「心の防波堤を高くすることが大事、作られた防波堤を頼ってはいけない」
今回も偶然お世話になった語り部ガイドの新沼さんのお言葉です。
いかに常日ごろから災害に対して注意おさおさ怠りなく準備しておくか。それが命を守ることになると。
今、陸前高田で建設されている防波堤です。
台形型で上部が幅4メートルの下部が幅50メートル、そして高さが12メートル。
今回の津波は海に近いここら辺で15,1メートルの高さまできたそうだ。「セルフ」の看板の上青い矢印まで。
それなのに今建設中の防波堤は12メートル、って変。だからそれに頼ってはいけないと。
陸前高田は町が根こそぎ津波に持っていかれたから、
復興の在り方には大きく意見が分かれたりすることはなかったとのことだ。
がれきの山だったところは平らになり、かさ上げ工事が進んでいる。
陸前高田には4つの震災の遺構が残されることになったそうな。
①道の駅 高田松原 高田松原7万本の松の根っこ
②下宿定住促進住宅 ③気仙中学
(web ブログからお借りしました)
「なぜ、こんな海のそばに学校が」
陸前高田市気仙中の越恵理子校長(56)は2009年4月に赴任し、窓越しの風景に違和感を覚えた。
堤防を挟み、校庭の向こう側に広田湾の白波が見えた。 内陸部の奥州市出身で津波には詳しくない。
知識が少なかったからこそ、素朴な不安から避難経路の見直しを始めた。
津波を想定した避難場所は、学校近くの駐車場だった。
3階建て校舎の高さとほとんど変わらず、安全には思えなかった。
周辺を調べると、高台に通じる小道があった。急勾配な道を通り民家の脇を抜けると、かなり高い場所まで登れた。
防災訓練に関連し、1960年のチリ地震津波を経験した地域住民の菅野昌雄さん(78)を講師に招いた。
「津波は気仙川の水位が下がった後、川沿いにやってくる」
「校舎の屋上は駄目だ。さらに高い所に逃げられる場所に避難しないと」。
どの話も示唆に富んでいた。
3月11日、生徒86人と教職員はいったん駐車場に退避した。
しかし気仙川の川底が見えたため、5分と待たずに、小道から高台を目指した。
間もなく、川をさかのぼった津波が堤防を越えたのが見えた。その後、校舎も駐車場も濁流の下に沈んだ。
山の土を運んだ巨大なベルトコンベアーの左下の④ユースホステル、。
(向うの山が削られていった。ダンプで運んだら9年間はかかるのが2年で運び終わったそうな)
いずれの建物も犠牲者が出なかったことでこちらもすんなりと決定したとのことです。
それにしても見るだけでもその凄まじさに言葉が出ない。
2012年に来たときはバス車窓から見る景色が、岩泉町から南三陸町までいたるところ瓦礫の山だったが、
今回は目に入るところすべてが土の山と工事車両が行きかうところになっていた。
防波堤工事 残っている松の細さが何とも言えず
高台にある住宅との違いが胸に迫ってくる 1メートルでも高いところに の先人の教えが重い
真ん中 塔が立っている向うに海が ここもすべて持っていかれたのだろう
バス車窓から
津波は家屋敷、田畑、漁業での暮らし等々の目に見えるものだけでなく、
人々の心もみんな根こそぎさらっていったように思われる。
部外者が言うのは簡単だが、それでも言わずにいられない。1日も早い復興を。