今日は朝から生徒さんの発表会の伴奏あわせ。
ピアノのSさんのお宅で、合わせました。
ピアノとフルート。合わさって一つの曲です。
いつもはソロで吹いているので、ピアノが入ると、勝手が違って、とまどったり、逆にうまくいったり。
舞台に上がると、二人で一つの演奏を作り上げることになります。
相手の音を聴きながら、しかし、自分の演奏もしっかり作り上げていなければなりません。
初めは、うまくいかなかったけれど、だんだん調子が出てきました。
この調子で練習していれば、きっと本番もうまくいくでしょう。
生徒さんが帰ってから、日曜日に手に入れたブリジアルディのベルディのファンタジー曲集をあわせてみました。
オペラの原曲ものは、おもしろいです。椿姫のファンタジーは、原曲を愛しすぎたのか、ヴィオレッタのアリアが二つ丸々そのまま入っています。ヴァリエーションの方がほんの少し。ブリジアルディの気持ちすごーくわかります。
良い曲ですもの。
こんど、この曲集 ぶっとおしデイを作ろうとSさんと約束しました。
ゴールウェイのマスタークラス後半は、3人の受講生の公開レッスンです。
一曲目は、ライネッケのソナタ ウンディーネ。
曲の初めの低音のEの音程を気をつけること。特に低音のE Dは難しい。
スケールの練習を欠かさないように、アンデルセンのエチュードop.15を、今幼い子どもたちにするよう言っているそうです。
そのために、自分も毎日練習しなくてはならなくなった。
スケールは本当に大切。
音の連携を考えて、それから「Don’t hit a key!」みんなも一緒にと、この言葉をくりかえして叫びました。
「キーを叩かないように!」大切です。
ブレスは、口を大きく開けないで、小さな音のしないブレスをしましょう。
2曲目は、ゴーベールのファンタジー。
ここでも Eの音を気をつけること。5小節目の2拍目から、少し暗めにファンタジーの世界に入るような感じで。
29小節目はルバートで。
30小節目の高音のAのために、身体を準備すること。左の3指を少し開けると、出しやすいそうです。(オープンキーにかぎる)
ゴーベールは、ブレスは長い音の後で取る。と言っていたそうです。
ビブラートは長い音にかけます。短い音にはかけない。
ビブラートの練習は、お腹できるタンギングで、初めはゆっくり♪=100一拍くらい、それから、だんだん早くしていって、最後には繋げるという練習を一日5分は続けて毎日すること。
最後はドルメルスマンのコンチェルト第7番。
美しい良い曲、ゴールウェイ「大好き。」だそうです。
スタカートを短くしすぎない。この時代は、よくわからないとすぐスタカートをつけたそうです。
8日に、ゴールウェイのマスタークラスに行って来ました。
初めに、ホールのみんなで、フルートを持って、基礎を学びました。
1、立ち方 2、持ち方 3、楽器の当て方。
それぞれのポイントを実演。
アンブシャーは、残念ながら、と言われながら、笑うようではなく、口角を下げ、への字の口でしっかりとあてること。
それぞれ文章では書けませんが、大切なのは、毎回、練習のたびにポイントをチェックすること。練習の途中でも、曲の途中でも、チェックすること。だそうです。
それから、マウスピースだけの練習。ロングトーンを吹いてみる、そして、オクターブ上。そのとき、少し上の音が低い気がするのは、普通に吹くと、下の音が高くなるからだそうです。調整して吹いてみる。ポルタメンして、上下に吹いてみる。
次に、片手で、管をふさいで、音を出してみる。4つの音を行き来。
二つ、四つの音は、同じ口では出ないことが、この練習からわかります。
楽器を繋いで、スケールの練習。
スケールは、機械的に決して吹かない。どのスケールも、曲を吹くように、イメージを持って。実際にDdurならDdurの曲のフレーズを吹いてくださいました。
本当に、スケールがきれい。
クロマティックも同じ。どの音も、連携がうまくいくように、隣同士の音をできるだけ滑らかに演奏するように意識すること。
質問で、夏の暑いときなど、汗で口が滑ってしまうのですが、何か対策は?というのがありました。
実際に舞台に質問者をあげ、いつも持っているやり方をしてもらうと、いきなり、フルートをひっぱりました。「僕は、あなたの倍くらい、引っ張ってもとれません。」強く押し当てているそうです。
緊張してしまうのですが?どうしたらいいでしょう?と言う質問には、
「緊張は、僕もします。緊張するのは、悪いことではありません。緊張していないと、良い演奏もできません。」
休憩時間中も、舞台上にセットされた机とイスに座ったままで、短い曲を吹いたり、スケールをしたり、楽しそう。
明日は、受講生の曲を見たときの講義を報告したいと思います。
今朝は、11月3日(祝日)開催の、「第8回 手と手ジョイフルコンサート」の会場、メセナひらかたの職員さんとの打ち合わせでした。
ピアノのKさん、Tさん、Sさんと私の門下の発表と、今回はフルートのKさんと、ピアノのKさん、私でトリオコンサートを企画しています。
はじめは1年半に一回。最近は1年に一回開催しています。もう、10年以上にはなるでしょうか?
中の一部で、ボディパーカッション、フルートのS先生、ヘルマンハープ、ヴァイオリン、チェロ、ミニオペラなど、ピアノとフルートに限らず、いろいろな人にも参加してもらってきました。
目的は年齢、性別、経験を問わず、音楽を楽しむ人とつながること。
メセナひらかたは、4人の活動する地元のホールであるばかりでなく、担当スタッフKさんはじめ、協力して作り上げる姿勢がとても気持ちの良い場となっています。
今回も、50名近い出演者、子どもたちのデータプレーヤーの設営や、ドラムセット、コーラスのひな壇など、いろいろなタイプの設営に、適切な助言を頂いて、混沌としていたコンサートの輪郭が浮かび上がってきました。
最後のきめ台詞は「考えておきます。何とか、考えたら、ちょうどいいのがでてくるんです。」という、メセナKさんの言葉。今までも、本当に丁度いいのが出てきました。安心して任せられます。
音楽は、こういう人たちに支えられてできるのです。
一人でできることなんて、たかがしれています。
みんな、一生懸命練習しています。後はお客様をまつばかり。
今年もどうぞよろしくおねがいします。
今朝は子育てサロン。
ピアノを弾くのはうまくないですが、パネルシアターに合わせて、「どんぐり ころころ」とか、手遊びにあわせて「ぞうきん しぼりましょ」とかを弾きます。
へたくそなピアノでも、みんな歌ったり、踊ったりしてくれます。
もっとすごいのは、スタッフのみんな。
間違っても、抜けても、どんどん歌って、場をもりあげてくれます。
パネルシアターは、見るだけですが、以前からあった、おもちゃのぬいぐるみを、子どもたちに配って、どんぐりと一緒に、シアターの中に入り遊んでもらうオリジナルまで作ってくれました。
子どもたちは大喜び。
大成功!
来月は、運動会をします。またまた、いろいろおもしろいことを目論んでいます。
どうなることやら、お楽しみ。
芙蓉は、学名が変わりやすいハイビスカスと言う意味があります。芙蓉、むくげ、タチアオイ、ハイビスカス全てアオイの仲間です。
フルートコンヴェンションのレクチャー、3日目、一時間目。
堀井恵&ザピーネ・ザイフェルトさんによる、
「子どもの才能をいかに伸ばすか(続)感性から知性へ、そしてその先へ」
-言語・モチーフ・フレージング-
前回2009年第14回コンベンションで行われた、レクチャー「子どもの才能をいかに伸ばすか」の続編です。2年前の講座も参加し、ブログにアップしました。
前回は、3歳~小学生低学年までの子どもたちへのレッスンは、感性を刺激することの大切さを、講義されました。音楽を聴いて、それを自分が感じるままに物語を作り、絵にして、演奏とともに、発表されたりもありました。3年女子!
成果を目的とせず、楽しく遊びの延長でレッスンすると言う話もされました。
今回は、前回DVDの調子が悪く、上映できなかった画像から始まりました。
3歳の新村理々愛さん(前回コンクール金賞、今回ピッコロ部門金賞16歳)の。レッスンは、リコーダーを使ったり、動物のモチーフをつかったり、おなべや、フライパンを使ったリズム遊びなど、5分と同じことをくりかえさないそうです。
聴覚、触覚など、五感と動きの感覚が大切、例えば砂を触った感覚など、音楽を理解するイメージのもととなる感覚を養うことがまず肝心です。
耳を開ける=聞こえるように導きます。日本人が聞き分けない音声の違いを、目覚めさせます。例えば、新橋と新宿の「ん」はヨーロッパでは、「N」と「M」です。
タンギングは、1タタ鳥さん 2ドゥードゥー などと発音して、リコーダーの頭部管で吹いてみます。
触覚を使ってリズム遊び、これがおなべを叩いたりというもの。また、踊ったりします。
ビンを吹いて、音程を変えてみる。
1年生くらいになると、フルートの頭部管を使って、3オクターブ吹いたり、ポルタメントをふいてみたりします。
高学年になるとともに、だんだんフルートを吹いていきますが、息を吸う位置、小節線の上ではとらないなどは、厳密に守るように言います。
言語と音楽の関係は強く、フランス語の「TU」と日本語の「つ」は違うので、そういうことを踏まえれてタンギングなどを吹き分ける必要があります。
音楽の流れを身体で感じることが大切で、和性的機能。発展の進行と、解決など、時間をかけて説明します。
何より大切な教師の役割は、生徒の演奏を聴き、まず、自分でどう感じるかを聞き、失敗を恐れないと言うことを伝え、音楽の素晴らしさを伝え、情熱に火をつけることだそうです。
何人か門下の子どもたちがデモ演奏しましたが、どの子どもも、暗譜で、堂々と生き生きと演奏していました。
ハウツーを書きましたが、
ザピーネさんは「子どもになにか教えると言うより、一緒に遊ぶんです。」
堀井恵さんは、「子どもは素晴らしい感性が豊かで、純粋で。僕は教えると言うより、いつもおしえられているんです。」
と言う姿勢が、こどもたちが自ら考える力と、自信を育んだと私は思いました。
母を病院に迎えに行き、退院の手続き。カテーテルを入れた左腕が痛いらしいけれど、他は元気。病院近くの平和堂で買い物をしてから、帰りたいといいます。
日用品を買い、それだけかと思ったら、ブティックに寄り、ランチに誘われ、スーパーで夕食の材料を買って、やっと帰りました。
「腕はまだ痛むの?」と聞くと、「それほどでもなくなったわ。」腫れも引いています。しかし「頭が痛いわ。」と言っていましたが、12時に病院を出て、帰ったのは4時前。夕飯ももう自分でつくるそうです。「じゃ、帰るね。」と言ったら、「ちょっと待って。」と、庭で取れた茗荷をくれました。もうシーズンも終わったかと思い短くかりこんだら、今まで以上に大きく、見事な茗荷がいくつも取れたそうです。
本当に美しい。
釈迦の弟子のスリバンドクが、物忘れがひどく、自分の名前さえ忘れてしまう。仕方ないので、釈迦が、名前を書いた札(名荷)を首からぶら下げたが、それをかけたことさえ、忘れてしまった。というお話しが、「茗荷を食べると物忘れをする」という由来として語られてきたそうですが、実際には逆に、音から当てはめられた茗荷の名から、創作されたお話しだそうです。元々は妹香(めのか)で、物忘れどころか、香りに集中力を高める成分が含まれているそうです。
家に帰ると、父が「お帰り、足は大丈夫やったか?」と母に声をかけました。
「ちがうちがう、心臓やんか。」と母が応じると、
「そうやったか?」昨日も、足で入院したと父が言うので、一通り説明すると、「そうか。」と言っていたのですが…実害はないし、おもしろいから、良いけど。
スリバンドクは、若年性の認知症だったんじゃないかと思います。
父はそのうち自分の名前もわすれてしまうのかな?
父は畑に行って、サツマイモとねぎを収穫してきてもたせてくれました。こちらの方はしっかりしたもの。
両親との時間を大切にしたい。
芙蓉の花が今は盛りです。
母を8時半に病院に送り、検査を待っていると、昨日よりもう少し詳しいことがわかってきました。
心臓の血管が細くなって映ってなかったこと、検査して状態によってはそのまま手術すること。
診断名は労作時狭心症、時々胸の痛みがあったらしいです。手術というのは、手首の血管からカテーテルを挿しこみ、心臓を取り巻く血管の狭くなっているところまで行き、小さな風船をふくらませて、ステントという金属のパイプを入れ、血管の壁の細くなったところを広げて補強するというものです。
11時前になってようやく順番が来て、造影剤を点滴し、睡眠薬を飲んで、検査へ、
私は外で待っていましたが、なかなか終わらない。一時間後、ナースが来て、「やはり、治療が必要になりましたので、手術をしています。お時間がもう少しかかります。」と言いに来てくれました。
それからも、2時には終わると聞いたのに、時間がかかり、もって行った本を、半分以上読んだ3時頃、やっと帰ってきました。
母は「食事は野菜中心だし、味付けも濃くは無い。お酒もコーヒーもあまり飲まない。運動が足りんかった。帰ったら、水泳しよ。近所のスポーツクラブ、みんな行ってはるし。水の中で歩くぐらいやったら大したこと無いわ。」と、言ってます。
「急なことせん方がいいんとちがう?」という私の声もどこふく風。
その後先生が、エコー画像つきで、状態を説明してくれました。
カテーテルを使う治療って、経皮的冠動脈形成術って言うんだそうですが、そういう難しい言葉は使わずに教えてくれました。
カテーテルが、血管の中を通っていく様子や、風船をふくらませるところ、何より、血管が収縮する様子の画像は、感動物でした。
今回は2箇所ステントを入れましたが、他にも細いところがあるので、経過観察し、また手術ということもあるそうです。
「母は水泳を始めたいと言っていて、運動してもいいですが?」と聞くと、「他に血管が細くなっているから、やめてください。今までやっていたことの延長ならいいでしょう。」
ということで、母の目論みは消えました。
まあ、とりあえず、この手術のいいところは、すぐ立ち歩いたり、食べたりできるところ。明日退院できそうで、ほっとしました。
金木犀の強い香りが、町中漂っているような気がします。
引越しの片付けに追われていると、母から電話。人間ドッグにいったら、心臓でひっかかって明日検査入院、一泊2日。年を重ねると、いろいろ出てきます。病院で「「誰か聴いて貰える人は?」と言われて、考えたら娘しかなかった。」と母が電話で話すのを聞いて、父はもう社会的責任をおえなくなったんだなぁ。と改めて思いました。こういうところから、だんだん終わっていくのです。
誰しもがいつか通る道。どう老い、どう死ぬのか?は、人類共通のテーマです。
身内の老いは、それを見せてもらえ、学べるチャンスです。
社会的責任を一つづつ、降ろし、仕事、友人、家族。最後に残るのはなにでしょう?
力にゆとりがある頃にできていたことが、少しずつ面倒になり、人と会わなくなり、しかし、最後に自分を律するのは自分しかない。
中学教師だった父は、よく机に向かって勉強していましたが、もうそれはしなくなり、趣味の絵もかかなくなりました。
老人会のカラオケには、まだ欠かさず行きますが、以前歌の意味や、紀行文を書いてくばっていましたが、パソコンが使えなくなり、もうやめています。
新聞は隅から隅まで読み、教育問題は気になるらしく、憤慨したり、嘆いたり。ですが、好きだったイチローの事を聞いてももうわかりません。しかし、阪神タイガースの勝敗はきっちり知っています。
貸し農園の、作物は雨以外、毎回行って世話をしています。
買い物も行きますが、家に何があるのかは、把握できず、要らないものを買っては母に叱られています。
母は、若い頃と変わらず、よく動いているように見えますが、やはり、いろいろ無理がきているようです。
昨日もいつもと変わらず、生活した後、「今日、死ぬから、みんなを呼びなさい。」と、家族、友人を呼んで和やかに別れの挨拶をして、静かに亡くなる人が時々います。
どうしたらそんな風に亡くなることができるのか?
また、両親はどう老いていくのか?私はどう老いて死ぬのか?
人間はどこまで成長することができるのか?
または、どう成長しない部分を受け入れるのか?
壮大な課題です。
秋の空になってきました。府道13号線。淀川の堤防を走って、今日は島本町へセミナー参加。
一つは、人に何かを言うとき、または、自分の気持ちにあうように言って、相手が気持ちよく聴くということがあると思っていないか?もしくは、相手の気持ちに合うように言って、自分が気持ち良いというコースがあると思っていないか?
もう一つは、外からの力によって自分ができていることと、自分が選んでできていることの区別がついているかどうか?
三つ目は、人間関係で、問題を自ら作り出してはいないか?
一つ目は、私の場合、夫が引越しの時に誤って私の本を、捨ててしまった。本当はすごくショックで怒っていたけれど、「とっとくっていってなかったから。」という夫に、それ以上気持ちをわかってもらう言葉を重ねなかった。そして、その後、さわやかにはいられなかった。
二つ目は、息子が挨拶をしない。しつけがうまくいっていないということ。振り返れば、自分が思春期、母からしつけられたことを思い出せるか?しつけとは、身を美しくたもつ「躾」である。親が社会と子どもを結びつけるためにしたことで、本当にそれが身についていれば、社会に貢献することで、それを使っているはず。
ただ、親の力で押し付けられたと受け取り、その場限り言うことを聞いていたなら、それは使えないはず。
自分が押し付けと、「躾」の見分けもついていないのに息子をしつけられるはずがないのです。
三つ目は、友達が、3回聞いても、メールをなかなか返してくれないことで、もう、自分と会いたくないのだと勝手に思い、悶々としていた。相手はなんと思っているのかわからないのに。
人と対峙しているときに、自分にこの3つの問いを立てられるか?
問いを持ちながらいるということは、柔らかいということ、決め付けない。固まっていない。
いくら人のことでやってもだめ、また、自分の中だけでやってもだめ。
どれだけ自分の問題でできるか?
自分だけでやると、問いも答えも自分のライフスタイルでしてしまう、人に言ってもらって、言ってもらって、やっと、何歩か進むことができます。
帰り道、空気が澄んできたのか、飛行機雲が何筋も見えました。美しい。