悲しみが多いものである。でも、悲観しなくてもいい喜びと楽しみも同じだけあるのだと。


再生の嵐

2008-08-06 23:09:36 | Weblog

今日は、夕方から雷雨でした。この辺では一時停電。香里園付近の冠水で京阪も一時不通。しかし、スコールのような雨にも段々慣れてきました。Es-minerのスケールを練習していると、まるで、黒い重たい雲を呼んでしまったような気がしてきます。

雨の音を表現した音楽は、ベートーベンの「田園」、ビバルディの四季の「夏」などが思い浮かびますが、最近の豪雨には、どれもやさしすぎる気がします。そういえば、前に、夏にヨーロッパに一ヶ月いましたが、雨は2日位しか降らなかった、シャワーのようにさわやかで、やさしい雨でした。傘を持っている人も見ませんでした。
雨の降り方がこれだけ違うと、表現も変ってくるのも当然かと思います。

スコールのような豪雨は、ヨーロッパではむしろ海の嵐や、あふれる川のイメージで表現されていることが多いような気がします。メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」や、スメタナの「モルダウ」、リムスキーコルサコフの「シエラザード」、ビバルディの「海の嵐」もありましたね。フルートでは、ライネッケの「ウンディーネ」最終楽章の川が氾濫する様子は圧巻です。
リストの「交響詩前奏曲」も雷鳴とどろく、嵐の感じがします。

こういう音楽を聴くと、嵐は昔から人々によってあらゆるものを昇華し、浄化を行い、再生をもたらす。と考えられてきたのがよくわかります。

この豪雨が浄化と再生の嵐となりますように。


クワガタの森で

2008-08-06 00:51:57 | Weblog

ミヤマクワガタimagesアサギマダラimagesタマムシimages
日曜日に行った里山には、虫がいっぱい。民家があったり、茶畑、田んぼ、しいたけの菌糸を植えてあったり、地名は他にありますが、私たち家族はずっと以前から「クワガタの森」と呼んでいます。

自然はいろいろなことを教えてくれます。大きなくわがたが、マニアの間では高額で取引されているそうですが、樹液を飲む場所を確保するために、オスのくわがたたちの闘いが繰り広げられています。
体の大きなオスが小さなオスをあごで引っ掛けて投げ飛ばします。樹液の周りにはメスも寄ってきて、メスは投げられずに樹液を飲んでいます。強いオスは、エサにありつくだけでなく、交尾して子孫も残すことが出来ます。

それなら、大きなクワガタばっかりになりそうだけれど、そうはなりません。気候不順のえさの少ない年にはえさがたっぷりいる大きなクワガタは体を維持できず。少しのえさでいきていける小さな体のクワガタが子孫を残すことが出来るそうです。

種の繁栄には、多様性が必要と言うことですね。

音楽も多用な音色を持つことで、表現の幅がひろがります。
バッハとシューベルトを同じ音で演奏することはできません。武満やショッカーもまたそうです。とかく私たちは一番を決めて、そればっかり追い求めてしまいますが、本当の豊かさはそれとは外れたところにあるような気がします。
その他にもコンクールなどで、一番の人はいいけれど、そうでない人でも、心打つフレーズを演奏されることがあります。学び、能力を伸ばすことに貪欲であるならば、どんなことからも学べると思います。学ぶと言うことは、フルートのためにとか、仕事のためにとかということではなく、自分自身の人生のキャパシティを広げると言うことと同じ意味なんだと最近思います。

何より、苦しい時、何もいいことがない。と思えるような時、こちらの方向へ歩いていけばいいんだなぁとおもえる。それは本当に幸せなことだと思います。


私の師

2008-08-04 23:13:26 | 音楽

私の先生のコンサートの宣伝をさせてください。

柴田孝治郎 竹中裕深 サマーコンサート「爽籟に流れる心とチェロとフルートと」

8月17日(日)PM2:00開演(1時開場)ドルチェ・アーティスト・サロン
お問い合わせ ドルチェ楽器 06-6377-1117 チケット¥3500.-
■プログラム■ 
ヘンデル ソナタ ト長調、バッハ ソナタ ト短調、ピアソラ ミケランジェロ‘70
大中寅二 椰子の実 柴田孝治郎 丘照之夏

チェロと合わされるのは本当に、久しぶり。私は始めて聴きます。とても楽しみです。

師弟関係というのは、本当に不思議です。私には今、二人の先生がいます。ひとりはこのフルートの柴田先生。もう一人は心理学、人間関係学の出口和世さん。柴田先生とは20年以上。出口さんとは10年になります。

出口さんに「仕事とは車の両輪、一つは技術(中身)、もう一つは人間関係。その両輪があれば、成果があがるけれど、どちらかが低ければ、低い方に成果はよってしまうものだよ。そして、人間関係とは相手の話を聴くこと。ほとんどみんな聴かずに話しています。井戸端会議でも話す順番を待っているだけのことが多いです。発信ばかりでなく、入れた分だけ出せばいいのだと思います。」と言われれば、柴田先生に「吹こう吹こうとしていると、一生懸命だけど、聴いている方は苦しくなってくる。お客さんや、部屋の空気を感じて(聴いて)、その波にふっと乗っかればいいのよ。」といわれます。お二人は会ったことがありません。言葉や表現の方法は違うけれど、同じようなことを同じ時期に言われていつもドキッとします。

先生と呼ぶ人を持たない人も多いですが、私は、最低一ヶ月に一回はこのお二人に会わないとだめ。重心がぶれてきます。人や、家族や、日常の中にいると、自分が何を大切にしたいのかが、わからなくなってきます。達人はそれでも見失わないのでしょうが、私はすぐ見えなくなってしまいます。

どんなことでも、人の歩む道は誰かに灯台のように照らしてもらうことが必要なのかもしれません。芭蕉に西行が、柴田先生に曽根先生がいて、モイーズ先生がいたように。連綿と続いてきた奥の深い細い道を思います。歩むのは自分の足で、一人で歩むしかないのです。特に何でも自分で選ぶことが出来る現代では。それでも、師や仲間は必要です。不思議な縁でつながった人の絆の不思議を感じます。


里山

2008-08-03 23:20:05 | Weblog

来週と言いながら今日、行っててしまいました。ドボルジャークのソナチネ。原曲はヴァイオリン。子どものためにかかれました。ドボルジャークの特徴が良く出ています。シンプルですが、美しく親しみやすいメロディがたくさん入っています。もちろん、森の中で演奏しました。暑くて、蚊にやられますが、森のオーラがまずい演奏もカバーしてくれるみたい。とても気持ちいいimages京都山城森林公園の近い里山の風景images今日のお客様は美しい玉虫images深い森の緑imagesミヤマクワガタは撮影の後、森に放してきました。images他にも交尾中のノコギリクワガタや、ヒラタクワガタもいました。images危険なスズメバチや、かわいいカナヘビも。家から30分も車でいけばある里山は本当にありがたい場所です。日差しは変らなくても、暑さは森の木陰や、渡ってくる風の中で半減します。練習していてもすれ違った車は数台。歩いている人はほとんどいません。images森の音に耳を傾けながら吹くと、私の演奏から無理矢理なところが消えていき、人間は自然の中の生き物だということが改めて実感できます。自然の中でぜひ演奏してみてください。きもちいいですよ。


大脳ペンディング理論

2008-08-03 01:27:14 | Weblog

関西空港のロビーにちいさな中庭があります。コンクリートの照り返しの中で咲く、睡蓮は本当にけなげで、でも、堂々としています。

大勢の子どもたちが、音楽のレッスンをしています。早期教育の教室の数を数えても切りがなく。子どもたちは前向きです。希望や期待ではちきれています。子ども本人だけでなく、大人たちの期待。親は子どもが後ろ向きになっても滅多にあきらめない。子どもたちは、調子のいいときも悪い時も、励まされたり、叱られたりしながら、練習を継続することになり、しかも、家事や、仕事をしながら、将来のいろんな心配事もなく、家庭が作り上げた環境の中それだけに集中することができ、結果として短い間に成果を手に入れます。

一般的に、大人は子どもに比べて学ぶ効率が悪く、柔軟性がなく、成長もしないといわれています。でも、ほんとうにそうでしょうか?

人間はどんな大天才でも、脳の10%(最近違う研究結果も報告されていますが、大きくは違わない)しか使わないで死んでいくそうです。そしてパターン化した情報処理や仕事にはほとんど脳を使わないそうです。
そして、脳は関連のないものを、関係のありそうなもの同士として集約してまとめるのが得意らしいです。そしてそのことが、大人が新しいことを学ぶのが、難しい理由の一つだそうです。

この関係ないものをつないで分類するというのは、情報を処理するための、大切な脳の役割なのだそうです。新しい情報が入った時に、判断して分類し、整理し、そして、いらないことは切り捨て、大切な情報骨組みだけを残す。次の情報を入れる場所ができる。

ところが全く今までの知識や経験が使用できない情報が入った時に、知識や経験がありすぎる大人は、無理矢理にでもどこかに押し込んでしまわないと、落ち着かない。結果として、誤った分類箱に情報は入れられ、使用できなくなってしまう。
急がしく動き続けないといけない大人は、この能力のおかげで社会を生き抜いてきたのだけれど、そのおかげで、新しい情報を入れる場所を誤ってしまう。それが柔軟性のなくなる原因だそうです。

確かにそういわれれば、ニュースでもなんでも、こういうことも考えられるけれど、こうかもしれない。なんていう情報が入ってくれば、なんだか落ち着かない気もちになってしまいます。
ペンディング状態、取りあえず、新しい情報が入ってくるまではおいておく、というのはとても難しいです、
事件報道に接すると、ゴシップや情報が少なくてわからないことでも、あーでもない、こーでもないと取りざたしてしまうのは、私もよくすることです。

これが、脳を活性化できない原因なら、では、意識的にペンディング状態を作り上げたら、どうなるのでしょうか?
疑問を疑問のままでおいて置く。「問い」を立て続ける。「分かった」と言わないでおく。
完璧な演奏が出来たと思わない。自分の出した音を聴きながら、「いい演奏ができているのだろうか?」「いい音がでているのだろうか?」と問いを立て続けてみる。

登山家の三浦さん、日野原先生、森光子さん。年を重ねて、どんどん能力を磨き続けている先輩がいらっしゃいます。彼らは一つのことを続けていらっしゃいますが、同じだけれど同じではない。毎日、新しい発見を続けていらっしゃるのだと思います。毎日の日常の時間の間ずっと、あらゆる角度からアプローチし、考え、問い続けてられているような気がします。今よりもっと能力を伸ばすにはどうしたらいいのかしら?と。

…名づけて大脳ペンディング理論世迷いごとでしょうか?


里山

2008-08-02 00:55:18 | Weblog

胡蝶蘭は花が蝶の羽の形に似ているところから、その名がついたそうです。やっぱり綺麗。

子どもが小学生の頃は、練習する時間がなくて困りました。休みの時は、家族でいる時間も大切にしたいし、練習もしたい。息子二人はじっとしていられない。
特に虫好きな上の子は、寝ても起きても、授業中も虫、虫。
夏は、6月頃からもうカブトムシ、クワガタとり。車で近くの里山へでかけ、クワガタや、カブトムシを取りました。
夫と、息子二人は、崖を登ったり、クヌギの木の根を掘ったり、樹液の出ている木の穴を懐中電灯で照らしたり。
蚊に噛まれたり、泥だらけ、汗だくになりながら、クワガタ採集に。

私は、途中まで、お相伴していましたが、思いついて、フルート持参するようになりました。森の中で練習。
蚊取り線香を譜面台に木のつるでひっかけて、ゴーベールのソナチネなんか演奏しました。
風が吹くので、クリップであちこちとめて。蚊取り線香していても噛まれましたが。
谷底の川べりで吹いていると、オニヤンマが横切っていったり、大体同じコースを行くので、しばらくするとまた戻ってきたり。鶯や、ヒヨドリ、シジュウカラが一緒に鳴きだしたり。うるさい、ハエや、スズメバチがブーンと飛んできたり。

せせらぎや風に揺れる木立の大きな森の持つリズム・・・波のようなものに音楽がフウッとのっていく。そんな気がします。遠くの山の頂上の木の葉の揺れまでが音楽にあっている。不思議な瞬間があります。

そのうち、こどもたちが、虫かごに今日の収穫を持って帰ってきます。6月からミヤマクワガタに、カブトムシに始まって、ノコギリクワガタ、コクワガタ、まれにオオクワガタ。オスが何匹で、メスが何匹。大きいやつを持って帰って、残りは逃がす。腐葉土を森の土から、古木をひらって帰る段取り。

そんな相談を3人で嬉々として話してくれます。ほとんど毎週、夏休みの週末は100円の網と、バケツと虫かご。それだけで楽しみました。もう上の子は来ないけれど、下の子はまだ来るかな?来週末くらいまた、いってみようかな?


瞑想

2008-08-01 00:47:23 | Weblog

サンタンカ(山丹花)の花は匂いのしない、熱帯の金木犀、庭木に多く植えられています。と言うのは私の主観で、実際はモクセイ科ではなくて、アカネ科です。

昨日レッスンに行きました。曲のことはあまり言われずに、姿勢のことばかりでした。姿勢を正すと確かに良い音がします。

終わって先生としゃべっていると、サックスを吹きに来ているお寺さんに会いました。高野山で修行された若者です。髪がありましたが、一年に一度、お盆には髪を切って、坊主で檀家を回るそうです。
修行中は起きて半畳、寝て一畳。雑巾かけ、洗面器の水一杯で、頭と顔を洗い、トイレの作法も決まっています。
食事は肉食を禁じられ、朝は一汁一菜。断食の行は、丁子の枝を噛みながら勉強したそうです。究極のエコロジー。

S先生は声明にフルートをあわせたことがあるそうです。四七抜き音階を適当に合わせて乗り切ったけれど、なんともいえないいい気持ちになったそうです。

座禅をくんで、瞑想していると、風の音、衣ずれの音、雨の匂いなど、感覚が研ぎ澄まされて、部屋の遠くでヘアピン一本落とされてもわかるそうです。
集中と言う意味を以前、私は取り違えていました。一つに意識が行って他の事がわからなくなることだと思っていましたが、実際には全ての感覚がオープンになっていて、全てのことにニュートラルで、意識的に対応できる状態らしいです。
それはフルートを演奏するときの状態。楽譜を読み、ピアノの音を聴き、息を吐き、舌を動かし、腹筋をコントロールし、姿勢を保ち、お客様やホールの具合を計算し、自分の出している音を聴く。感覚を、心、体を意識的に動かす状態にも言えることです。

音楽は祈り。実際に何かことが起きるわけではありません。命の輝きのような、人の力を信じている証のような、気がします。修行しましょう。