音楽の喜び フルートとともに

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8人の子どもたちのために

2024-10-05 21:00:00 | ロマン派
今日朝1番で子育てサポート。
上の子を保育園に送る間、下の子をみています。
よく寝ます。
ちょっと心配になったのは、自分で寝返りをうって

うつぶせになって寝ています。
気持ちよさそうです。
しばらくじっと見ていましたが、やっぱり心配になって、ネット検索してみました。

SIDSの原因ははっきりしていないのでうつぶせ寝が原因がどうかはわかっていません。
しかし、確率は上がるそう。
1万人に1人位。
多くはないけれど1歳までの赤ちゃんはうつぶせ寝をしていたらあお向けにしてください。と書いてありました。

しばらく見て起きないので、ゆっくりあお向けにしました。
今度はあお向けでやっぱりぐっすり。

どうなのかな?また新しい事実があがってくるかもしれません。

「うつぶせ寝の赤ちゃんから目を離すな。」と専門医は言いますが、なかなか大変なんじゃないかな?
10分ごとに確認しなさいとか…。
一緒に寝ていても10分ごとに起きて寝息を確認して、あお向けにしていたらおかあさんは夜中眠れない。

多勢の子どもたちを預かる保育園でも難しいんじゃないかな?
もちろん私のように2時間ほどなら見守っていられますが…。

ヨハネス ブラームス(1833-1897年)自由ハンザ都市ハンブルク生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

1853年ブラームス
は、親しかったロベルト・シューマン(1810-1856年)


が1856年に亡くなってから、シューマンの妻のクララとその子どもたちを支援しました。

シューマンには8人の子どもがいてシューマンが亡くなったとき、1番上の子どもマーリエで15歳、1番下の子どもはフェリックス2歳でした。

その中で『15の子どものための民謡集』を子どもたちのために贈りました。

邦題「眠りの精」op.31-4はドイツ語Sandmӓnnchen」
を直訳すると「砂の精」です。

アントン・フォン・ツッカルマグリオ(1803-1869年)の『ドイツ民謡集』(Deutsche Volkslieder)

からブラームスが編曲した『15の子どものための民謡集』
Winterthur: J. Rieter-Biedermann, n.d.(1858). Plate 60.
の第4曲です。

砂の精はドイツなどの国々で、夜子どもたちの目に砂を撒き、眠くさせる妖精で、民話や民謡によく登場します。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『Ole Lukøje』向けにヴィルヘルム・ペダーセンが描いたザントマン
ザントマン(Sandmann)は、ドイツなどヨーロッパ諸国の民間伝承に登場する睡魔のことです。

英語読みでサンドマン(Sandman)、砂男のことです。
姿の見えない妖精ですが、一般には砂の入った大きな袋を背負った老人の姿で描かれています。

ザントマンが背負っている袋の中には眠気を誘う魔法の砂が詰まっています。
彼は夜更けになると人々の目の中にこの砂を投げ込みます。

すると、人々は目が開けられなくなり、眠らずにはいられなくなってしまいます。

古くからドイツでは、夜更かしをする子どもに「ザントマンがやってくるぞ」と脅して寝かしつける習慣がありました。

眠りの精(砂の精)

花々は眠っている、
既に月の光の下で。
花々は頭を垂れている、
細い茎の上で。
花咲く木も静かにざわめいて
夢の中のようにささやく。
眠れ、眠れ、眠れよ、我が子よ。


女郎花オミナエシの頃

2024-10-04 21:03:00 | 日本
実家の色紙も秋の女郎花(オミナエシ)
女郎花の花、最近見かけませんが、
お能に「女郎花」という演目があります。

作者不詳。
場面は男山八幡の麓。ここ枚方から3駅京都寄り。

紀貫之(866-945年)

の「古今和歌集仮名序」が典拠とされています。

世阿弥の頃にはもうあったそうです。

九州松浦潟に住む僧が都を見ようと思い立ち、筑紫潟を通り、ついに京都の山崎まで至ります。

ここで故郷の宇佐八幡宮と御一体という石清水八幡宮へ参詣しようと男山へ向かえば、野辺には女郎花の花が咲き乱れていました。

僧は女郎花の花を一本、土産に手折ろうとすると花守なる老人が現れ、これを制止します。

僧と老人は花を折ることの是非について、互いに古歌を引き合い論じ合いますが、やがて僧は諦めます。

すると老人は僧を認め、八幡宮へ案内します。

男山の麓に連なる家々や放生川の魚、
御旅所への参拝が謡われ、続いて、三つの袂に影うつるしるしの箱を納めた神宮寺、巌松そびえ山そびえ谷めぐり諸木の枝を連ねる有様や、本殿参拝については朱(あけ)の玉垣、みとしろ(神前の御戸帳)の様子などが謡われます。

岩清水八幡宮本殿
参拝が済む頃にはすでに夕暮れとなり、その別れ際、僧は女郎花と男山の関係について質問します。

老人は山の麓の男塚と女塚まで僧を案内し、男塚が小野頼風

八幡市民図書館に近い和菓子店「志゙ばん宗」の裏にある小さな五輪石塔「頼風塚」「男塚」


松花堂庭園の西隅にある小さな五輪石塔を「女郎花塚」「女塚」
女塚は都の女の墓であると説明します。

しかし今は誰も弔う人が居ないと嘆き、夢の如く老人は消えてしまいます。

その夜、僧が同じ場所で読経すると、頼風夫婦の亡霊が現れます。

女は、自分が都の者で、かつて頼風と契りをこめたと言えば、男は、どうして少しの契りに罪があろうか、暫く離れていたことを真に受けるのか、とこたえます。


すると女は、深い恨みの心から放生川
現在の放生川
に身を投げた顛末を語ります。

これを聞きつけた男が泣く泣く女を葬ったところ、塚より一本の女郎花が咲きました。

男は妻が女郎花になったと思い、花の色になつかしさを感じ、花へ立ち寄った。しかし花は退き、また男が立ち退けば、花はもとにもどるのでした。

この様子を紀貫之は「男山の昔を思って、女郎花の一時をくねる」と書き、後世まで懐かしまれるようになったのだといいます。

さて頼風は女を哀れみ、これもひとえに自分の咎であるから同じ道にゆこうとつぶやき、同じく放生川に身を投げ、共に葬られることとなりました。

「女塚に対して男山ともいう、その塚はこれであり、その主は自分であり、幻ながら来たのである、どうかあとを弔ってください」と頼風の亡霊は僧に願うのでした。

そのころ頼風と女は地獄で邪淫の悪鬼に責められていました。
頼風が剣の山の上に恋しい人をみつけ、喜んで行きのぼれば剣は頼風を貫き、磐石が骨を砕く。いったいどんな罪のなれの果てだろう。

国立能楽堂 能の図 女郎花
一時の情欲をむさぼり、恋慕に沈んだことも今思えばつまらぬことであったと頼風は、成仏を願って僧に訴え続けるのでした。









地球儀と描かれた歌集

2024-10-03 21:04:00 | ルネッサンス
夕方5歳児をお預かりしました。
子育てサポーター、本当は火曜日と水曜日預かる予定でしたが、火曜日は子どもが体調不良になり、水曜日と木曜日。

「前何をしてたっけ?」
「電車描いてたんと違う?」と私。
「違うよ。それは終わってその後。」
「なんだったけ?」
幼稚園の帰りの車の中で思い出しました。
「日本地図!」
「そう!」
前週日本地図の歌を歌いながら、地図を描いてくれました。
これがよくできた歌で歌うと47都道府県の名産と名前を覚えられます。
次はなんの特徴だろう?と大人でもつい興味を持ってしまいます。
調べたら山口あいさんの作詞作曲でYouTube動画あがっていました



1533年、ハンス ホルバイン(1497-1543年神聖ローマ帝国アウグスト生まれ、イングランド王国ロンドン)

の描いた「大使たち」には、

イングランド王ヘンリー8世のローマ・カトリックからの離脱を思いとどまらせようと、フランスからロンドンへ送られた外交官ダントヴィルとその友人の司教セルヴ(右)が描かれています。
ヘンリー8世

自身の命令で描かれました。

2人の当時の年齢は、ダントヴィルについては、彼が手にしている短剣の柄に


ド・セルヴについては、彼が右ひじを置いている書物の側面に入れられた書き込みから、


それぞれ29歳と25歳と推定されています。

2人の間にある棚には、様々な道具類が並べられています。

上段の左端には、天文学あるいは占星学のための天球儀が置かれており、これには、動物の図柄とともに、いくつかの星座の名称がラテン語で記されています。

その右隣には、円筒状の日時計が立てられており、この状態では、4月11日もしくは8月15日を示しています。

下段の左端には、地球儀が置かれており、これは、ニュルンベルクで1523年に発表されたヨハネス・シェーナー制作のものを写したものだそうです。

その前の方で半開きになっている書物は、天文学者であり地理学者でもあったペトルス・アピアヌスによる “Kauffmanns Rechnung”(数学書) (1527年)です。

その右隣で両開きになっている書物は、ヨハン・ワルター作曲の讃美歌集 “Geystlich Gesangk Buchleyn” (1524年)です。

讃美歌集には、マルティン・ルターの讃美歌および十戒のパラフレーズが写されています。
その近くに、11本の弦のうち1本がなぜか切れてしまっているリュートの他に、フルートを何本も入れたケースが描かれています。

これらの道具類は、数学、音楽、地理学、天文学を象徴していて、これらの4つの学科は、クワドリウィウム (quadrivium) を構成するものであり、2人の人物の高度な教養もしくは知性を表現しています。

画面左上には、キリストの磔刑像が、カーテンの後ろに半ば隠れるようにして見えています。

2人が立っている床のモザイク模様は、ウェストミンスター寺院の内陣のそれを模写したものであるとされている。

その床面の上には、長細い形状をした物体が描かれていますが、これは、アナモルフォーシス(ゆがんだ画像を円筒などに投影したり角度を変えてみたりすることで正常な形が見えるようになるデザイン技法)という画法が用いられており、画面の右方もしくは左方から鋭角的に見ると、頭蓋骨です。

頭蓋骨は、死の象徴。若くて可能性に満ちあふれていたとしても、死はいつ訪れるかわからない、というテーマが隠されています。

「Geystlich Gesangk Buchleyn」
「霊的歌集」
合唱用にハーモニーをつけた最初のドイツの賛美歌集1524年にヨハン・ワルターと、マルティン・ルターと共同でルターの24曲を含む32曲の宗教歌が収められています。

「トーデス・バンデンのキリストの遅れ」テノールパート

ワルターは3~5パートに編曲し、メロディーはテノールで演奏。
ルターはパート集に序文を書きました。このコレクションは、すべてのプロテスタント歌曲のルーツと呼ばれています。 




おばあさんのメヌエット

2024-10-02 21:02:00 | 国民楽派
火曜日は、朝から母の検診。
大動脈弁を手術して3年目。
心臓外科の先生に「経過は良好!今日で卒業しましょう。後は内科の先生に見ていただきましょう。」と満面の笑みで言われました。
母も嬉しそう。

「ありがとうございました。」
ということで、心臓外科の方は卒業しました。

イオン久御山の王将でお昼を食べて、帰りました…ということになるわけがなく。
「服を見たい。」
と言うのでいつものブティックへ。
すると、びっくり!
そこにあった4.5軒のお店が全部無くなって無印良品になっていました。

すべて無印で揃えられます。
私はフリーズドライのスープを、母はカーディガンとセーターのアンサンブルを買いました。
生鮮食料品を買って、実家まで送っていると、栗東の長男から母のスマホに電話。

「今日は早く仕事終わったから、行ってもいい?」
「いいよ!何時頃?」
「6時。」
「明日は休み?」
「違う。」
なんと、2時間かけて夕食を食べに帰ってくるのです。
ありがたいおばあちゃんです。
母は早くから出る幕がありません。
「ありがとう〜。」
と、母に言うしかありません。

エドヴァルド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー ベルデン生まれ、ノルウェー ベルデン没

の、ピアノ曲集「抒情小曲集」は


1867年24歳から1903年60歳にかけて作曲されました。
全66曲。6~8曲ごとにまとめられて出版され、全10集からなります。
第1集はコペンハーゲンの出版社から、第2集以降はドイツのペータースから出版されました。

「蝶々」(作品43-1)、「春に寄す」(作品43-6)、「トロルドハウゲンの婚礼の日」(作品65-6)などは特に有名です。

第9集は1898年55歳ら1899年56歳初めに書かれ、同年に出版されました。

1867年に結婚した従妹でソプラノ歌手のニーナ・ハーゲルップ(Nina Hagerup, 1845年 - 1935年)

への愛を表現した「あなたのそばに」や、1歳で亡くした子どもへの「ゆりかごの歌」などが収められています。

「おばあさんのメヌエット」作曲の意図詳細は不明ですが、グリーグのなんとなくユーモラスで温かい眼差し、案外ピリッとしたところもあるおばあさんの姿が目に浮かびます。


抒情小曲集第9集
1.水夫の歌

2.おばあさんのメヌエット

3.あなたのそばに

4.山の夕べ

5.ゆりかごの歌

6.憂うつなワルツ

第9集 第2番「おばあさんのメヌエット」





再演されたバレエドナウの娘

2024-10-01 21:00:00 | ロマン派
月曜日、2:00ドルチェ楽器さんでバスフルート見てもらいました。


リペアの人によると、タンポが古くなっていてイビツになっていてタンポ交換が必要だそうですが、ノーブランドの楽器と言うことで、部品が入らないことから調整不能だそうです。

それでも、油だけはさしてくれました。
やっぱり新品パールのバスフルートをおすすめされましたが…

梅田から本町に移動。
御堂筋線の本町駅から徒歩9分。

写真は信濃橋跡。
ここからまだ歩きます。

背中にはバスフルート、コロコロにコンサートフルート楽譜とすだち25個。
アンサンブルのみんなにわけようと思って。重い〜!

夕方5時から本町スマイルズミュージックで練習室を予約。
今川さんとクーラウのフルート二重奏op81を2時間練習。
これは、10月5日フルートアンサンブル「エスカル」の合宿で榎田先生のアンサンブルレッスンを受けるための練習です。

その後、広い部屋に移って11月24日今川さんのフルート教室の発表会で「エスカル」有志メンバーで演奏するボワモルティエのフルート五重奏とミュージカルから編曲で「踊り明かそう!」の初合わせ。2時間。

荷物は重たかったけれど、充実の1日でした。
すだちも喜んでもらえて嬉しかった〜!


信濃橋は、西横堀川に架けられていた橋の一つです。

 西横堀川は、永瀬七郎右衛門によって開削されたと伝えられ、土佐堀川から道頓堀川にかけて大阪の中心部を南北に貫流する川で、その沿岸には種々の商家、なかでも材木商と瀬戸物商が軒をつらねていました。

 信濃橋は、古くは富田町橋(とみたまちばし)その後は問橋(といばし)と呼ばれ、元禄年間(1688~1704)の記録に信濃の名がみられます(橋長13間1尺 約25.9m、幅員2間 約3.9m)。

 大正2年の市電の開通に伴い、三径間の単純鋼鈑桁の鉄橋に架け替えられました(橋長23.0m、幅員22.0m)。

 その後、阪神高速道路の建設が進められるなか、昭和39年から同46年にかけて西横堀川が埋め立てられ信濃橋はその姿を消しました。
大阪市 ホームページより

全く面影はありません

ドナウの娘(ドナウのむすめ、原題: La fille du Danube)は、1836年に初演された全2幕のバレエです。

ドナウの娘』を演じるM・タリオーニ(左)とJ・マジリエ(右)(1836年)
『ジゼル』(1841年)で知られるアドルフ・アダン(1803-1856年)フランス共和国パリ生まれ、フランス帝国パリ没

の曲に一世を風靡した名バレリーナ、マリー・タリオーニ(1804-1884年)

のために父フィリッポ・タリオーニ(1777年–1871年)

が台本と振付を手がけました。

1880年にマリウス・プティパ

がレオン・ミンクス

の編曲によりサンクトペテルブルクで再演した後、長らく上演が途絶えていました,
1978年にピエール・ラコット(1932年 - )
が、フィリッポがアダンに与えた指示書などをもとに復元し、ブエノスアイレスのテアトロ・コロン劇場

においてギレーヌ・テスマー(フルール・デ・シャン)とミカエル・ドナール(ルドルフ)を初演キャストに迎えて上演しました。

なお、1999年にPaul Chalmersも、タリオーニ版の復刻をイタリアのヴェローナ・バレエ団のために発表しています。 

「ドナウの娘」
第1幕
ドナウ川の岸辺で発見され、村娘として育った美少女フルール・デ・シャン。

彼女には将来を誓い合った恋人ルドルフがいます。

ある日、男爵の城で花嫁を選ぶ舞踏会が催され、村に住む未婚の娘が全員招かれる。フルールは身体が不自由なふりをして求婚を逃れようとしますが、却ってその姿を哀れに思った男爵から求婚されてしまいます。

男爵
それを止めようとしたルドルフは男爵の従卒たちに捕らえられ、進退窮まったフルールは城のバルコニーからドナウ川に投身してしまいます。

第2幕
フルールの投身を目の当たりにしたルドルフは、男爵や従卒たちを振り切って自分も川に身を投げます。

パベル・ゲルト(ルドルフ役)(1880年)
ルドルフが辿りついたドナウ川の水底には、ドナウ川の女王と沢山の水の精たちがいます。女王は「水の精たちの中からフルール・デ・シャンを見つけよ」とルドルフに命じます。

彼は見事にこの試練を乗り越え、女王の祝福を受けて、二人は共に地上へと還ります。