音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ブラームスが交換したがった曲

2024-12-11 21:00:00 | ロマン派
月曜日の夜は渡辺橋近くのサロン・ド・ぷりんしぱるでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

定期演奏会が終わり、次の選曲入っています。
前回候補のドボルザークの「セレナーデ」は神戸で練習した時に榎田先生。

「他の楽章はうまくなる気がしねぇんだよ。だから第1楽章だけにします。」

大阪エスカルで練習した後も
「いい曲なんですよ。これはドボルザークにしては泥臭くなくて。それをこんなふうに演奏するなんて!」とお冠りですが、第1楽章はまあ練習は続けることになりました。

もう一つの候補はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」。

「この曲はね。ブラームスが聴いたときに、『僕が作ったすべての曲と交換してもいい!』と言ったぐらいの名曲なんですよ。」

初見でやってみたら、「この編曲者はフルートのことを知らないなぁ。」
これを続けるかどうか?未定になりました。

フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809- 1847年)自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没

1839年
ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニスト。

『フィンガルの洞窟』(フィンガルのどうくつ)作品26は、メンデルスゾーンが1830年に作曲した演奏会用序曲です。

原題は『ヘブリディーズ諸島』(: Die Hebriden)です。

ヘブリディーズ諸島
日本語では通称の『フィンガルの洞窟』の方が多く用いられています。

メンデルスゾーンが初めてイングランドを訪れたのは、20歳の誕生日を祝ってドイツ人貴族グリンケンの招待にされた時でした。
イングランド旅行に続いて、メンデルスゾーンはスコットランドに進み、その地で交響曲『スコットランド』を着想します。 

スコットランド旅行中にメンデルスゾーンは、嵐の夜のヘブリディーズ諸島を訪ねてスタファ島
スタファ島
に辿り着き、観光客に人気のフィンガルの洞窟で霊感を受けました。

当時フィンガルの洞窟は35フィートの高さと200フィートの水深があり、玄武岩の色とりどりの石柱からなっていました。

メンデルスゾーンはその後直ちに序曲の創作を開始。
主題を書き下ろし、それを姉ファニーに書き送って次のように書き添えました。

「僕がヘブリディーズ諸島にどんなにひどく感銘を受けたか分かってもらえるように、頭に思い浮かんだものを姉さんに届けようと思います」

メンデルスゾーンを嫌っていたリヒャルト・ワーグナーさえもこの作品を「一流の風景画のような作品」として絶賛していました。

作品は1830年12月16日に完成されました。

当初は『孤島』(Die einsame Insel )と題されていました。

1830年
その後、メンデルスゾーンは譜面に手を入れ、1832年6月20日に改訂作業を終えると、『ヘブリディーズ諸島』と改名しました。

にもかかわらず、『フィンガルの洞窟』という通称も使われました。

パート譜には『ヘブリディーズ諸島』と題されていましたが、総譜には作曲者自身によって『フィンガルの洞窟』と題されていたためです。

総譜フィンガルの洞窟1832年
初演は1832年5月14日にロンドンで行われ、演奏会用序曲『夏の夜の夢』も併せて上演されました。

自筆譜はオックスフォード大学ボドリー図書館に保存されています。

この作品は、序曲と題されていますが、単独で完結した作品として意図されています。

物語性はなく、標題音楽に分類することはできません。この作品ではむしろ、気分やいくつかの光景を描き出しており、いわば描写的な標題音楽の先駆けに位置付けられています。

作品は2つの主題で構成されています。

冒頭の主題は、メンデルスゾーンが洞窟を訪れた後に書き付けた主題で、主にヴィオラ、チェロ、ファゴットによって呈示されます。

この情緒的な主題は、洞窟の力強さと心打つ美景を想起させつつ、侘しさや孤独感を表出することが意図されています。

一方の第2主題は、海の動きや「逆巻く波」が描写されています。

標準的なソナタ形式で作曲されており、コーダにおいて最初の主題が戻ってきて結びとなります。
……………………………………………………………、
初めての一人旅でスコットランドを訪れた、メンデルスゾーン。まずエディンバラで歴史に思いを馳せ、スコットランド交響曲の冒頭を書きました。そして次に向かったのは、大自然あふれるハイランド地方でした。

中世からスコットランドの首都として栄えていたエディンバラを訪ねたメンデルスゾーンは、非常に文化的で、深い歴史をもつ都市に大きく感銘を受けました。7月31日、メンデルスゾーンはエディンバラの南部を訪ねたのち、北に向けて出発します。

次の目的地、スターリング(Stirling)では、具体的にどこへ立ち寄ったのかは語られていませんが、スコットランドの歴史において重要な位置を占めるスターリング城に立ち寄ったのではないかと言われています。

スターリング城
丘の上に建てられており、13世紀からの歴史をもちます。 

翌8月1日には、スコットランド高地へ向かい、自然にあふれた森へ足を踏み入れます。ここでは大雨に見舞われながらも、シェイクスピア『マクベス』でも言及されている「バーナムの森」を含むさまざまな場所でスケッチを楽しみました。

バーナムの森(メンデルスゾーン作、1829年8月2日)
船酔いに苦しみながらたどり着いたフィンガルの洞窟
8月6日まで、ハイランドの険しい自然を体感したのち、8月7日にスコットランドの港町オーバン(Oban)へ到着します。この地は、1794年に開業したウィスキー蒸留所によって発展した小さな港町です。

到着した日に早速、オーバンの古城であるドゥノリー城をスケッチし、そのまま船に乗って隣のマル島(Isle of Mull)へ向かいます。

ドゥノリー城(メンデルスゾーン作、1829年8月7日)©︎Mendelssohn in Scotland

ドゥノリー城

スコットランド西部のヘブリディーズ諸島の中でも、かなりの規模を誇るマル島ですが、いくつかの港町は栄え、それ以外の地はほとんど手付かずの荒れた自然が広がっていました。

8月7日、蒸気船でマル島のトバモリー港に到着したメンデルスゾーンは、家族へ次のように宛てています。

「小さい頃から、ヘブリディーズ諸島とヘスペリデス諸島を混同していたよ。

この島には、果実が実っている木なんてどこにもないし、もしオレンジがあったとしても、ホット・ウィスキー・トディ(スパイス入りのホットウィスキー)の中にしか入っていないよ!(中略)
しかし、ヘブリディーズ諸島は本当に素晴らしいところだ。そこで浮かんできた音楽を送るから、ここがどれだけ素晴らしくて、僕がどんな印象を抱いているのかをぜひわかってほしい。」

ヘスペリデス諸島とは、ギリシア神話内に登場する、女神たちが住む世界の西の果てにある島で、オレンジや黄金のリンゴなどの果物が育つ果樹園があるとされています。

スペインのカナリア諸島がモデルになったと言われていますが、メンデルスゾーンはこの島とヘブリディーズ諸島を昏倒していました。

そしてこのときに、両親に宛てた手紙の中で書いた音楽が、まさに演奏会用序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》冒頭のスケッチでした。

実はこの曲の冒頭は、洞窟とは関係がありませんでした。

演奏会用序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》のスケッチ
当初は《孤島》というタイトルが付けられていましたが、のちに作曲者自身によって《ヘブリディーズ諸島》や《フィンガルの洞窟》と改名されました。

港町で1泊し、一行はさらに離れた無人島のスタッファ島(Isle of Staffa)へ行きます。

スタッファ島こそ、フィンガルの洞窟のある場所でした。
無人島のため桟橋がなく、メンデルスゾーンは、島の近くまでは蒸気船で向かい、そのあとは手漕ぎボートで島へ向かいました。

フィンガルの洞窟は、波の侵食によって削られてできた洞窟で、火山のマグマが急激に冷えることでできる六角形の柱によって形成されています。

メンデルスゾーンは、フィンガルの洞窟から戻ってきてから、
 
「前回の手紙からどれだけのことがあったか! ひどい船酔い、スタッファ島への旅、見事な風景……クリンゲマンがすべて説明してくれていると思うので、短いメモ程度にとどめておきますが、これだけは言っておかなければいけません」と両親に送り、手紙を書く気にもなれなかったことがわかります……。

フィンガルの洞窟(海から)

洞窟内から
スタッファ島周辺の海域は、メンデルスゾーンの時代からすでに野生のツノメドリやアザラシが生息していました。

ハイランドや湖沼地帯を巡ったあと、
8月15日、グラスゴーに戻ったメンデルスゾーンは、両親へスコットランドからの最後の手紙を送ります。

「スコットランドの自然はとても厳しかった。 

木々が倒れ、岩が崩れるほどの大雨が突然降り、現地の新聞では毎日そのことばかりが取り上げられている。

田舎の惨めさや孤独さをここに書いても、絶対に時間が足りない。

そして10日間、旅行者が絶対に足を踏み入れないような大自然を歩き続けた。
現地に住む人間は非常に排他的で、何を質問しても「ノー」としか返答がなく、よそ者扱いされ、冷たくあしらわれる。

飲み物はどこに行ってもウィスキーしかない。教会も大通りも庭園もない。多くの建物が廃墟になっている。

この地が憂鬱な場所だと言われるのは、当然のことでしょう。

それでも、私たち二人は本当に楽しい時間を過ごした。笑い合い、スケッチし、食べられるものはすべて食べ、大自然に向かって大声で叫び、毎日12時間泥のように眠りました。

この日々の思い出は、死ぬまで決して忘れることはないでしょう。」、
(ontomo 大井駿より抜粋)


ドイツ音楽の父のクリスマスの歴史

2024-12-10 20:57:00 | ルネッサンス
月曜日は午後から火曜日の子育てサロンでのクリスマスコンサートの合わせ練習です。
絵帆を読んでくれるOさんはスタッフの1人なのですが、なかなか絵本を読むのが上手いです。
音楽に合わせて読むのは難しいと思うのですが、昔、合唱をされていたとかで、楽譜を読みながら上手く合わせてくれます。

ピアノのTさんも絶賛。

明日はなんとかうまく行きそうです。

ドレスや楽器、鈴やタンバリン、会館はピアノが無いので電子ピアノ。
これを持っていくと車の荷台は一杯になりました。

これとOさんが作ってくれたフェルトのベル。Yさんのプログラム、会館にあるクリスマス飾り、ボードに貼る歌詞カード、ハンドベル、パラバルーン、クリスマスプ…おっと!これは秘密。

バスフルート
子どもたち、たくさん来てくれると良いなぁ〜!

ハインリッヒ シュッツ
Heinrich Schütz (1585 - 1672):
神聖ローマ帝国ケレストリッチ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ドレスデン没
 
クリストフ・スペトナー画。1650–60年頃、ライプツィヒ
ハインリヒ・シュッツはドイツの初期バロック音楽を代表し、ヨハン・ヘルマン・シャインやザムエル・シャイトとともに「3S」と呼ばれています。

大バッハ生誕のちょうど100年前に生まれ、ドイツ音楽に息吹を与えた「ドイツ音楽の父」と形容されています。

1585年にドイツ中部テューリンゲン州ケストリッツで、宿屋を経営するクリストフ・シュッツとユーフロジーネ・ビーガーの長男(8人兄弟の2番目)として生まれ、翌日、同地の聖レオンハルト教会で洗礼を受けました。

1590年に家族はワイセンフェルスに移って新しい宿屋の経営を始め、ここで少年時代を過ごしています。

1599年、14歳のシュッツはヘッセン=カッセル方伯モーリッツ

に音楽の才能を見出されてカッセルの教会学校の歌手となり、ギムナジウムに入りました。

1607年からはマールブルクで法律を学ぶことができるようになり、同時にオルガン演奏と作曲の勉強も始めました。

卒業後、方伯の奨学金を得て、1609年にイタリアに赴き、ヴェネツィア サン・マルコ寺院


のオルガニストであるジョヴァンニ・ガブリエリの弟子となりました。

この間、1611年に最初の公式曲集「イル・プリモ・リブロ・ディ・マドリガリ」(マドリガル集第1集、SWV 1-19)を完成しました。

死の床にあったガブリエリから、シュッツは指輪の遺贈を受けています。

シュッツが「師匠」と呼んだのは生涯でガブリエリただ一人でした。その師匠ガブリエリは1612年に亡くなりました。

翌1613年、ドイツに帰り、方伯モーリッツのはからいでカッセルの第2オルガニストに就任。

1615年、ザクセン選帝侯
ヨハン・ゲオルク1世(1585- 1656年)ザクセン選帝侯(在位:1611 - 1656年)
の宮廷に移って、ドレスデン宮廷楽団(現在のシュターツカペレ・ドレスデン)

の指揮を委ねられました。

当時の楽長ロギエール・ミヒャエルは病気療養中で、ミヒャエル・プレトリウスが代行していたため、初めはプレトリウスと並んで指揮を執っていました。

1617年に正式に宮廷礼拝堂つきの作曲家となり、1621年にプレトリウスが死んで後は、1672年に亡くなるまでシュッツが楽長の地位につきました。

1627年
この間、1619年に「ダビデ詩篇歌集」を刊行して方伯に献呈しました。

ダビデ詩篇歌集 初版の表紙

同年にマグダレーナ・ウィルデックと結婚し、その後、二人の娘を得ましたが、アンナ・ユスティーナは17歳で亡くなりました。

一方ユーフロジーネは、ライプツィヒ市長を務めたクリストフ・ピンカーと結婚したものの、彼らの娘ゲルトラウト・ユーフロジーネには子どもがなかったため、シュッツの血統は絶えています。

クリスマスの歴史
オラトリオ 喜ばしきイエス・キリスト生誕の物語 
Weihnachtshistorie SWV 435 (1664)
福音書、ルカとマタイによるクリスマスの物語を、教会の礼拝で使用する音楽として作曲されました。

この作品はおそらく 1660 年にドレスデンで初演され、1664 年に部分的に出版されました。
東方の3博士がイエス・キリストがお生まれになったと聞き、探しにやってきました。

ヘロデ王はこれを聞いて恐れ、エルサレム全土も同行し、民の中から祭司長と律法学者をすべて集め、キリストがどこで生まれるのか尋ねたところ、彼らはヘロデに言った、

大祭司と律法学者
ユダの地のベツレヘムで、預言者は次のように書いているからです:そして、ユダの地のベツレヘムよ、あなたはユダの君主の中で決して最も小さい者ではありません。なぜなら、あなたから私のところに公爵が来るからです。わが民イスラエルの主となってください。





アンゲラー神父の交響曲

2024-12-09 21:02:00 | 古典
日曜日の御前は京田辺でレッスン。
その後、ピアノのSさんに子どもたちが使う楽器を借りました。
ファミリーポートから借りられたのはタンバリン、トライアングル各1個と鈴が20個。

鈴はOさんがクリスマス用の鈴を作ってくれるので他の楽器を渡したくなりました。
坂田さんに聞いたら、「あるよ〜。」ということでお借りすることにしました。

以前一緒に小学生向けワークショップをしていた時に揃えてくれました。

これでひと安心。
バチとセットのものは返してもらうように気をつけなくちゃ。

午後からはギターの川原久美子さんとドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」の練習。

ワンニャンの紅茶を買ってきてくれました。
開けてみると、

ティーパックに分かれています。
猫さんたちをお風呂に入れると美味しい紅茶が飲めます。

夫がベトナムで買ってきたお菓子を出しました。
大豆とココナッツミルクとお砂糖を固めたもの。
「懐かしい味!はったい粉みたい。」
はったい粉…わかるかなぁ?

最後に録画してくれました。私のアンドロイドが容量不足でどうしようもなかったので…。
送ってもらおうとしたら13分は送れない。
川原さんをYouTubeデビューさせてしまいました。非公開ですが。
これに1時間。
とっぷり暮れてしまいました。

エドムント・アンゲラーEdmund Angerer(1740 - 1794年)は、有名な『おもちゃの交響曲』を作曲した音楽家として知られています。

オーストリアの神父です。

エトムント・アンゲラーは1740年、オーストリア大公国のチロル地方のザンクト・ヨハン(St. Johann)生まれ、フィーヒト没。

父は小学校の教師で地元の合唱団の指導者でもあったシュテファン・アンゲラー。

父から音楽の手ほどきを受け、さらにインスブルック郊外の町ハルの児童合唱団に入ります。

1758年、ベネディクト会修道士としてインスブルックから東に30キロほどの町フィーヒト(Fiecht)のフィーヒト修道院

に入り、当地で合唱指導者、オルガン奏者、音楽教師として働きました。

エトムント・アンゲラー神父はここで数多くの教会作品やオペレッタ、音楽劇を作曲し、尊敬と名声を得て1794年に同院内で死去しました。

「おもちゃの交響曲」は永らく作曲者がわからず、推測される作曲者としてフランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ミヒャエル・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、レオポルト・モーツァルトなどの説が唱えられていました。

エトムント・アンゲラーの名前が世界的に注目されたのは、死後2世紀を経た1992年でした。

チロル地方シュタムス修道院(Stift Stams)

の音楽蔵書の中から、1785年ごろ当院の神父シュテファン・パルセッリ(Stefan Paluselli, 1748年 - 1805年)が写譜した『おもちゃの交響曲』のスコアが発見されました。

そこには同じくチロル出身で、それまで忘れ去られた音楽家エトムント・アンゲラーが1770年ころに作曲したと記されていました。

またタイトルとして "Berchtolds-Gaden Musick"(「ベルヒテスガーデンの玩具店製のおもちゃを使った音楽」といった意味の造語)が付けられていました。

ベルヒテスガーデンはドイツチロル地方の街でおもちゃ作りで有名でした。

パルセッリの写本ではバイエルン州の著名な保養地ベルヒテスガーデンの玩具店製の以下のおもちゃが指定されています。
カッコウ(Kuckuck)、
ウズラ(Wachtel)、
ラッパ(Trompete)、
太鼓(Trommel)、
ガラガラ(Ratsche)、
雌鳥の笛(Orgelhenne)、
トライアングル(Cymbelstern)。
実際の演奏では、雌鳥の笛→ナイチンゲール(水笛)のように適時変更されます。

おもちゃ以外の弦楽器の編成として
ヴァイオリン、ヴィオラ、バス(Violino, e Viola, con Basso)と記されていました。

「おもちゃの交響曲」レオポルド モーツァルト作曲と書かれています。
この動画だけでなくハイドンとなっているものもまだまだ多いです。



かなえられた乙女の祈り

2024-12-08 21:24:00 | ロマン派
土曜日朝、京田辺の母からLINEで「テレビ捨てに行きたい。」とお呼び出し。
ちょうど出張していた夫も関空からリムジンバスで京田辺に帰ってくると言うので迎えに。

その前にファミリーポートひらかたによってクリスマスで使う楽器を借りました。
「久米さん、ちょうどよかった!」とレタスをいただきました。
ポートのお隣の農家さんからいただいたそう。
ボランティアも時々良いことがあります。

それから、次男と実家に行くと、母はリストを持って待っていました。

お買物と保険などの手続き。
いろいろたまっていたようです。
夫をひらってから、と言うとお昼ご飯を作ってくれました。
夫をひらって3人でお昼をいただきました。

それから粗大ごみセンターに使えなくなったテレビをお持ち込み。

「今までありがとう。」と、テレビを置いて来ました。

こちらはみんなが持ち込んだクーラー。
みんな、今まで私たちのために働いてくれてありがとうございました。

ゴミと音楽と言えば、ゴミ収集車の音楽。

前に住んでいた寝屋川市では「赤とんぼ」でしたが、枚方市は無音。
調べてみたら、家庭ごみ「おさるのかごや」プラごみ「草競馬」も言うところも。

「グリーン・スリーブス」
「乙女の祈り』(バダジェフスカ)
『エリーゼの為に』(ベートーヴェン)
『好きです かわさき 愛の街』(山本直純)
『ヨコハマさわやかさん』
「五木の子守唄」
「1週間」ロシア民謡
「やぎさん郵便」
『エーデルワイス』(ロジャース)
『ます』(シューベルト)
『故郷の空』(スコットランド民謡
「しゃぼん玉」
「小鳥が来る街」
「おうま」

「赤とんぼ」が多いのは
「ノボル電機」1945年に大阪市東成区で創業し、ホーン型スピーカーの設計や製造を手掛け、2018年に大阪府枚方市に本社工場を移転しています。

この会社がゴミ収集車用の音響を早くから手がけ、
利用者は標準的に提供されていた8つの定番曲

「赤とんぼ」、「五木の子守歌」、「おさるのかごや」、「エリーゼのために」、「乙女の祈り」、「故郷の空」、「おうま」、「草競馬」

の中から1曲を選択して注文する形になっていたそうで、「赤とんぼ」を選ぶ自治体が多かったようです。

台湾では、ゴミ収集車は「エリーゼのために」だそうです。
ドイツから贈られたゴミ収集車を使ったことから、ドイツの作曲家ベートーヴェンに敬意を込めて「エリーゼのために」だそうです。

エリーゼのためには前に書いたので

「乙女の祈り」

テクラ・ボンダジェフスカ=バラノフスカ(1823 - 1861年)ポーランドムワヴァ生まれ、ワルシャワ没

作曲家・ピアニスト。二重姓の後半は夫の姓(の女性形)です。

サロンでのピアノ演奏家として活躍し自ら作曲も行っていました。

1851年にワルシャワで出版された『乙女の祈り』(波: Modlitwa dziewicy, )がパリの音楽雑誌「La Revue et Gazette Musicale」に転載され、その名が広く知られるところとなりました。
『乙女の祈り』カバーに描かれたテクラ・バダジェフスカ
この曲を作曲したのち、J・バラノフスキと結婚し5人の子供をもうけました。

娘とピアノを演奏するテクラ・ボンダジェフスカ

小品を35曲ほど作曲しましたが、1861年に病弱のためにワルシャワにて38歳ほどで亡くなりました。

ボンダジェフスカの墓(ワルシャワ、ボヴォンズキ墓地

彼女に関する作品や資料については第二次世界大戦等により大半が消失したため、現在では『乙女の祈り』以外はほとんど知られておらず、特に本国ポーランドでは認知度が低いそうです。

これは「祈り」という言葉が、共産圏の影響下にあったポーランドで不適切とみなされたためと、 
音楽教育を受けていないこの『少女』に対して、「浅薄な素人くささを超えられなかった」と、19世紀の音楽事典が酷評を加え、当時の「偏見」の存在を指摘されています。

日刊紙「Kurjer Warszawski」(1851年4月14日発行)より「乙女の祈り」出版を報じる記事。

1851年4月14日発行のワルシャワの日刊紙に「最近ボンダジェフスカ嬢作曲による《乙女の祈り》というピアノ曲が出版された。楽譜は各ミュージック・ショップで購入可能。価格は45コペイカ」という内容の記事が掲載されました。

楽譜はまずワルシャワで出版され、続いて1858年9月にフランスの音楽雑誌「La Revue et Gazette Musicale」の付録としてパリで発表されました。

世界各国の80以上の出版者から刊行され、幅広く人気を博しました。

続編として、同じ作曲家により「かなえられた祈り(「乙女の祈り」への答え)」が作曲されています。

「かなえられた乙女の祈り」


今やガンジス川に太陽はのぼり

2024-12-07 21:00:00 | バロック
金曜日の午前中は京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンに行きました。
久しぶりの快晴。でも寒かった。

ライヒャルトのスケール練習の2番とドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を観ていただきました。

スケールは不安な所に入るとスピードが速くなる癖を見つけられてしまいました。
ゆっくり丁寧に!

さて、レッスン後、久しぶりに出町商店街をウロウロ。

ふたばと鯖寿司は行列で近寄れません。



お腹すいたなぁ。
と、出町ろろろに行ってみました。

予約が無いと入れないお店ですが、3回位断られました。
恐る恐る「空いてますか?」と声かけてみたら、「お席作りますのでお待ち下さい。」

やった〜!
初めてです。

お昼はこのお重弁当のみのメニュー。

土鍋で炊くごはん。

お野菜が小鉢に入ってお浸し、生姜、かつお出汁、胡麻和えなどいろいろな味でついています。

お味噌汁、温かいほうじ茶。

かき揚げ、だし巻き片栗粉あんかけはやさしい味。
胡麻豆腐の揚げたのが1番気に入りました。
これで税込1400円。
また来ようっと。

この本屋さんもお気に入り

いつもの骨董屋さん
映画館「出町座」

紅葉はもう終わりかけだけれど、いちょうは綺麗でした。

お天気良いとやっぱりいいなぁ。

アレッサンドロ・スカルラッティ
(1660 – 1725年)シチリア島パレルモ生まれ、ナポリ王国ナポリ没

は、当時スペイン帝国の統治下にあった現在のイタリアで生まれた作曲家、チェンバロ奏者でした。

貧しい家庭に生まれたアレッサンドロは、まだ子供でしたが、1672 年にローマの親類の元に送られました。

当時、ローマの数多くの教会の聖歌隊の子ども歌手に対する大きな需要がありました。

バロック時代。彼はナポリ楽派の最も重要な代表者の一人で、主にオペラ言語の発展において音楽史において基本的な役割を果たし、ダ・カーポのアリアとイタリアの三楽章形式の完成に貢献しました。

伴奏レチタティーヴォ(人間の声をもとに考案された音楽形式で、会話するときに、声の抑揚があるのが特徴です)と呼ばれるオーケストラとのレチタティーヴォや、幕の終わりに協奏曲 を使用した最初の作曲家の一人です。

彼の作品リストは膨大で、一般にはほとんど知られていませんが、その中には 100 曲以上のイタリア オペラ、800 曲のイタリアカンタータ、声と楽器のためのセレナーデ、マドリガーレ、38 曲のオラトリオ(そのうち 20 曲だけが保存されています) が含まれます。

100の神聖なモテットとカンタータ、受難曲、12のミサ曲。器楽のジャンルでは、交響曲、グロッシ協奏曲、さまざまな楽器のためのソナタ、オルガンとチェンバロのための作品も作曲しました。

スカルラッティはローマでわずか 18 歳で作曲家として名を上げ始め、1679 年に彼の最初の有名なオペラ『Gli Equivoci nel Sembiante』を制作し、大成功を収めました。

「今や太陽はガンジス川に」は
歌劇「愛の誠/L’honesta negli amori」DF ベルニーニまたはドメニコ フィリッポコンティーニのイタリア語の本を使用した3幕からなる音楽劇。
この劇中に歌われるアリアとなっています。

ドメニコ・アントニオ・ヴァッカロ (Domenico Antonio Vaccaro) によるスカルラッティの肖像画
この歌劇は、1680年20歳で作曲。
当時ローマに住んでいた、スウェーデン女王のクリスティーナ(1626-1689年)

の館で上演されたものです。

今や太陽はガンジス川から
さらに明るく輝いて
朝もやの涙を
一滴残さずかわかしてゆく

こがね色の日差しで
あらゆる緑を飾り立て
天なる星たちで
牧場(まきば)を彩る


音楽的過激主義な組曲

2024-12-06 21:00:00 | 近代
うちのサンルームでいちご🍓の花が咲いています。
植えっぱなし…でも花季は4-6月のはず。おかしいなぁ。

かわいいからいいけれど。

今日は12月10日(火)のクリスマスの絵本の製本をしました。
色画用紙で裏張りしてⅠ枚ずつボンドで貼り合わせて

背表紙の布をやはりボンドでつけて完成!

クリスマスコンサートで読んでくれる同じスタッフのOさん宅に渡しに行ってようやくホッとしました。

Oさん、手作りのクリスマスのジングルベル作ってくれていました。

私はその間に子育て支援センターに楽器、タンバリンや鈴の貸出しを申込み。
土曜日に借りに行って、10日当日返却します。
ハンドベルは以前コミュニティで買ってもらったものがあります。
準備していると練習時間が少なくなります。

12月15日(日)西宮ギター練習会でドップラーのハンガリー田園幻想曲を演奏します。

12月26日「聴き合い会」にはピアノとクラリネットと組曲「ドリー」とテレマン2曲とおそらくクーラウも。

1月19日(日)ハープの発表会が塚口t-raumであります。
これは本当にやばいです。
合奏発表会なので、ヴァイオリンと共演します。
お相手してくれる人を探していましたが、今日ようやく引き受けてもらえました。

ハープは初心者なので申し訳ない感じですが、いつもギター伴奏してくれる渡邊さんがヴァイオリンもされてて引き受けてくれました。

あと、フルートと金重さんのヴィオラ、鈴木さんのハープでドビュッシーの「ベルガマスク」組曲のメヌエット。

金重さんのハープに合わせてビゼーの「アルルの女」のメヌエットをフルートで演奏します。

フルートはまだいいんだけど…。
ハープは…練習、練習。

絵本を渡したら、「当日のスケジュールはどうするの?とサロンのグループLINEが…ダメダメ追いついてない💦

明日は富久田先生のレッスン。
ドップラーの練習はどうするんだ〜!!

ということで日が暮れていきます。
忙しい音楽と言えばバレエ音楽「アラとロリー」が検索で出てきます。

セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

1918年プロコフィエフ
1914年、ディアギレフ(1872-1928年)


は、ロシアの季節のためのバレエ音楽の制作に、将来有望な若手作曲家プロコフィエフを参加させることにしました。

彼はプロコフィエフが提案したオペラ『遊び人』(ドストエフスキーの小説による歌劇)を拒否し、ディアギレフのロシア・バレエ団のためにバレエ『アラとロリー』を発注しました。

プロコフィエフは 1914 年の秋から 1915 年の冬にかけてバレエの音楽に取り組みましたが、この曲は完成しませんでした。

この台本は、スキタイ(紀元前〜4世紀頃までカスピ海南岸に存在したイラン語を話す民族)の英雄ロリウス、古代スラブ神話に基づいたもので、セルゲイ ゴロデツキー(アクメイズム=言葉の正確性を追求した一派)


によって編纂されました。

バレエの制作は振付師のボリス・ロマノフに委託されました。

しかし、1915年にローマで作曲家と会ったとき、興行主はプロコフィエフの最初のバレエの上演を拒否しました。

この組曲は 1915 年 9 月 2 日に完成し、A. I. シロティはこの作品をマリインスキー劇場の 1915/16 シーズンのコンサート プログラムに組み入れました。

作曲家と彼の親しい友人であるミャスコフスキーとアサフィエフは、「スキタイ組曲」を「彼がこれまでに書いたオーケストラ作品の中で最大かつ最も重要なもの」とみなしましたが、

「大衆は依然としてそれを音楽的過激主義の表れ」と認識していました。

1916年1月16日(同29日)の『スキタイ組曲』の初演は、第2回ピアノ演奏会以上に騒々しいスキャンダルと抗議活動を引き起こしました。

音楽評論家らはスキタイ組曲は間違いなくイーゴリ・ストラヴィンスキーの『春の祭典』の音楽の影響を受けていることに同意しています。

1.ヴェレス(太陽神)と彼の娘アラへの崇拝 ( Allegro feroce )
野蛮で色彩的な音楽は、スキタイ人の太陽信仰を表しています。兇暴な部分は太陽神ヴェレスを、柔和な部分はその娘アラを表しています。

2.邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り (アレグロ・ソステヌート)
スキタイ人がアラに生贄を捧げていると、7匹の魔物に取り囲まれた邪神チュジボーグが野卑な踊りを舞い始めます。

3.夜 (アンダンティーノ)
邪神チュジボーグは夜陰に乗じてアラを襲う。月の女神たちがアラを慰める。

4.ロリーの栄えある門出と太陽の行進勇者ロリーがアラを救いに現れます。太陽神ヴェレスがロリーに肩入れして、チュジボーグを打ち負かします。勇者と太陽神が勝ち、日の出を表す音楽によって組曲が終わりとなります。












音楽は趣味

2024-12-05 21:00:00 | 国民楽派
水曜日は午後はピアノのTさんと子育てサロンのクリスマスコンサートの打合せです。

プログラムがやっと決まり、後は練習あるのみ。と言っても、お茶とお菓子は欠かせません。
おしゃべりして、練習して…。

今年はバスフルートと木管頭部管も使うことにしました。

また、ボロディンの弦楽四重奏曲のノットゥルノで絵本を読むことにしています。

サロンの、スタッフYさんがプログラムを作ってLINEで送ってくれました。

かわいいでしょ💖

私は音楽の他に絵本の製本が残っています。テープや色画用紙が足りなくなったので夜買いに出ました。
だいぶ寒くなっていました。

12月10日(火)10:00 会館との2
ぽっぽくらふのクリスマスコンサート
サンタクロースもやってくる…かも。
申込み不要、無料 対象3歳までの子どもと保護者 妊婦さん。
ご来場お待ちしています。

アレクサンドル ボロディン(1833-1878年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生没

ボロディンは、 62歳のジョージア貴族ルカ・ステパノヴィチ・ゲデヴァニシヴィリと、25歳の既婚ロシア人女性エヴドキア・コンスタンチノヴナ・アントノワの私生児としてサンクトペテルブルクで生まれました。

貴族であるゲデヴァニシヴィリは彼をロシア人農奴の一人であるポルフィリー・ボロディンの息子として登録しました。

この登録の結果、アレクサンドルと名目上のロシア人父ポルフィリーは、アレクサンドルの実父ルカの農奴として正式に登録されました。

ジョージア人の父は、アレクサンドルが7歳のときに彼を農奴から解放し、彼と母親に住居と金銭を提供しました。

それにもかかわらず、アレクサンドルは母親から公に認められることはなく、若いボロディンは母親を「叔母」と呼んでいました。

家庭教師をつけられ、家と資金援助を父から受けて高い教育を受け、サンクトペテルブルクの医科外科アカデミーに入り、卒業しました。
1862年からは同校の教授に就任し化学の分野で成果を上げ続けました。

ボロディンは1862年にミリイ・バラキレフ(1837-1910年)

と出会い、彼から音楽を学びましたが、生涯趣味として音楽に関わりました。

バラキレフ・サークルのメンバーの中で、チェロ奏者として室内楽の演奏にも熱心で、1859年から1861年にかけてハイデルベルクで化学を学んでいた時期には室内楽への関心を高めています。

この初期の時期には、室内楽作品のほか、弦楽六重奏曲やピアノ五重奏曲も作曲されています。
また、ボロディンは、フェリックス・メンデルスゾーンの作品を参考にして、楽曲の主題構成や楽器構成を作っています。

弦楽四重奏曲第2番は、アレクサンドル・ボロディンが1881年に作曲しました。  

ボロディンの妻エカテリーナ・プロトポワ


に捧げられました。この四重奏曲は結婚20周年記念の贈り物であり、ハイデルベルクでの夫婦の初めての出会いを想起させる曲目です。

4つの楽章のうち、第3楽章「ノットゥルノ」が最も有名です 。

ボロディンは1881年、モスクワ南東部のジトヴォにある友人でマイナーな作曲家ニコライ・ロディジェンスキーの邸宅に滞在していたときに、弦楽四重奏曲を急いで作曲しました。

メンデルスゾーンの影響があったせいで、ロシア5人組に属するモデスト・ムソルグスキーなどからは「ロシア国民楽派の信条に反する」と強い非難を浴びました。

初演は完成の翌年の1882年2月7日(または3月9日)に、サンクトペテルブルクで開催されたロシア音楽協会の演奏会で、前作を初演したガルキン弦楽四重奏団によって行われました。

また、同年12月23日には、レオポルト・アウアー


が率いる弦楽四重奏団によって再演されました。

1894年再版
楽譜はボロディンの生前には出版されず、ボロディンが亡くなった翌年の1888年に、ライプツィヒのベリャーエフ社から出版されました。













クラリネットとトリオ

2024-12-04 21:01:00 | 近代
聴き合い会にオーケストラで出会ったクラリネット吹きさんを誘ったら、「やりたい!」と言うことです。
「何を吹きたい?」と聞くと「久米さんと合奏したい。」うれしいことを言ってくれます。
前回聴き合い会に来てくださったピアニストさん

を誘ったらこちらも快いお返事で、3人でトリオをすることにしました。

imslp(楽譜インターネット図書館)で楽譜を探したら、フルート、クラリネット、ピアノのトリオは数が少なくあまり選べませんでした。

編曲ものでフォーレの組曲「ドリー」から楽譜のあった3曲を選びました。

そして初合わせ。
お茶を飲んで、お菓子を食べてスタート。

クラリネット…いい音です。合わせも楽しかったです。

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没

1870年代フォーレ
『ドリー』(Dolly)作品56は、ガブリエル・フォーレが作曲したピアノ連弾のための6曲からなる組曲です。

フォーレが妻のマリーを通じて親しくなった銀行家で正式な夫シズスモン・バルダックの妻エンマ・バルダック(1862-1934年)
(後年のドビュッシー夫人)。

彼女の娘で、1892年に生まれたエレーヌの誕生日祝いに毎年曲を贈っていました。
その曲を中心に編まれたのが組曲「ドリー」です。

タイトルの「ドリー」というのはエレーヌの愛称で、フォーレはこの曲集をレジーナ=エレーヌ バルダック(1892-1935年)に献呈しています。

フォーレとピアノを弾くロンバール夫人、
1913年にルガーノ湖畔のトレヴァーノで、作曲家が主人と女主人の娘である若いロンバール嬢のプリモに第2番を演奏しているところです。フォーレはよく子どもたちと演奏しています。
1898年にアルフレッド・コルトーとエドゥアール・リスラーの連弾によって初演され、翌年には初演者コルトー
の手によるピアノ独奏版が、1906年にはアンリ・ラボーによる管弦楽編曲版が出版され、原曲に加え編曲版も有名になっています。
現在もいろいろな楽器に編曲されている人気の演目です。

フォーレとエンマの関係は友人と言うよりも愛人関係だったらしく、実はエレーヌもフォーレの子ではないかという説も強く語られています。

6つの曲で構成されています。

組曲「ドリー」
第1曲 子守歌(Berceuse)
1864年友人の娘スザンヌ・ガルニエのために書かれました。この曲のみ先行して1894年に単独で出版されています。

第2曲 ミ・ア・ウ(mi-a-ou)
1894年にエレーヌの2歳を祝う作品として作曲されました。
フォーレが元々与えたタイトルは「ムシュー・アウル(Messieu Aoul!)」で、エレーヌが兄のラウルを呼ぶ時に、幼児だったのでミアウと呼んだのをおもしろかってつけました。

ところが出版社のジュリー アメルがが猫の鳴き声を示すこの名前をつけました。

第3曲 ドリーの庭(Le jardin de Dolly)
1895年作曲。エレーヌ3歳の誕生日に贈られました。
自作のヴァイオリン・ソナタ第1番から最終楽章の主題が引用されています。

第4曲 キティー・ヴァルス(Kitty-valse)
1896年作曲。エレーヌ4歳の誕生日に贈られました。
これもジュリー アメルがタイトルを付けました。

フォーレが元々与えたタイトルは「ケティ・ヴァルス(Ketty Valse)」。

ケティとはラウルの飼い犬です。

第5曲 優しさ(Tendresse)
1896年に作曲された「テンドレス」は、もともと音楽出版者の妻アデラ・マディソンに捧げられました。

第6曲 スペインの踊り(Le pas espagnol)
組曲はスペイン舞曲で終わります。
これはフォーレの友人エマニュエル・シャブリエのスペイン風の、生き生きとした絵画的な情景描写です。

フルート、クラリネット、ピアノによる組曲「ドリー」




マンドリン四重奏

2024-12-03 21:00:00 | ロマン派
土曜市の夜は大阪樟蔭女子大学マンドリンクラブの定期演奏会でした。

部員数が少ない中、がんばっていました。


今年はマンドリン四重奏を今年卒業の部員と演奏してくれました。
これがなかなかよかったです。

カルロ・ムニエル(Carlo Munier、1859年7月15日 - 1911年2月10日)
イタリア ナポリ生まれ、イタリア フィレンツェ没。


マンドリン奏者、作曲家。

それまでワルツ・セレナーデ・行進曲のような軽音楽の分野に限られていたマンドリンを、クラシック音楽の楽器として認知させるよう尽力し、マンドリン復興の祖と評価されています。

幼くして父母を喪い、母方の祖父のパスクワーレ・ヴィナッチャ

に養育されました。
ヴィナッチャ家は18世紀前半から続く楽器製作メーカーとして知られていて、パスクワーレはマンドリンに改変を加え、モダンマンドリンの祖の一人とみなされています。

ムニエルはヴィナッチャ家の人々からマンドリンの演奏を教わり、初めての作品の『マンドリンとギターのための3つのマズルカ』はおじのジェンナーロに捧げられています。

最初に音楽の手ほどきを受けたヴィナッチャ家の工房で成長したムニエルは、カルミネ・デ・ラウレンティス(1869年にリコルディから『マンドリン教則本』を出版したナポリの音楽家)からマンドリンとギターのレッスンを受けました。

15歳の時にナポリ音楽院

に入学し、ピアノ・和声・作曲を学び、19歳で卒業しました。

卒業後はナポリで演奏会を開くようになり、また最初の作品が出版されました。

それは『椿姫』と『清教徒』を2つのマンドリン、マンドラ、ピアノの四重奏に編曲したもので、後者はイタリア王妃に献呈されました。

22歳の時にフィレンツェに移り、そこで後半生を過ごすこととなりました。
フィレンツェではすぐにヴィルトゥオーソとしての名声を確立し、またマンドリン・ギター教室を開きました。
著名な生徒には王妃のマルゲリータ(1851-1926年)
がいます。

1890年に第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドリュートからなるマンドリン四重奏団を結成し、イタリア全土で演奏活動を行いました。
そのためこの形態のアンサンブルが一般的になることとなりました。

1892年には著名なヴァイオリニストのカミッロ・シヴォリが主催するジェノヴァ国際コンクールで四重奏団は一等賞を獲得し、さらに『協奏曲ト長調』で作曲・演奏の両方で金賞を獲得しました。

1909年10月、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869-1947年)


の前で『序曲ニ長調』などの自作の演奏を行い、賞賛の言葉を受けました。

1910年にマルセイユとアントウェルペンまで演奏旅行を行いましたが、フィレンツェに戻った直後に病にかかり死去しました。

最初の妻のルイーザは若くして亡くなり、ムニエルは『悲歌』を捧げています。
2番目の妻のアルミダとの間にはルイーザとエレナの2人の娘を儲けました


マンドリン四重奏は、マンドリン2本、マンドラ、マンドリンチェロとギターのために作られています。

マンドリン四重奏 op128



ブラスバンドでサロメ

2024-12-02 21:02:00 | ロマン派
土曜日午前は地域のコミュニティのお祭りのお手伝いをしました。

体育館の担当。
中学のブラスバンドがあったり

地元ダンスチームや
小学生有志のダンスや歌があったりします。

演目ごとに一斉に出入りがあるので、怪我しないようにエントラスにパンチカーペットをひいて外まででてから靴を脱いでもらいます。
体育館は土足厳禁。
今年から靴袋持参で来てもらうことになっていますが、なかなか浸透せず8割は袋を渡します。
3人で渡していきますが、靴のままで上る人も出てきて「靴をお脱ぎください。」「袋はお持ちですか?」と言い続ける感じです。

私は3年前は父の具合が悪くなって欠席、次の年はコロナ、最後は骨折で参加できませんでした。

今年GさんMさんと、「岩清水八幡宮で厄除けしてもらおう。」と誘われてお祓いにいった甲斐があって、今年は無事お手伝いすることができました。
PTAの子育て仲間や、子育てサロンを卒業した子どもを連れたおかあさんに出会ったり、地域の同窓会状態で楽しかったです。

午後からはトリオの合わせがあったので帰りました。

リヒャルト シュトラウス(1864-1949年)バイエルン王国ミュンヘン生まれ、ドイツ連邦共和国バイエルン州ガルミッシュ バルテンキユルヒェン没

1903-1905年に作曲された歌劇「サロメ」op54はオスカー ワイルド

1882年、ナポレオン・サロニー撮影
の戯曲にヘートヴィヒ ラハマンがドイツ語約翻したものに音楽をつけたものです。

初演の広告

サロメの物語はもともと『新約聖書』の挿話ですが、オスカー・ワイルド
の戯曲になる頃には預言者の生首に少女が接吻するという世紀末芸術に変容しています。

シュトラウスは最初、アントン・リントナーの台本による作曲を考えていましたが、原文をそのまま用いる方が良いと判断し、原作の独訳を台本としています。

前奏なしの4場構成となっていて、第4場の「サロメの踊り(7つのヴェールの踊り)」が著名で単独の演奏や録音も存在しています。
日本ではブラスバンドに編曲版が、コンクールの自由曲によく選ばれています。

歌劇「サロメ」あらすじ
紀元30年ごろ、ガリラヤ湖に面したヘロデの宮殿。

ビアズリー サロメ表紙オスカー ワイルド
地下の空の古井戸に幽閉されている預言者ヨカナーンの声が聞こえてきます。

ギュスターヴ・モロー サロメ1876年

そこへサロメが現れる。彼女は義父であるヘロデが自分に投げかける、情欲むき出しの視線に耐えかね、宴席を抜け出してきたのだったが、聞こえてくる声に興味を示し、「ヨカナーンをここへ連れて来い」といいます。

ヘロデの目 ビアズリー
現れたヨカナーンに圧倒されるサロメ。
ヨカナーンは彼女には見向きもせず、サロメの母ヘロディアスの淫行を非難しますが、サロメはなおも彼に近付こうとします。

ヨハネとサロメ
ヨカナーンはサロメをたしなめつつ自ら古井戸に戻ります。

やがてサロメを探してヘロデがヘロディアスや家臣たちとともに姿を現します。

へロディアの入場 ビアズリー
ヘロデはサロメを自分の側に呼び寄せ、関心を惹こうと酒や果物を勧めますが、サロメはまったく興味を示さず、ヘロディアスも娘を王に近づけまいとします。

そこへヘロデ夫妻の行状を非難するヨカナーンの声。 

ヘロディアスは激怒し、「彼を黙らせるか、ユダヤ人たちに引き渡してしまえ!」と叫び、ユダヤ人とナザレ人たちは言い争いを始めます。

ヨカナーンの声はなおも響いてくるので、心を乱されたヘロデは気分直しにサロメに舞を所望します。

サロメははじめはそれに応じようとしません。
ヘロデが「褒美は何でもほしいものを与える。」と持ちかけたため、サロメは裸身に7枚の薄いヴェールを身につけて踊り始めます。

ベリーダンス 7つのヴェールの踊り ビアズリー

官能的な舞が進むにつれ、ヴェールを一枚ずつ脱ぎ捨ててゆくサロメ。

ヘロデは激しく興奮し、やがて舞を終えたサロメに何が欲しいかと尋ねます。

サロメは銀の大皿に載せたヨカナーンの生首を所望します。

さすがに狼狽したヘロデは代わりのものとして「宝石や白いクジャク、あるいは自分の所領の半分ではどうか、」と提案するものの、サロメは頑として合意しません。

ヘロデはとうとう根負けし、ヘロディアスが彼の指から死刑を命じる死の指輪を抜き取って首切り役人に渡します。

役人は古井戸の中へ入ってゆき、サロメはその近くで耳を澄ましています。

不気味な静寂だけが続き、サロメが苛立ちを募らせていると、騒々しい大音響が響き、首切り役人が銀の大皿に乗せたヨカナーンの生首を持って現れます。

グイド・レーニ作「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」

クライマックス ビアズリー 1894年
サロメがヨハネの首に口づけをし、有名なセリフ「おまえの口に口づけしたよ、ヨカナーン」と語る場面。
サロメは狂喜してそれを掴むと、「お前は私にくちづけさせてはくれなかった。だから今こうして私が、」と長いモノローグを歌った後、恍惚としてヨカナーンの生首にくちづけします。

聖ヨハネの首を持つサロメ(ティッツアーノ、1515年頃作)
そのさまに慄然としたヘロデはサロメを殺せと兵士たちに命じ、サロメは彼らの楯に押しつぶされて死にます。

歌劇「サロメ」より7つのヴェールの踊り ブラスバンド版で